1 再出発



「この部屋ともついにお別れか……」

 担当していた幻獣の最後のお世話と引き継ぎを済ませ、私が研究室に着いた時には、すでにそこはもぬけの殻。しん、と静まり返っていた。


 世界には幻獣の研究をしているところは数あれど、ルルイエ幻獣研究所だけは特別。最も古い歴史を持ち、最も多くの成果をあげ、最も多くの優秀な研究者を排出してきた、幻獣研究者なら誰でも憧れる由緒ある研究所だ。私も幻獣、とりわけ竜の研究者を目指し、ルルイエに憧れ、そして幸運なことに末席に加えてもらうことができた。


 私がはじめて配属された先は、コックス室長を主任研究員とする、コックス研究室だった。ここでは幻獣の擬態を解く「エリクサー」という新薬を開発していたのだけれど、実用化された場合に生態系へ及ぼす悪影響が大問題となってしまい、結局研究は凍結、研究室も解散することになったのだった。

 先輩たちはすでに辞令を受け取って、新たな配属先へと向かったようだ。……ようだ、というのは、彼らの荷物をまとめた箱がどこにも見当たらないからで。がらんとした部屋の中では、私の荷物を詰め込んだ箱だけがなんだか悪目立ちしている気がする。


 ルルイエ幻獣研究所に研究員として採用されてから、まだ一年すら経過していない――あと数ヶ月で一年となる――が、とても密度の濃い時間だった。


 入所して早々、兄からの虚偽の密告により、私は酷い扱いを受けた。しかし長い間夢だった研究所に入所できたのだし、きっといつか報われる時がくるからと、大好きな幻獣の飼育をしながら耐えた。

 開発していた新薬のこと、私に執着する兄のこと、その兄を好きだった親友――ただし今は関係がこじれている――のミミのこと。あまりにたくさんのことがありすぎて、これを「充実」と呼んでいいのか、はたまた「混沌」と呼ぶべきなのか、自分としても判断に迷う。中でも一番不可解で一番大変だったことは、ルルイエ幻獣研究所所長にして幻獣研究の権威、ヴィルヘルム・フロイデンベルク博士のことだ。


 彼は私が憧れていた天才研究者で、その正体はまさかの竜。私がこの道を志すきっかけとなった、幼少のころ会った白く美しい竜だった。

 幻獣の中でも竜はとても珍しい。だから彼にも仲間がおらず、自分のことすらろくに知らなかった。だから人間に擬態して、幻獣の研究をすることで、自分を知ろうとしたのだそうだ。ある意味、果てしない自分探し。


 私は彼に出会って間もなく求婚された。もちろん断った。そりゃそうだ、だってまず交際していないのだし、脱ぎたての白衣を渡されたって変態認定する以外に嬉しいと思うはずがない。

 しかし、そんなことでめげてはいけない。私には新しい研究室ばしょ|が待っているのだ。……といっても、どこに配属になったのかは、博士に教えてもらう必要があるのだけど。


 誰もいない研究室で私が物思いにふけっていると、靴の音が聴こえてきた。

 コツ、コツ、コツ……と、硬質な床に響くこのゆったりとした歩調の主は、多分あの人で間違いない。

 間も無く扉が開かれて、入ってきたのは想像通りのあの人物。


「おはよう。今日も可愛いね、私の妻よ」

「違います。妻じゃないです」


 長身、長髪、超絶美形の超天才で、清々しいほどの変態とくれば、ヴィル博士ただ一人。

 羽織っているシワのない白衣も、その中に着込んだシルエットの美しいスーツも、隙のない彼にはよく似合っている。背筋をピンと伸ばしながら胸を張って威風堂々歩く様は、これまでの実績と研究所所長という肩書きに対する自信の現れのようにも見える。


 博士は竜。そこまではいい。理解した。彼が人間離れした美しさなのはそもそも人間でないからで、年齢不詳で長いこと若いままなのは不老不死だからだと、そこまではまだ受け入れられた。

 ただし、結婚相手としては断固として拒否させていただきたい。私は人間百パーセント、混じりっけなしの人間なので、異種族婚など土台無理に決まっている。


 にもかかわらず、私たちはずっと昔に竜式の結婚契約――これを「血の契約」というそうだ――を結んでしまっているらしい。当時の私はそうと知らず博士の求めるがままに、お互いの血を分け合うという儀式を執り行ってしまったので、今となっては後の祭り。

 だから私と博士はすでに、竜の世界では「夫婦」という扱いになるそうだ。博士のことは嫌いじゃないけど、いきなり夫婦なんて聞いてない!

 ヴィル博士は、白衣のポケットから生成り色の封筒を取り出した。それがなんなのか、私はすぐにピンと来た。


「あの」


 辞令だ。そうに違いない。

 ください、と手を差し出してみたが、博士は封筒を翻し、おちょくるように顔の横でヒラヒラと揺らして見せるだけ。椅子から立ち上がり手を伸ばしてみたものの、彼がもっと高く掲げるので、残念ながら届かない。これではイタチごっこである。

「ティナ、この封筒の中に君の配属先が書いてあるんだが……見たい?」

「もちろんです。見せてください」

「式場と辞令、どっちを先に見たいかな? なんなら婚約指輪でもいいのだが」

「当然、辞令一択です」

 式場? 婚約指輪? そんなものを選択肢として提示されても、私には意味がないことをまだこの男は気づかないのだろうか。

 私の返答が想定外だったのか、博士が怯んで動きが止まった。その隙に私は小さく飛び跳ねて、彼の頭上にある封筒をここぞとばかりに奪い取った。

「わざわざ持ってきて下さってありがとうございます、感謝します〜」


 一応のお礼の言葉を口にしながら、私はいそいそと開封する。……が、封蝋がしっかりくっついているので、なかなか上手く開けられない。

 私がまごついている間、博士はその辺の椅子に腰掛けて、つまらなさそうに愚痴をこぼす。

「ちょっとくらいは迷って欲しいな。私と君はとうの昔に『血の契約』をしているのだから、拒む理由もないというのに」

「ヴィル博士、私は先日『その件はなかったことに』とハッキリ申し上げたはずです!」

 手元の辞令を早く確認したいのに、気持ちだけが焦るばかりで、なかなか封蝋が外れない。そのもどかしさと恥ずかしさが相まって、ごまかすために私は博士を睨みつけた。

「だが、契約を取り消すことはいくら私でも不可能だ」

「そっ、それでもです!」


 血の契約、というなんだか大儀そうな名称からして取り消しが効くようなものではないことくらい、私にだって察しがつく。でも、契約というのはお互いが合意の上で取り交わすもののはずなのに、私は合意なんてしていないし、むしろだまし討ちといえる状況だったのだ。ならば無効にしてくれたっていいのでは? というのが私の主張なのだけど。

「ティナは私との結婚のどのあたりに困難を感じている? 何が納得できない?」

 そんなもの、一つや二つなんかじゃない。私たちは竜と人間。姿は擬態でごまかせても、考え方も寿命の違いも解決できない大問題だ。

「ティナ。何が嫌? ……私の正体が竜だから?」

 そして、都合の悪いことから目を逸らそうと、博士に背中を向けてしまったのは間違いだった。背後で小さな物音がした次の瞬間、彼の声が私の頭上から聞こえてきたのだ。


 トーンを落としたその声は、少し寂しそうな印象。まるで私の方が理不尽なわがままを言っているような錯覚さえ感じられて、罪悪感に胸がチクリと痛みだす。

 おまけにこの距離だ。見事に私の動揺を誘う。

「べ、別に博士が人間じゃないからと、差別みたいなことをしている訳では」

 冷静を装って弁解するが、自分のすぐ後ろに彼が迫っているのがわかった。なんなら彼が喋った時、首筋に触れる空気の揺らぎまで感じた。もしかしたら私たちは、ゼロに等しい距離にいるのかもしれない。でも、確かめようにも確かめられない。今私が動いたら、体と体が接触してしまいそうだもの。

 衣擦れの音、呼吸の音、体から発する体温まで突然過敏になったみたいに、彼の存在を強く強く意識してしまう。


「愛情表現が足りなかった?」


 がらんとした広い部屋に、密着――どこも触れてはいないのに――する私と博士。ごく近いところから発せられる艶かしい声に、私の背筋がゾクゾクと震えた。しかも、こんなに近くに彼の存在を感じても、恐怖や不快などの「負」の感情が芽生えないことに自分が一番戸惑っている。

 博士の見た目はとてもいい。声もいい。悔しいけれどそれは認める。正直言って、かなり好きな部類かもしれない。研究者としての博士も尊敬するし今も昔も憧れだし、そんな相手を嫌うはずがない。けど!


「私はまだ働き出して一年も経っていない新人なんですよ? こんな状況で結婚なんて考えられません! その前に、普通は恋人になってから結婚の話が出るものです! どうしていきなり結婚なんですか!」

 あれこれ細かいことを考えるよりも前の問題。どうして「恋人」という過程を、博士はすっ飛ばそうとするのか。

「ティナの仕事の妨害をするつもりはない。活躍してくれることを期待しているよ。仕事と恋愛は両立できるはずだし、我々はすでにつがいだから、なんの問題もないはずなのだが」


 博士から奪ったにもかかわらず中身を確認できずにいた封筒を、今度は博士が奪い返した。そして、いともたやすく開封すると、中の書類を改めて私に渡してくれた。

 目の前に差し出された紙を、おそるおそる受け取った。折り目を伸ばし、書かれている文字を追う。


 ――辞令 ティナ・バロウズ殿 本日付けで、貴殿を第八研究室に配属とする――


「第八研究室……?」

「ベオウルフ・トリスタンが主任を務める研究室だ」

 どこか聞いたことのある名前。私は記憶を探った。

 ……そう、確か、黒妖犬ブラックドッグの研究論文で、大きな賞を取っていた人だ。研究所内でも昨年度の最優秀論文賞を受賞していたはず。そんな凄い研究者が、私の上司になるというの?

「ヴィル博士、これって――」

「うぐっ!」

 書面から顔を上げ、博士の方を振り返ろうとした時だった。後頭部に何かがゴツンと強く当たり、博士のくぐもったうめき声が聞こえた。

 振り返って彼を見れば、鼻を押さえているではないか。目をパチパチと瞬きさせて、痛みを逃がそうとしている様子だ。

 いくら近くに立っていたとはいえ、私と博士には身長差があるのだから、急にぶつかることはないはず。そう、たとえば、博士が顔を私に近づけたりしない限りは。


「……やはり、だまし討ちは良くないな。今度からは正々堂々と君にキスをねだることにするよ」

「私が応じることは未来永劫ないでしょうけど。……どうぞ、これを使ってください」

 私は博士にハンカチを渡した。彼は小さく「ありがとう」と言って、素直にそれで鼻を覆った。博士の右手はすでに血だらけだったので、荷物の中からガーゼを取り出し、しょうがないから私がきれいに拭き取ってあげた。

 原理がよくわからないが、博士はなぜか私に触れると鼻血を出してしまうらしい。今回は単に鼻を強くぶつけたことによる出血だと思われるものの、博士の鼻血にすっかり慣れた自分がいることに、複雑な気持ちを抱かずにはいられない。


「君も名前くらいは聞いたことがあるだろうが、ベオウルフは優れた研究者だ。だから今回、新たに設けた研究室の主任研究員として抜擢した。君の話にもきちんと耳を傾けるだろうし、噂や告げ口を真に受けるような愚か者でもない。君の力になってくれるはずだ。もちろん、『私の次点で』という意味だが」

 大人しく椅子に座って鼻を圧迫しながら、博士は私に言った。

 私の話に耳を傾けるし、噂を真に受けない……というのは、コックス室長たちとのことがあったから言っているのだろう。私だって、社会人になってまであんな酷い扱いを受けるとは思わなかったし、子どもみたいないじめをする大人がいるなんて思ってもみなかった。世の中にはきっとあんな人ばかりではないと思う――思いたい――が、新しい部署に全く心配がなかったかと言えば、それはそれで嘘になる。

「大丈夫」

「……え?」

 向き合って座る私の手に、博士が自分の手を重ねた。

「これ以上君に辛い思いはさせない。前回は見守るばかりだったが、早々に介入すべきだったといまだに後悔して……いや、どんな言葉も言い訳にしかならないな。すまない」


 コックス室長たちの対応を知っていながら、博士は約半年の間、ずっと様子をうかがっていた。それは、彼が間に入ることで私の立場がさらに悪化してしまうことを懸念していたからで、見て見ぬ振りをされたのではないと、ちゃんとわかっているつもりだ。

「ちょっと大げさすぎますよ。そんなにご自分を責めないでください」

 コックス研究室にいた間のことを振り返ってみれば、言うほど嫌なことばかりではなかったし、博士が多忙を極めていることも知っていた。だから、引きずるほど気にしてはいない。何より終わったことなのだ。

 でも、博士の中ではそうじゃないようだ。彼はどこまでも真摯な一方で、考えすぎではないのかと気の毒に思えてくるくらいだ。

 博士は竜だ。人間とは違う。でも、心がある。こんなに優しくて、下手したら人間なんかよりも相手のことを考えることができる。そんな彼を、「竜だから」という理由だけで拒むのは違う気がする。ただ、私は――


「ティナ、私に挽回の機会を与えてくれ。新たな配属先として、君の希望に叶うところを用意した。この采配は君への贔屓などではない。君の配属先は、利益重視から幻獣保護へ研究所の方針を転換するにあたって新設した研究室だ。研究所としての方向性に悩んでいた私を導いてくれた君ならば、有意義な時間を過ごせるだろうと期待したのだ。元コックス班の者たちは全員分散させたから、君に何かしてくることもない。安心して研究に没頭してほしい」

 博士の鼻血は止まったようで、赤く染まったハンカチを白衣のポケットに収めながら、私をまっすぐ見つめて言う。

「それから……他にどうしたら、ティナは私を許してくれる?」

「許すもなにも、別に怒っていませんが……」

 私の方が気後れしてしまうくらい、博士は気にしてくれているみたいだ。博士のこういうところが、私は――


「本当に? じゃあ血の契約のことも受け入れてくれる?」

「それとこれとは話が別です。あと、さっきのハンカチも返してください!」

「無理だ。このハンカチは真空包装で保存し、君から贈られたばかりの今の鮮度を保ちつつ、未来への遺産として――」

「正気を疑わざるを得ないっ!」

 本当に、ヴィル博士ときたら。あわよくば、という野心のあまりの大きさに心底幻滅だ。研究だけして、あとは黙って微笑んでいればいいものを……!



「荷物運び、手伝おうか?」

「結構です。この箱一つだけですし、私だけでも運べますから」

 彼の相手をしていたら、気づけば始業時間――私は早出で働いていたけど――がすぐそこまで近づいていた。時計を見ながら「そろそろ行きます」と立ち上がり、自分の荷物が詰め込まれた箱を抱える。

「ティナ。配属先での幸運を祈る。それと、ベオウルフという男は研究者としては優秀だが、危険だ」

「……危険?」

 博士の言葉に私は身構える。

 どういうこと? 何が危険なのだろう。頭はいいけど人格が破綻しているとか? 重い罪を犯し服役していたとか?

「そうだ、危険な雄だ。君はとても魅力的だから、あの狼に惚れられてしまうかもしれない。だからティナ、ベオウルフには絶対に白衣をあげてはいけないよ」

「は、はくい……」

 意識が遠のきそうだった。ヴィル博士には、私が今、心配に要したエネルギーの返還を求めたい。そう、ケーキか、ドーナツか、何か甘い食べ物で慰謝していただきたい。

 危険ってそっちの意味ですかとか、博士のほうが狼みたいですよとか、だからなんで白衣につながるんですかとか、白衣を欲しがるのはヴィル博士くらいなものですよとか……。とにかく色々な返答候補が頭を過ぎったが、どれが最も適切なのか残念ながらわからない。

「そんなわけないじゃないですか……白衣は誰かにあげるものではないですし……」

「貸し出しもダメだぞ」

「白衣の役割がブレている……」


 幻獣を研究する前に、私は白衣について研究することになるのだろうか、などと漠然と思いながら、数ヶ月過ごした研究室を後にした。

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