1 ヒロインは先輩にこき使われる
「ああ、最高……旧約聖書の冒頭で世界を作ったあとすぐ砂糖を作っちゃう神様の気持ち、今の私にはよく分かる……」
どんなにグッタリしている時でも、甘いものを食べた途端、疲れがふわっと飛んでいく。世界を創った神様もきっと、「七日間頑張った自分へのご褒美」とか言って、甘いデザートで世界創造の疲れを癒したのだろう。
今、私の目の前にあるのは、買ってきたばかりの山盛りのドーナツ。
小麦粉と卵と砂糖で生地を作って、油で揚げる。そこにたっぷりチョコレートや粉砂糖をふりかけて、気まぐれにシャンテリークリームを挟んじゃったりなんかして。
家では作らない。キッチンストーブを油まみれにしたくないし、片付けだって面倒だし、そもそも買ったほうが一番美味しい。
神様、あなたもこれを食べたことがありますか? ケーキよりもずっしりとしていて、小腹どころか大腹まで満たしてくれる、大変罪深き食べ物を。
「私の知ってる旧約聖書の内容と違う」
私の現実逃避劇場を、叩き斬るのはいつもミミ。学生時代からの友人だ。
「ミミも砂糖の原料を知っているでしょう、サトウキビよ? 木みたいなもんよ?あんなイネ科の植物を絞ったら甘い砂糖ができるなんて、神様以外には気づけないはず。……いや、まず神様はどうしてあれを砂糖の原料にしようとしたのかしら。塩みたいに、海水を煮詰めて出来上がるようにすれば、もっとわかりやすいものを……いやいや、そうすると煮詰めてるうちにこんがり焦げたカラメルソースになっちゃうかも」
「ティナ……科学者のあんたが『神様』なんて非科学的なものを信じていてもいいの?」
呆れたような物言いに、私は肩を竦めてみせた。
「まさか! 進化論も地動説も、否定する気なんてないわ。ただ、砂糖に関しては、神がかり的な癒しを感じているというか、悪魔的な中毒性を感じているというか」
「あっそ」
興味なさそうな返事をしているにも関わらず、ミミは私が買ってきたドーナツをかじっている。きっと彼女も、この「砂糖」の誘惑には勝てないのだ。
そう、砂糖は我々を支配しているのだ。
ココナッツパウダーをまぶしたドーナツはちょっと食べにくいけれど、このシャリシャリとした歯ごたえがくせになる。ココア生地のドーナツに白いココナッツという、その色の対比も大変魅力的である。
「……ティナ、ちょっとあなた、食べ過ぎなんじゃないの? 太るわよ? まあ……その前に二人しか消費者がいないのにこの量を買ってきた、ってところからしてちょっとズレてるんだけど」
ちなみに、一人当たり五個食べる計算で購入した。何もおかしいことはない。
私は胸を張ってミミに答える。
「大丈夫、私は毎日激務に耐えてるの。カロリー消費量もそりゃあ凄いはずだから、一週間の総量で見たらカロリー過多になるはずないわ!」
「平日にもよく甘いものを食べているくせに?」
「……ミミ、どうしてドーナツは真ん中に穴があいてるか知ってる?」
先ほどの彼女の言葉には聞こえないふりをしておこう。
「熱伝導を均一にするためとか、膨張する生地の空間確保、とか?」
私は得意げに首を振り、新たなドーナツを顔の前に掲げた。そして、その穴からミミを見て、自信満々に言い放つ。
「カロリー『ゼロ』を表してるのよっ!」
ミミの眉がぴくりと動いた。
「……こんなにグレーズがかかっていても?」
「そうよ!」
「クリームがたっぷり挟んであっても?」
「もちろん!」
「……さすが、ルルイエ幻獣研究所の研究員サマはおっしゃることが科学的だこと」
当然ながら、私の言葉に科学的根拠はない。単なるおふざけの延長である。
ちなみに、ミミも私と同じくルルイエ研究所で働いているが、彼女は医務室の嘱託職員としてよそから派遣されている救護員なので、厳密に言えば所属も職務も給与体系も私たちはまるで違う。
あわせて訂正するならば、ルルイエではドーナツの研究などしていない。
ミミが言う。
「親友としてアドバイスするわ。良家のお嬢様だったはずの人間が毎週末ドカ食いしなきゃやってられないような仕事なら、早々に見切りを付けてしまった方がいいんじゃないの?」
「
「絶対いや、それだけはできない! ルルイエは私の敬愛するヴィルヘルム・フロイデンベルク博士が所長を務める研究所なのよ? ルルイエに入るために寝食も忘れるくらい勉強に勉強を重ねたし、本だって学会誌だって沢山読み漁ったし、なにより、家族を説得するのにどれだけ私が苦労したか……!」
十年前に貴族制度が廃止されたとはいえ、それまでに有していた資財までが国民みなに配分されるわけではない。考え方も同じ。
下層階級の国民の間では働きに出る女性や子どもも珍しくはなかったが、上層階級の者にとっては、女性が働きに出るのは「経済的に苦しいから」という理由で、もっと言えば「恥」だとする考え方が主流だった。
私の家、バロウズ家も元は貴族だった。経済的にも裕福だったため、私が働きに出ることを理解してもらうのは相当に骨の折れることだった。
厳密に言えば、私はどうしても「お金が稼ぎたい」というわけではなくて――あの家から早くひとり立ちしなければと考えていたのも事実だが――、仕事にしたい「こと」があったのだけれど。
ミミ用にも五つドーナツを買ってきたが、彼女はまだ二つ目を食べているところだ。ゆっくりと紅茶を飲みながら、味わっている、のか……それとも量が多かったのか。
「知ってるってば、何度も聞いた。博士と同じく、幻獣の、とりわけ『竜』の研究がしたかったんでしょう?」
そう、私は竜の研究がしたかったのだ。
竜が人間の前に最後に姿を現したのは、正式な記録では今から十九年前のこと。文献で読んだだけなので、当時二歳だった私には、生きた姿を見ることは叶わなかったけど。
骨格標本だけでいいのなら、ルルイエ幻獣研究所施設内に併設されている幻獣博物館に、実物が展示されている。観覧料も高くないので、研究者の道を志した時から、私は足繁く通っている。
「でも、ティナったら、せっかくルルイエ幻獣研究所に研究員として採用されたにも関わらず、竜どころかどの研究にも携わらせてもらえない。雑用や、一年目の新人でもやらないような使いっ走りばかりさせられている、というのが今の当面の問題なわけでしょう?」
「ううっ……おっしゃる通りだけど面と向かって言われるとさすがに辛いわ……」
いつも私の愚痴を聞いてくれているミミは、私の職場での立ち位置をかなり正確に把握している。それどころか、彼女が勤務する医務室には研究所内の様々な部署の様々な職員が訪れるため、下手をすれば私より人脈を持っている。
――新入り! 小腹が空いたからビスケット買ってきてくれ。お茶も淹れるんだぞ。
――新入り! 庭の植物に水遣りしといてくれ。育ったら俺が食べる。
――新入り! 清潔な白衣の替えはどこだ? ……はぁ? まだ干してるだと!?
朝日が昇り始める早朝、静まり返る研究所に行ってまず私がやることといえば、所属している研究室の掃除である。それが終われば幻獣管理棟にて担当幻獣ケージ内の餌やりと掃除と健康観察。
ちなみに、私が関わることを許されているのは、「第四級」と呼ばれる小型の幻獣まで。研究室ごとに担当する幻獣の種類や幻獣の「等級」が割り当てられているが、そのうち私の所属するコックス研究室が受け持っている幻獣について、第四級は全て私の担当となっている。それ以外は新人には任せられないということで、先輩方が数種類ずつ担当している。
日々の世話が終われば、研究室に戻る。その頃には先輩研究員たちが出勤してくるので、頃合いを見てお茶を出したりあれこれの雑多な頼みごと――私的なものも当然のように含まれる――をこなし、しばしば理不尽に怒鳴られ、歯を食いしばりながらも私は負けじと働くのだ。
昼食を食いっぱぐれることも少なくない。終業時間を超えても帰れないことだって少なくない。正直、多い。悔しいが、多い。
それでも私がこの研究所にしがみつくのには理由がある。
幻獣を研究している施設は国内にいくつか点在しているが、その中で最も長い歴史と実績を誇るのが、このルルイエ幻獣研究所なのだ。フロイデンベルク家の当主が研究所所長を歴任しており、またその所長自身も、幻獣の研究――主に竜――で第一線をゆく素晴らしい研究者ばかり。
だからこそ私は、所長一族に、もっと言えば現所長であるヴィルヘルム・フロイデンベルク博士に、心酔しきっているのである。
彼の研究成果に触れたのは、十歳を超えた時だったか。
難しい学術論文を読むにはまだ早いということで、まず私が触れたのは、十九年前に研究員が捕獲した竜の観察記録だった。論文というよりは、エッセイや小説に近いものだ。
いつ、どこで見つけて、誰が捕獲して、どのような交流を試みたか。或いは、どのくらいの大きさで、どのような形をしていたか。そして、どのように死んでいったのか。
博士の研究は素晴らしい。
竜の死後、博士率いる研究チームはその死体を徹底的に解剖し、たくさんの論文を発表した。火を噴く仕組みや消化器官の構造、又は鱗の構成成分の研究から工業的な応用の可能性まで、多岐にわたる分野に関連した論文たちは、世界中で絶賛されたと聞いている――私がまだ竜に興味を持ち始めるよりも昔のことなので、当時の状況は伝聞でしか私は知らない――。
竜は何千年も生きるとされる。「不老不死」の生物だとの記述が古文書に散見されるように、人間には考えが及ばないほどの悠久の時を生きる生物だ。
しかし、それはきっと自然界にいればこその寿命なのだろうと私は考える。
人間が用意した檻の中に入れ、十分な餌を与え健康に気を配ったとしても、きっとそんな「不自然」な環境では、苦しくて窮屈で長生きなんて出来ないだろう。だからあの竜も、捕獲されて数ヶ月で死んでしまったのだろう。
これは、博士の論文にも書かれていたことだ。博士は竜の死体を研究しながら、幻獣保護についての論文も発表している。
――人間世界の技術発展には、幻獣の持つ魔法にも似た能力や生態の解明が不可欠だ。しかしながら、幻獣側に犠牲が生じてしまうことを当然と考えるべきではない。共存の関係を維持しながら、彼らの生態系を乱すことなく、我々は彼らの力を拝借・観察する姿勢が求められる。――
竜の捕獲から数年間、怒涛のように博士は論文を生み出した。しかし、その後、博士はパッタリと竜に関する研究論文を発表することをしなくなった。意欲を失ったのか、それとも単に研究材料として新たな竜の捕獲ができていないから書けないだけなのか、様々な憶測が飛びかった。もちろん、博士は他の幻獣に関する論文の発表はしているから、研究そのものに対する意欲を失ったわけではないのだろう。
そして私は思った。
十九年前に捕獲した竜。あの竜との出会いが、博士の何かを変えたのではないか、と。
もっと踏み込んで過ちを恐れずに言うのなら、幻獣保護を主眼に置いた研究を、彼は目指すようになったのではないか、と。
私が研究者の道を選んだ目的は、竜を、幻獣を、捕らえて殺して解剖することではない。彼らが自然界でどのように生きているのか、単にそれを知りたいのだ。死体を見つけた場合は解剖することだってあるだろうが、解剖するために殺すのではなく、せっかくの命を無駄にしたくないだけだ。
その気持ちを、ヴィルヘルム博士はきっとわかってくださるはず。むしろ私が彼と同じ姿勢だ。だから、彼のそばで研究したいし、認めて欲しいし、きっと私は役に立てる。
その部分が、私をこの研究所から逃げ出さない力を生み出してくれている。
「ミミ」
安月給で借りれるくらいの物件である、築二百年レンガ造りのアパートは、窓も小さく建て付けが悪い。
けれど、窓の向こうに見える景色は、最新式鉄筋コンクリート造りのアパートから見ても、丘の上、ロマンチックな浜辺、どこから見てもまったく同じの、橙と紫色の夕暮れだ。
あと数時間もすれば、またあの
ため息が出るのは止められないが、それでも私は立ち止まりたいとは思わない。
「ミミ、私、……頑張るよ」
毎週末、甘いお菓子に頼らざるを得ないとしても。
「下積み」と呼べるほどの仕事すら与えてもらえないとしても。
それでも私は、逃げたくない。諦めたくなんかないのだ。
博士にも会えていない。研究の一つもできていない。
これからだ。
何かが始まるとしたならば、それはきっとこれからのはず。
口元にドーナスの食べかすを付けながらも、決意の固い私を見て、ミミはちっとも笑わなかった。釣り上がり気味の目を細めて、満足そうにゆったりと頷く。
「そうね。それでこそ私の友人だわ。私だって諦めたりしない。頑張るんだから」
「諦めないって、もしかして兄さんのこと?」
「そうよ、悪い? 私はずっとフレッド一筋なんだもの」
「別にいいけど、それをわざわざ妹の私に宣言しなくても」
ミミは学生時代、私の兄さんに一目惚れをしたらしく、今もその恋は片思いのまま続いているらしい。妹の私が知る限りでは、彼女の影を見たことはない。
けれど、良家の嫡男で頭脳明晰、物腰柔らかな容姿端麗独身男――妹の私がこんなに絶賛していいものかわからないけど――を狙う女性は多いだろう。決めるのは兄さんだから私がとやかく言える問題ではないので、あとはミミの頑張り次第だと影ながら応援するばかり。
「ティナだからこそ言うのよ。将来私はあなたの義姉になるんだから」
「はいはい」
彼女もドーナツを一つ取った。チョコレートコーティングの上からピンクのチョコスプレーがまぶされた、私おすすめの激甘な一品。私が持っていたドーナツにコツンと当てて、小さく「乾杯」と頰を綻ばせた。
一口食べて、「今日の夕飯はもういらないわ」と苦しそうに呟くのもセットで。
* * *
ルルイエ幻獣研究所に入職したのはもう半年近く前のことだというのに、私はまだ所長であるヴィルヘルム博士にお会いしたことがなかった。
面接試験の時も、勤務初日にも、博士は調査のため外出しているとかで、お会いすることがかなわなかった。そこの重要地点を逃してしまった下っ端の更に下っ端のような私なには、日常業務をこなしているだけではひと目お会いする機会すらない。
彼は幻獣研究における世界的権威である。多忙なのは知っていたが、研究所にいる時には論文の査読はもちろん研究の相談に乗ってくれたり、様々な助言をしてくれるということも同時に私は知っているのだ。
そうは言っても、自分の研究はおろか、所属研究室の共同研究チームの一員にすら加えてもらえない状況では、彼との接触など遠い夢のような話である。
「はあ、博士……。そのうちお会いできる日が来るのかなあ。ねえキリム、博士ってどんな人? 優しい? 怖い? まさかハゲてる?」
世話を任されている幻獣の一つ、キリム。私は彼に給餌をしながら、自分の妄想を垂れ流す。
キリムとは、七つの頭に七つの角、七つの目を持つ小型の幻獣だ。それぞれの頭には小さいながらも脳が存在しており、共有している一つの胴の行動は、七つの頭のうちのリーダー格の意思に委ねられているのだという。手のひらサイズのキリムはまるでイソギンチャクのようだと気味悪がられることも多いようだが、鳥の羽が生えているのに空を飛ぶことができないという、なんともお茶目な側面が、私にとっては可愛く感じる。
見た目ふわふわの毛並みを撫でてみたいが、キリムはなかなか凶暴で、おまけに頭が七つもあるので、簡単に隙を突かれて指を噛みちぎられてしまう。だから私は檻を挟み、聖母のように慈愛をもって見つめるだけだ。
「いやいや、そこはやっぱり壮年紳士を想像しておきたいところよね。博士と会うのは夢だったんだもの、ハゲ散らかした中年男で想像するのはこれまでの私に失礼だわ」
ヴィルヘルム博士は十九年前すでに博士で研究所所長だったのだから、いくら若くても当時二十を超えているはず。そこから換算して、少なくとも四十代、おそらく実際には五十代くらいのおじさまだろう。
くたびれた白衣の袖を捲り上げ、ワゴンに乗せてきたノートの中から、キリムの観察日誌を取り出す。
「今日のキリム一号ちゃんの様子、……食欲、あり、体毛、艶よし、機嫌は――」
檻の隙間から指を入れてみる。しかし、すぐに牙をむき出しにして私の指に食らいつこうとしてきたので、私もすぐに手を引っ込めた。あわよくば、その体毛を撫でてみたいと思っているのに。
「機嫌は、よし!」
週の始まりは特に仕事が山積みである。目の前の幻獣に言葉が通じるのかどうか不明であるが、私は「またね」と声を掛け、キリムのケージを後にした。
そもそも、どうして人が幻獣の研究をしているのか。
それは、彼らが人間にはない力を持っているからである。
例えば、グリフィンやユニコーンは空を飛べる。「空を飛ぶ」ことだけを切り取ってみれば、鳥類と同じように見えるだろう。
けれど、鳥類が空を飛ぶ原理は飛行力学や物理学で説明が出来る一方で、幻獣が空を飛ぶ原理は、我々人間がこれまでに得ている知識ではまだ説明ができないのだ。
空を飛ぶ原理だけではない。ひと目見ただけで対象を石化させてしまう能力や、体内から炎を吹き出す能力、或いは幻覚を見せる能力なども、まだ我々は「魔法」と言ってしまう以外の、科学的に説明する術を持っていない。
そこで、幻獣を研究し、あらゆる事象を解明し「魔法」を「科学」に落とし込むことで、我々の生活をより豊かに変えていこうというのが、幻獣研究の目的なのだ。
これまでにも幻獣研究により新しい元素や化合物が発見されたり、難病の特効薬が開発されたりと、人間の生活への貢献度は著しいものがある。
担当の幻獣の世話をひととおり済ませて研究棟に戻ってみると、先輩研究員たちが何やら固まって話し込んでいた。
「……を…………て固定すれば、変態するのを……できる」
「組織固定にはこの…………が最も効果があるし、逆変態を……にも…………可能性がある」
黒板にチョークで化学式を展開させながら、糊の効いた白衣に身を包んだ集団がなにやら意見を出し合っているようだ。人の影で遮られて黒板に何が書かれているのかはっきり見ることはできないし、会話も途切れ途切れにしか聞こえてこない。
ついつい私は無意識に耳を傾けた。
「人為的にアポトーシスを引き起こさせるには、やはりこの…………っおい新入り! なに見てるんだ!?」
主任研究員であるコックス室長の声により、全員の視線が私に注がれた。
「あ……お、おはようございます。第四級の健康観察が完了したので――」
「俺たちの話、盗み聞きしてたのか?」
『盗み聞き』。その言いぶりに傷つきながらも、私は自分の傷に無視を決め込む。
「盗み聞きというほどでは……今帰ってきたばかりなので」
「俺たち先輩研究員の許可を得ていないんだ、盗み聞き以外の何がある? 本来ならお前なんかこの研究室に足を踏み入れる資格すらないはずだ。せめてもの情けで下働きをさせてやっているところなのに」
ああ、甘味。
甘いものが食べたい。
昨日あんなにドーナツを食べたというのに、すでに私は砂糖を欲しているようだ。
「資格すらない……? どうしてですか? 同期たちはすでに他の研究室で合同研究に参加しているみたいだし、私だって正規の手順で採用試験に合格したんです、だから当然ここにいる資格も――」
「信じられない。誰もお前を認めちゃいない」
「え? それは一体、どういう……?」
先輩研究員の一人、ルノーさんが大きなため息をついた。眼鏡の隙間から、細目がジロリと私を睨む。
「一応、血筋
「私は研究がしたくって、この研究所に――」
「新入り。早く人数分の茶を淹れてこい」
「……はい」
「砂糖は入れなくていいからな!」
「…………はい」
自分用の紅茶なら、角砂糖五つは確実に入れていた。初めて紅茶を出した時、よかれと思って同じ数だけ入れてみたら、「嫌がらせか!」と怒られた。
とんでもない! 嫌がらせをしているのはあなたたちの方でしょう! ……というのは、さすがに喉にひっかかって止まったっけ。
ハーブに水をやりながら、私の回想は止まらなかった。
学校での成績は悪くなく、上位成績者として何度も表彰されたこともあった。そもそも悪ければ、ルルイエなんて有名な研究所の採用試験に受かるわけがない。
働き始めて約半年、先輩たちの指示には従順に迅速に従ったし、反感を買うようなことをした覚えもない――角砂糖事件を除いて――。
それが、どうしてか私に与えられた仕事は掃除やお使いが大半――幻獣のお世話は嫌ではない、むしろ楽しくやっている――で、他の研究室に採用された同期たちとは違い、私に与えられた白衣は「おさがり」。丈が合わないなんて当たり前で、ほつれどころか黄ばんでいる。これはもう「白衣」ではなく「黄衣」と呼んだ方が正しい気がする。
感傷に浸りすぎたのか、喉の奥からこみ上げて来るものがあった。しかし私は負けたくない。鼻をすん、と鳴らしながら、じょうろ片手に空を眺めた。
クレープ。
クレープが食べたい。薄い薄い黄色の生地に、たわわに包まれた純白のクリーム。苺がトッピングされていれば言うことなしだ。
ちなみに、苺は野菜に分類される草本性の植物だからカロリーはないも同然だし、あんなに薄い生地、あんなに軽いシャンテリークリームにもカロリーなんてあるわけがない。
理不尽な扱い、理不尽な暴言。
それでも、反抗すればもっと酷い扱いが待っている。入りたての頃、どうして子供じみたいじめをするのかと先輩を問い詰めたことがあったが、結局何も改善されないまま終わった。
むしろその後二週間は、彼らの間食の使いっ走りしかさせてもらえなかった。間食も、甘いものならまだいい。彼らが私に頼むのは、ピザとか、ハンバーガーとか、女性陣ならサラダとかサンドウィッチばかり。嫌がらせかと思うくらい、徹底的に甘いものを避けられてしまったのだ。
その事件をきっかけに、私は大っぴらに反抗をしないことを決めた。
水やりの後、先輩に言いつけられた資料探しを必死で片付けランチに向かったが、食堂のエントランスにはすでに『ランチ終了』の看板が掲げられていた。どこか施設外へ買いに行こうかとも思ったが、たった二十分の休憩では、買いに行けても食べる時間が残らない。
「今日も食べそびれたか……」
クレープ……いや、パンケーキ。十段のパンケーキ。その上にはシャンテリークリームのタワーを。最後に水たまりかと見まごうほどのメイプルシロップを注いで。
それくらい、ガッツリ食べなきゃやってられない。カロリーは、一度に摂取できる上限をはるかに超えてしまっているので、消化器官がエラーを起こして体が取り込むことを拒むはずだ。
「新入り、草取りやっとけよな。四時になったらお茶。その後は室長が資料探しをさせたいって。あとあれだ、白衣。全員分のを忘れずに洗ってから帰れよ。糊付けもな」
「…………はい、分かりました」
そうして、私が自宅に戻れたのは、クレープ屋もパンケーキ屋も寝息を立てる深夜であった。
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