3-2 鼻血に次ぐ鼻血


* * *


 午前中、博士と話すため彼のもとを訪れたが、時間が取れずに終業後に改めて……ということになった。しかし私は資料の文字を追うのに必死で、終業時刻になったのを知ったのは博士が研究室まで迎えに来てくれたからだった。

 でも、私たちが二人でいるところを目撃されたら最後、あの噂――ヴィル博士と私が恋人同士だという――が事実として塗り替えられて広まってしまうだろうに、博士は気に…………しないだろうな。本当は今すぐ「ティナは俺の妻」と触れ回りたいに決まっている。


 急いで片付けを済ませて、私は研究室を後にした。片付けの間中ベオウルフたちがニヤニヤしていたし、なんなら「ごちそうさまです」とまで言われたので、私は何度そんなんじゃないと必死になって否定したことか。

 ほら、部下が上司に相談ごとを持ちかけるのはよくあることだし、仕事が終わって職場の人と食事をしに出かけることも、特段珍しいことなんかじゃないし。私と博士もそれであって、それ以上でも以下でもない。だから下手な勘ぐりはやめてほしい。


 研究所を出て少しだけ歩き、辻馬車キャリッジに乗って中心街へ。窓のカーテンはなんとなく閉めた。私たちが二人でいるところを、誰かに見られて誤解されてはいけないから。そう、私たちは単なる上司と部下なのだし!

 彼に連れられ向かった先は、大通りに面したレストラン。高級ブティックが立ち並ぶ一角にある、これまた落ち着いた外観の、高級そうなレストランだ。

 店員さんに案内され、私たちは一番奥の席につく。石造りの店内は夏だというのにひんやりと涼しく、じっとり背中を湿らせる汗がすうっと引いていくようだ。


「さてティナ、君に苦手なものはある? なければ、私の方で適当に頼んでしまうけど」

「特にないので、お願いします。博士の方が食べられないものがたくさんあると思うので」

 今の博士は人の姿だが、これは単に人間に擬態しているだけ。本来は今の何倍もある背の、巨大で美しい竜なのだ。見た目は人間、でも本質はその他の動物に近いみたい。犬猫のようにチョコレートが食べられないし、玉ねぎもブドウもアルコールだって駄目なのだ。

「博士は気にならないんですか?」

 注文が終わったのを機に、私は博士にどうしても気になっていたことを質問する。

「何のことかな。今日のティナが普段より一層輝いて見えるということ?」

「全っ然違います。視線です、視線!」

「確かに、君が私を見つめてくれている視線は気になる。このまま独り占めしていたい」

 誰が。誰がそんなことを。うっとりとされても違うものは違うのに。

「違います! 周囲の人の、博士に対する視線ですっ!」

 博士の思考回路に少しだけ苛つかされながら、私は彼に顔を近づけ小さな声でこっそりと告げた。

「周囲の? 私の視界には君しか入っていないのだが」

「今後このくだりは省いてくださいね。私が言いたいのは、外を歩いていた時からずっと、たくさんの人が博士に注目していました。今だって――」 

 たくさんの人が博士のことをジロジロ見ている。私の言葉で彼が周囲を見渡した途端、みんな何事もなかったように、視線をそらしてしまったけれど。

 ヴィル博士はそのへんのモデルよりもよっぽど美しいので、街を歩けば他人の目をこれでもかと惹いてしまう。研究所では博士のことを知らない人はいないから、新入所員や来訪者以外は彼に会っても「所長」に対する単なる会釈で済ませてしまう。それが常識だと勘違いしかけていたけれど、今のこの反応の方がよく考えれば当たり前なのかもしれない。

 それと同時に、私の脳裏に不安がよぎる。私は彼と一緒にいて、果たして釣り合いがとれているのだろうか。私は彼と一緒にいるに値する人物なのだろうか。

 髪なんかさっきまで事務クリップでまとめていたし、服だって、新調する余裕がなくて着古したものをずっと着ている。靴も帽子も鞄だって同じだ。髪色は地味な真っ黒で、顔も華やかさが足りない。


「今だって……何?」

 そうだった、私は別に博士のことをなんとも思っていないのだから、釣り合いがどうとか考える必要はないのだった。

「いいえ、なんでもありません。あなたが気にしていないなら、別に」

 博士は自らの容姿に対する反応に、すでに慣れているのかもしれない。ずっと、もう何百年……もしかしたらもっと長く、この姿でいるのだから。

 または、人間の美醜に無頓着だとか? その線もあり得る。私は決して美人ではないのに、こうまでも好いてくれているのだから。彼の私への執着度合いときたら、まごうことなき立派な変態。

 飲み物が届いたので、私たちはナプキンを広げた。それと同時に、話も本題へ。

「それで、ティナ。私に話したいこととは? もしかして、結(けっ)こ――」

「ルノーさんのことです」

「ああ、そう……」

 明らかに博士は落胆しているが、いちいち励ますのも面倒だ。だから放っておくことにする。

「今日、なんの前触れもなくルノーさんが私に会いに来たんです。来た理由も話してることも、もう全然意味がわからなくて。謝罪をされたというのはなんとなく理解できたんですが、博士のことは絶対に言わないとか、それが自分の矜持だとか……なぜ急に、改まって? 博士は何かご存知ですよね?」

 ヴィル博士は苦笑い。思い当たる節があるのかもしれない。

「そうか、ルノー……そうか、なるほど」

「博士? 全然わからないんですけど?」

 私を置いてけぼりにして、ひとり納得されても困る。

「ルノーさん、何やら晴れ晴れとした様子だったんですけど……何かこう……心を入れ替えたみたいな。でも、急じゃありません? ちょっと気味悪いというか……」

 以前にも、私に対する態度がひとときの間軟化したことがあったが、そのきっかけは博士の忠告だったのを思い出す。

「あれだ。私の権力のなせる技だよ」

「……は?」

 私は真面目に話しているのに、茶化された。ぼかされた。笑顔でごまかされた。

  ルノーさんへの処分について、博士はこれ以上言うつもりがないのかもしれない。しかし私は気になったから、こうして食事にもついてきた次第で。

 博士を騙して竜の姿に戻したこと。十九年前の竜のように、研究のために博士を捕らえて飼い殺そうとしたこと。そして、今も博士の秘密を握っているということ。

 私はこんなにも義憤に駆られているというのに、当の博士は気にした様子ひとつない。私ばっかりこんなに熱く怒っちゃって……ばかみたい。

 もういっそ、このままここで中座してしまった方がいいのかもしれない。そう思ったタイミングで料理が届いてしまったので、出るに出られず食事に向かうことにした。

 納得がいっていないことをヘの字の口でアピールしたものの、それよりもまず空腹だったし、ひと口食べてみた料理がとても美味しくて、悩みも不満もいつの間にか忘れていた。


「それから、何か話しておきたいことはある?」

 とどめとばかりに博士から質問が投じられれば、私の意識はそちらへ移る。

「えっと……」

 ルノーさんのことは聞きたいことの一つだった。そのほかになにか、彼に伝えておきたいこと。

「お礼を……博士にお礼も言わなくちゃと思っていて」

「礼を?」

「はい。素敵な研究室に配属してくださったことを、感謝しているので」

 私に大事なのは過去ではなくて今この時。今、私はとても楽しい。

「野外調査で、自然界での幻獣の暮らしぶりを観察できることに、とてもワクワクしています。でも、それだけじゃなくて、研究室の皆さん、本当にいい人だし研究熱心だし、私を仲間として受け入れてくれるし……特に室長のベオウルフ! 彼は素晴らしい研究――」

「ベオウルフ!?」

 博士が声を上げた。

 彼はベオウルフのことを、「危険な人物」だと言っていた。また、「狼」とも。ところが、あまりにも私に警戒する様子がないので、業を煮やしているのかもしれない。

「どうしてだ、ティナ」

「見た目と言葉はちょっと変わっていますけど、指導者(メンター)としてはとても――」

「どうしてベオウルフのことは呼び捨てで、私のことはいまだに『博士』がつくんだ!」

「そこですか!?」

 博士の聞き逃せないポイントは、私の予想を大きく裏切った。

 飲みかけのグラス――アルコールが飲めないので、中身は水――をやや乱暴にテーブルに置き、彼は私にまくし立てる。

「不公平だ、私の名も今すぐ呼び捨てなさい! さあ呼ぶんだ、『ハニー♡』とっ!」

「寝言は寝てから言ってください」

 呼び捨てよりもはるかに高いハードルを、私に越えろとでも言うのか。仕事面で期待されるのは望むところだけれども、恋人として期待をされても私に応えるつもりはない。

「しかしティナ、ベオウルフは――」

「ベオウルフもさすがと言うほかありません、幻獣のことにとても詳しいですね。専門はイヌ属とはいうものの、それ以外についても聞いたら大抵のことは教えてくれます。でも、そんなの少しもひけらかさないし、私とも目を合わせて会話してくれるし、小さなことも褒めて伸ばそうとしてくれているのがよくわかるし、なんというか……前と比較ばかりするのもどうかとは思うんですけど、とても快適に仕事ができています」

 前はまるで奴隷のようだったのに、今は人として扱ってもらえていると感じる。いや、それ以上かもしれない。上下関係はあるものの、同志であり、ライバルでもある。トリスタン研究室だからこそ、そう感じるのかもしれない。

 頰を上気させてまで興奮しながら喋る私とは対照的に、ふと気がつけば博士の眉間にシワが寄っているではないか。

「……不快だ」

 そして彼は吐き捨てるように言った。

 一体何が、と尋ねようとしたところ、左手に温もりを感じた。目を落とすと、博士の手が重ねられていた。

「え!? はか、ヴィル博士――」

「せっかく二人きりになれたんだ、他の男の話はもうやめにしないか?」

「…………まずはその鼻血をなんとかしましょうか」

 博士はまっすぐ私を見つめるが、私も負けじと眼力強く彼を見る。もちろん、そこに込めるのは「早く鼻血を拭いてください」という気持ち。

 しばらく見つめ合っていたけれど、根負けしたのは彼の方。私から手を引きハンカチを鼻に押し当てた。


 まったく、博士ときたらこんな素敵なレストランでも鼻血を垂らしちゃうなんて。ようやくまともに会話ができて、おまけに二人きりでなかなかいい雰囲気だったのに、こんなことでは相手に幻滅されてしまうんじゃないだろうか。落とせる女性も鼻血のせいで落とせなくなる気がする。

 ……って、博士が落としたいのは私か。……博士と二人きり? 高級レストランに? え、え、え……それって、それって、まるでデートみたいじゃないのっ!?

 遅ればせながら、私はここでようやく事態を把握したようだ。

 違うから! 単なる上司に相談がてら、飲みに出かけたのと同じだから! と否定したくて焦っているのに、「単なる上司とこんな高級レストランに来るの?」とか「単なる上司ならどうして手なんか重ねちゃうの?」とか、とどめに「そもそも博士は私に気があるじゃないの」とか、言い逃れできない状況証拠の確認作業にしかならない。しかも、意識してしまったら最後、心臓の鼓動がうるさくなって、頰がどんどん熱くなる。

「そそそそういえばコックス室長、今はどうしていますか? それとデンゼルさんも。研究室が解散になってから、どうなったのかなって」

 気を紛らわす術はないかと、私はまったく別の話題にすがることにした。

「コックスは擬態解除薬の件で責任を取らせ、降格処分とした。だが、その後まもなく退職したから、正直私もよく知らない。デンゼルはアーキン研究所に在籍中だ」

「……え? 室長、辞めちゃったんですか!?」

「そうだよ。諭旨解雇でもなんでもない、彼の意思によるものだよ」

「でも――」

「さあ、デザートが来たからこの話は終わりにしよう」

 お皿にちょこんと乗せられたのは、チョコレート入りのフォンダンでコーティングされた、黒曜石みたいな艶を放つ美しいザッハトルテという名のケーキ。スポンジの間にはあんずジャムが二層。飾りには封蝋風のチョコプレートと、純白のシャンテリークリームが寄り添うように盛ってあるだけ。たったこれだけのごくシンプルな見た目なのに、食べる前からその美味しさを私は確信せざるを得ない。

 ぎっしり詰まった密度の高いスポンジに、黒に近いその色といえば、これぞまさしく私が欲したチョコレート。それも、きっと濃厚なやつ。舌に乗せた時の味や香りの広がりを想像しただけで、半開きの口の端からよだれが垂れてしまいそうだ。

「君の希望通り、チョコレートのケーキだ。さあ、存分に味わってくれ」

「へっ?」

 早くフォークを突き立てたい、早くフォークを……と食べることに支配されていたために、博士への返答が一瞬遅れた。

「あ、はい、チョコレート……あの、とても美味しそう……食べたい」

 好きなものを形容するのに、語彙力なんて必要ない。わたし、ケーキ、たべたい。


 博士がどうぞと言ってくれたのを皮切りに、私はフォークで攻略を始めた。

 フォンダンはほどよく柔らかく、スポンジはずっしりとしていて切るのに少々力がいる。口に入れるとまず表面のチョコの口当たりに感激し、続いてスポンジのコクに我を忘れそうになる。はあ、おいしい……しあわせ……。

 さっきまでしっかりお料理を食べていたというのに、やはりケーキは別腹だ。まるで胃が二つあるみたい。これほど高密度のチョコレートケーキであるのにかかわらず、いくら食べても入りそうだ。幸せすぎて、二十四時間ぶっ続けで食べていたくなってしまう。

 いや、だめ。それは人としてダメだわ。

 それから、毎回こんなことで流されていては大人としてもダメだ。

 融点を超えて溶け始めていた顔を、なんとかキリリと引き締める。そして、頬杖をつきながら気分良さげに私を見つめている博士に、「でも!」と居住まいを正させた。

「コックスさんたちが私に冷たく当たっていた原因は、私の兄にあるんです。兄がわざわざ『ウチの妹は手グセが悪くて』と、彼らに吹き込んでいたそうなんです」

「知ってるよ」

「そうなんです。私が働き始める少し前に……え? 知ってた?」

 私は驚きに身を乗り出した。私の兄が黒幕だと、博士は知らないと思っていたのに、その予測が外れてしまった。

 ヴィル博士は自分のもとに届けられたケーキに視線を落として、言葉を選びながらゆっくり語り出す。

「コックスから、全て報告を受けていた。その上で、ティナ本人を見て判断しろと伝えたんだが。彼は私の言葉を無視して君に辛く当たっていた。ちなみに、コックスの降格は研究内容と開発中の新薬を紛失したことへの処分だ。だからコックスのことも研究室の解散についても君が負い目を感じる必要はないからね」と

 博士は私に念押しをしてから、「ただ……」と暗い顔で続ける。

「君への対応は私の読みが甘かったというほかない。君の守り方は、きっともっと他にもあった。そうすれば、君の最初の半年間が無駄にはならなかっただろうに。……ティナには本当に、申し訳ないことをした。どうやって償ったらいいか」

 いつもは明るい変態博士が、喋りながらどんどん深くへこんでいく。彼の所長としての対応は正しかったと思っているし、忙しい合間をぬって対処したり気にかけてくれたりしたことには、私は感謝すらしている。

「無駄だったとは思いません」

「……ティナ?」

 私は努めて明るく振る舞う。博士の分も補おうとするように。

「嫌なことはどんな仕事にもある程度つきものだし、たくさんの幻獣と触れ合うこともできて、結果今、こうして毎日が楽しいのだし」

 ね、と微笑んでみても、彼はなかなか納得しない。

 ヴィル博士の言う「償い」というものが何を指しているのかはわからない。けれど、きっと彼にも償いの具体策など見つかっていないはず。

「だ、だったら、どうしても気になるというのなら、博士のデザートを私に譲ってください。それで許してあげます」

 それならば、私が答えを差し出せばいい。ケーキを私に譲ることが償い。私がそれでいいと言っているのだから、博士も呑みやすいだろう。……体質的に博士はチョコレートが食べられないから、どのみち私が彼の分も食べることになっていたかもしれない、というのはこの際だから触れないでおく。


 ヴィル博士が固まったまま動かないので、判断を急かすように「それです、そのケーキです」と控えめに指で指し示した。

 けれども、様子がおかしい。再び動き出したと思ったら、彼は顔を伏せてしまった。俯いて片手で顔を隠すから、その表情が読み取れない。でも、肩が小刻みに揺れているから、もしかして泣いているのかもしれない。不自然な呼吸音もかすかに聞こえる。

「ヴィル博士? あの……ヴィルヘルム博士?」

 体調が悪いのだろうか。体に悪いものでも食べて、どこか異常が出てしまったのか。

 あまりにも長い間その姿勢のまま反応がないので、私は次第に心配になってきた。おろおろしている私を見つけて、店員さんも近寄ってくる。


「本当に、君にはかなわない」


 ここでようやく博士が口を開いた。

 大きなため息とともにこちらを向いた博士の顔は、なぜかとても紅潮していた。……なぜ?

「今すぐ思い切り抱きしめたい。愛しているよ。ああティナ、私の思いを受け取ってほしい」

 どうしてここで口説きにかかる?

「あの、博士……店員さんがすぐそこにいるんですけど……」

「愛してる。ティナ、大好きだ」

「は、博士!?」

 彼はひとりでふたりの世界に旅立ってしまったのかもしれない。私はまだ現世にいるので、博士がしきりに愛を囁く「ティナ」という人物は、きっと私とは同名の別人だ。 

 誰がいようが関係ないのか、博士はグイグイ攻めてくる。  

「本心を述べるならば、今すぐ君を押し倒して口付けを――」

「やめて」

「服を脱がせて裸にして――」

「やめてください」

「白衣だけ着せて――」

「いい加減、恥を知ってください!」

 愛の告白だけならまだしも、性癖については心の中で考えるだけにして欲しかった。……やっぱり、考えることもお控えいただきたい。



 博士のケーキも私のお腹に収めてから、私たちは店を出た。もちろん支払いは全て博士がしてくれた。店を出る前にさりげなく私を化粧室に向かわせて、その間に支払いを済ませておくなんて、随分とエスコートに慣れている。……もしくは、人間のマナーが頭に詰め込んであるのか、どちらかだ。

 入店の時と同じように博士は注目の的となっていたが、当の本人には気にするそぶりなど一切なかった。私には常に笑顔を向けているくせに、突然話しかけてきた人や、つまずいたかのように装って胸に飛び込んできた人には氷のような真顔で対応にあたり、あまりの落差に私はハラハラしてしまった。もしかしたら、博士の心臓には毛か鱗でも生えているのかもしれない。


 季節はすでに夏に近い。太陽に温められてぬるくなった空気が、夜になると次第に冷えて、一息つける涼しさとなる。博士の隣を歩きながらオレンジ色の街灯の明かりを眺め、ぼうっとしていた時。

「不釣り合いよ」

 すれ違いざまに吐かれた言葉。誰に宛てたものなのか、明確に示されたわけではなかったけれど、絶対に私だと確信した。

 ひとつのほつれもなく、体にぴったり添うように作られた、オーダーメイドの――おそらく――上品なスーツ。それを身に纏っているのは、男性だって見惚れるほどの容姿を誇るヴィル博士。

 一方の私は、いつ買ったかも覚えていないクッタリとしたブラウスに、初夏にしては厚すぎる、暗い色のフレアスカート。髪に櫛は毎日通しているけれど、手入れといえばそれくらい。お化粧だって、しているかしていないかわからないくらいだ。……正直に言えば、していない日の方が多い。

 不釣り合いだと吐き捨てた女性は、顔こそわからなかったものの、後ろ姿はとても美しい人だった。髪にはしっかりカールが施され、背中がぱっくり開いたドレスに、ヒールの高いエナメルのパンプス。ほんのりと甘いコロンの香りもする。

 見渡せば、ここは高級ブティック街である。流行りの服で着飾ったマネキンと、負けず劣らずのお洒落な買い物客。

 私はずっと仕事に没頭していたから、清潔であればなんでもいいかと身なりにはあまり気を使ってこなかった。でも、もしかしたら、それでは足りなかったのかもしれない。私は、こんな、場違いな――


「ティナ?」

 博士の声に我に返った。気づいたら、彼が私の顔をまじまじと覗き込んでいた。突然足を止めてしまった私を、心配してくれたみたいだ。

 現実に引き戻された一方で、博士みたいな超才色兼備な人物とこうして一緒にいるなんて、今の方が幻なんじゃないのかと、異様な浮遊感が消える気配は見当たらなかった。

「どうかした?」

「私って、場違いだなって……」

「場違い?」

 熱に浮かされたように、思ったことが口をついて出てしまった。こんなことをヴィル博士に言ったって、何かが変わるわけではない。それに、この何とも言えない焦燥感、敗北感、劣等感といったものは、私が自分で解決すべきことのはず。

「ううん、なんでもないです。……今のは忘れてください」

 別に今後も引き続いて、こうしてヴィル博士と歩く予定なんてない。彼には彼の人生――竜生――があるし、私には私の人生がある。異種族という壁もあるけれど、まず寿命の長さが私たちを分かつはず。私はその壁を越えられないし、彼もきっと、越えられない。

 でも、博士は壁なんて気にせずに、素知らぬ顔で私に話しかけるのだ。

「ティナ。聞いてくれ。私はティナの見た目や年齢に惹かれているわけではない。その艶のある黒髪も、控えめだがこぢんまりと整った相貌もとても愛しく思っているが」

「褒めているのかけなしているのか、正直とてもわかりにくいです」

 でも本当はわかっている、この人が私をけなすなんて決してしないということを。

「今日はもう夜になってしまったし、今度改めて一緒に買い物に出ようか。ティナは今のままでじゅうぶん魅力的だ。だが、君が望むのなら、新しい服でもアクセサリーでも、なんでも好きなものを買ってあげよう。心配するな、金ならいくらでもあるよ」

「セリフの最後が成金系の悪役です。結構です、行きません」

「では代わりに美味しいケーキでも――」

「行きます! …………あれ?」

 ついて行く気なんて本当に本当にないのだけれど、どうしても私は甘いものに釣られる癖が治らない……。

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