3-1 鼻血に次ぐ鼻血



 幻獣とは、動物のようで動物にはない不思議な力を持つ生き物のことだ。さらに、植物のようで植物にはない不思議な力を持つ草花、或いは木のことも、「幻獣」としている。正確には「獣」ではないかもしれないけれど、植物のような見た目で動物のように走ったり鳴き声をあげたりするものもいるため、ひっくるめて広義的に「幻獣」の言葉を使っている。

 リリィはこの植物幻獣の研究を専門としている研究員。かたや私は脊椎幻獣ばかり見てきたので、リリィの研究はとても新鮮で興味深い。


 野外調査に行く先は、ベオウルフとリリィが主となり議論しているところ。まだまだ新人の私は班員の助手的意味合いが強いので、彼らの指示に従って文献を探したりデータを集めたりしているところだ。

 やっていることはコックス研究室の時と同じかもしれない。けれど、モチベーションも研究室の雰囲気も、あの時とは全く違って今の方が断然快適。それに、近いうちに調査に行けるということも、私としては楽しみで仕方ない。


「ベオウルフ、昨日頼まれた文献のリストを作成しておきました。各書籍の引用箇所には付箋を貼っているので、お手すきの時にでもご確認をお願いしますね」

「おおっ、いいっすねえ〜アリが十匹! 仕事が早くて助かるよ」

 こうやって、部下ならやって当然の仕事も、報告すれば必ずお礼の言葉が貰える。小さいことだけど、こういうところ一つ一つが私のやる気を刺激するのだ。……蟻? 十匹? 不可解だけど、文脈的にお礼の言葉だと思う……。

「ティナ・バロウズはやれば何だってできる子なので、どんどん任せてください!」

「言うねぇ〜! じゃあオニイサン、めちゃんこ仕事振っちゃおっかな〜!」

 白衣の袖を捲り上げて軽口を叩いてみれば、ベオウルフも嫌な顔一つせず死語を駆使して乗っかってくれた。仕事はもちろん真面目に取り組む。けれどその合間、小さな笑いが起こったりするこの和やかな雰囲気が、私には嬉しくて仕方がない。

 だが、その空気を思わぬ来訪者が変えた。


「ティナ・バロウズ……いるか?」

「ええっ? ル、ルノー……さん!?」

 小さなメガネを鷲鼻に乗せた、猫背でちょっと陰気な彼。

 彼はヴィル博士に開発中の擬態解除薬を投与し、捕獲しようとした前科がある――もちろんこれは、限られた者しか知らない――。私を小間使いみたいに扱ったことは置いておいても、博士に対する仕打ちだけはどうしても許す気になれない。

 しかし、私に何の用があるのか。それに加えて彼は白衣を着ていないし、ネームタグは事務職の色だ。……なぜ?

 扉を開けただけで入室はせず、控えめに手招きしている。


「ちょっとだけ……いいか?」

「え? あ、はい……」

 何か私に話があるらしい。嫌なことじゃなければいいんだけど。

 とにかく、流されるまま私は彼についていこうとした。

「ティナ!」

 背後から、私を呼ぶ声が聞こえた。声の主はベオウルフで、振り返ると私の方を険しい顔で見つめていた。

「大丈夫か?」

 以前の研究室でのことは、すでに研究所の中で有名だと聞いた。だからベオウルフだって知っていても無理はない。きっと、私がまたルノーさんに何か酷いことをされるのではないかと、心配してくれているのだろう。

 大丈夫です、と返そうとした時、私よりも先にルノーさんが口を開いた。

「ここじゃ君らの邪魔になるから、少し廊下で話すだけだ。ただそれだけ。……本当だ」

 以前より何段階も覇気を失った様子の彼は、ベオウルフにそう答えると、小さくなった背中を私に向け、さっさと廊下へ出てしまった。私も慌てて彼に続く。

 本当に、扉のすぐ近く。なんなら、研究室の中にいても聞き耳を立てれば聞こえてしまうんじゃないかというくらい近い。


「すまなかった」

 そして、ルノーさんは開口一番、信じられない言葉を言った。

「……へ?」

 前後もないので状況がつかめず、私は素っ頓狂な返事をしてしまった。

「俺が間違ってた。色々……」

 ゴニョゴニョと語尾は濁しながらも、自分の非を認める言葉はしっかり私の耳に届いた。

「今回の異動で、俺は庶務課勤務になった。研究者には向いてないからと……最初は腹が立ったが、頭が冷えた今ならわかる。優秀な後輩の芽を摘もうとしたり、密告を安易に信じたり、博士のことにしたって……。研究者以前に人としても最低な行為だよな」

 ルノーさんが、庶務課に? そして、やたらしおらしい彼の姿に、以前の傲慢な姿を重ね合わせると違和感しか感じない。

 白衣のポケットに手を突っ込み、入れたままのチョコレートを触って心を落ち着かせようと試みる。……チョコレートは、私の体温ですっかり柔らかくなっていた。

「本来なら、解雇どころか殺されてもおかしくなかった。にもかかわらず今俺がここにいられるのは、ヴィルヘルム博士が温情をかけてくださったおかげだ。だから、俺は研究者ではなくなったが、この異動を受け入れる」

「そ、そうですか」

「博士が言ったんだ。事務部に行っても頑張り次第で研究部に戻してやるって。だから俺は出直そうと思う。何年かかっても、今度こそ、いい研究者になる」

 私は今、何を聞かされているのだろうか。謝罪? 決意表明? ……なにこれ?

「俺の矜持にかけて、博士のことは絶対に言わない。だから、……博士と幸せになれよ」

「……んんん?」


 誇らしげに去っていく彼の背中を呆然と眺めながら、私はその場を動けずにいた。今の話、私が相手である必要があった? しかも、最後の……なに? 不可解すぎてろくな相槌すら打てなかった。

「おーい、ティナ?」

「はい」

 廊下に立ち尽くしたままの私を、ベオウルフが気にかけてやってきた。

「もしかして、聞こえてました?」

「っすね。悪いけど、全部筒抜けだった」

 めんご、とまた死語を口にして――ちなみに「めんご」とは謝罪の意味――、私の隣で首を傾げる。

「それで結局、あのオッサンは何しにやってきたの?」

「さあ……よくわからなくて」

「……とりあえず、さっき貰ったリストと同じ感じで、もう一つ作って欲しいんだけど、頼んでもいいっすかね?」

「はい、お任せください」



 切りがいいところまで作業を進めてから、書庫へ行くついでに私は所長室に足を運んだ。

 さっきのルノーさんの意図がわからないままだとなんだか気持ち悪くて、ヴィル博士なら何か知っているのではないかと思ったからだ。それに加えて、私をトリスタン研究室配属にしてくれたことにお礼を言いたかったというのもある。

 超多忙とは言いつつも、なんだかんだといつも私の話を聞いてくれる博士だ。だから今日も、少しくらいなら私のために時間を割いてくれるのではないかと期待していた。


 ところが、扉を叩いて現れたのは、ヴィル博士ではなく知らない女性だった。

 小麦色の肌にこげ茶の髪、きりりと伸びた細い眉とつり上がった鋭い目。口はピクリとも笑わない。私が履いたことのない膝上のタイトスカートを履き、靴も私には未経験の、十センチ超のピンヒール。

「どちらさまですか」

 抑揚の少ない低い声は、不機嫌なようにも聞き取れる。彼女の意図かわからないけれど、私はすっかり気圧されてしまった。

 まずあなたが誰ですか? と聞きたい気分だったけれど、とっさに言葉が出てこない。

「あの……私はティナ……トリスタン研究室の、ティナ・バロウズという者で……」

「ああ、あなたが」

 どうやら、この女性は私のことを知っているらしい。

 でも、私は知らない。

「それで、なんの御用でしょうか」

「あの、ヴィ、ヴィル博士に――」

「ヴィルヘルム博士は現在お取り込み中です。お急ぎの用件でしたら検討しますが、今週いっぱいは時間を割けません」

 冷たくあしらわれてしまった。結局私はこの、誰ともわからない人に追い返されてしまうのか――


 そう思った時、部屋の奥から声が聞こえた。

「待ちなさいっ!」

 ヒロインのピンチに現れるヒーローみたいな登場をかましてくれたのは、この部屋の主であるヴィル博士。どうやら私とこの女性の会話が聞こえたみたいだ。

「ティナ! ティナじゃないか、どうしたんだ、私に会いに来てくれたのか?」

 私はずっと廊下に立って女性とやりとりしていたけれど、博士は扉を大きく開き、私を部屋に招き入れてくれた。博士から漂ういつもの香りに、なぜだか深い安堵を覚えた。

「ちょっとお話があって……」

「すまないね、今ちょうど改築工事の打ち合わせをしていたところでね。でもいいよ、もう終わったから君の話を聞いてあげられる」

 部屋の中は閑散としていた。博士にケーキをご馳走してもらったソファとテーブルは姿を消し、本がぎゅうぎゅうに押し込まれていた書棚はあるものの、今は全てがからっぽになっている。


 そして、私と入れ違いに作業着姿の男性が二人退室していった。

 女性のことも、工事のことも、私は何も聞いていない。博士は所長でもあるのだから、彼のもとで働く私があれこれ報告を受ける理由もないのは当然だ。でも、なんだか少し、胸がざわざわしてしまう。

 私が戸惑っている間に、女性が再び淡々と告げる。

「博士、いけません。次は雑誌と新聞社の取材の予定が三社ほど入っています」 

「……じゃあ、昼休憩の時間にでも」

「幻獣学会から依頼のあった論文査読がまだ終わっていません。期限は明日ですので、昼休憩を充てて頂かないと間に合いません」

「午後は――」

「幻獣医学会および応用幻獣学会の学会誌への寄稿作成があります」

「リスケは――」

「不可能です。どれも期限が迫っています」

 二人のやり取りを聞くに、博士の予定はこの女性が全て把握しているようだ。

「博士? あの……」

 この女性は誰ですか? 改築工事をするんですか? なんのために?

 たかだかいち被用者が口を出すことではない。だから質問をためらってしまった。しかし博士は私がおろおろと戸惑っているのに気づき、私の気持ちを察してくれた。

「そうか、ティナは初対面だったね。紹介するよ、この女性はメルジーナだ。数日前から私の秘書として雇い入れた。今回の工事は秘書を設けたことを機に、所長室と隣接するかたちで彼女が控える部屋を用意しようと考えてね」

 メルジーナはヴィル博士の紹介を受けて、「どうも」と一言だけ口にした。口数が少ないだけなのか、それとも私のことをよく思っていないのか、今の段階ではつかめない。

「これまで秘書などつけずにやってきたのだ、今後も不要だと訴えたのだが、幹部連中が強引にね……。メルジーナは非常に几帳面で私の予定もしっかり管理してくれるが、とにかく厳しい。私はここの所長だというのに、笑顔もなく慈悲もなく、当たりがとても強いんだ」

「ヴィルヘルム博士が余裕を持って業務に当たってくださっていたら、私も厳しく申しませんが」

「ほら、キツいだろう?」

 そう言って苦笑いする博士に、私は「はあ」としか返せない。

「それでティナ、話とはなんだ? メルジーナが許してくれそうにないので、可能なら今、この場で聞いてしまいたい」

「えーと……」

 二人きりじゃないと話せないわけではないけれど、彼女を前にあれこれ喋るのは気がすすまない。ちょっと込み入った話というか、なんというか……。


 メルジーナさんの様子をチラチラうかがい決めきれない私を見て、博士はまたしても察してくれた。

「ティナ、夜の予定は空いているかな?」

「夜、ですか?」

「君さえよければ夕食をご馳走しよう。デザートが絶品だという店を知っているんだ。終業後なら、メルジーナにもうるさく言われないからね」

 彼女の前で話すことに気おくれしていたのは私なのに、自分がうるさく言われるのが嫌だからと、博士は損な役回りをさりげなく買ってでてくれた。

 何事もなかったかのようにお茶目な笑顔を見せる博士。彼の自然なフォローを嬉しく思う一方で、どうして嬉しく思ってしまうのかとか、メルジーナさんに対する優越感みたいなものまで抱いてしまう理由とか、そこの部分を深く考えることは現段階ではできなかった。自分の気持ちと向き合うことに、怖気付いてしまったのかもしれない。

「きょ、今日は……食べようと思ってたチョコレートを、誤って溶かしてしまって……」

 見当違いな返事をする私に対し、博士は少し驚いたあと、目を細めて笑ってくれた。

「わかったわかった、チョコレートのデザートも用意しよう」

 白か黒か、四角四面な答えを要求しない博士の距離感が、今の私には心地よかった。


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