10 絶対に諦めない!
竜――ヴィル博士――は、絶対にこの私が助ける。
しかし、世界のルルイエ幻獣研究所である、そう簡単に破れるような警備体制を敷いてはいない。
幸いにも、私はまだ研究所所属の扱いで、守衛さんには疑われることなくすんなりと施設内に侵入できた。生きた竜が実験棟にいるのだ、これまでの警備体制とは違う体制を強いられて、それに伴う混乱の程度も少なくないからだろう。
私はそれから、幻獣管理棟へと向かった。
私に謹慎を言い渡したコックス室長も、鍵を取り上げなかったあたり、甘いと言わざるを得ない。
いや、むしろ「持っている全ての鍵を渡せ」と言われる前に逃げた私を褒めてあげたほうがいいかもしれない。
幻獣管理棟で私がしようとしていることは、研究者として、というより社会人としてはあるまじき行為だ。組織の和を乱すどころか、組織に多大なる損失を与える行為である。
だが、そうでもしないとこの状況で博士を助け出すことなどできない。
「起きてる?……ねえ、お願いがあるの」
私は自分が世話をする第四級幻獣エサースロンの檻の前にやってきた。
時間は深夜二時。密集した植物の陰から、数個の目が光るのが見えた。
「お願い、力を貸して欲しいの! あなたたちも知っているでしょうけど、今、この施設内で竜が捕らえられていて……このまま放っておけば、殺されてしまう。だから、竜をここから逃がす手伝いをして欲しいの」
エサースロンは小人の姿をした妖精の一種で、困っている人がいると助けにきてくれる優しい幻獣だ。ただ、覗き見されるのをとても嫌って逃げ出してしまうこともあるため、研究所内では願い事の一切は禁止されている。
竜は幻獣の王とされている。きっと、竜を助けるためならば、エサースロンたちも動いてくれるはず。
私の思惑通り、少しずつ、葉の陰から彼らは姿を現してくれた。手のひらサイズの小さな体。長い耳と、猫のような顔、後ろ脚。研究所内で飼育しているエサースロンは、もう数年も、誰にも何も頼まれていない。手助けが大好きな彼らだ、「頼みごと」に飢えていたのかもしれない。
「応えてくれて、ありがとう」
ポケットから鍵を出し、私は檻の鍵を開けた。小さな扉を引き、彼らが出やすいようにしてやる。そして、数歩下がって待った。
彼らは私の顔色を伺うようにしながら、ゆっくり扉から出てきた。
ここに捕らえられてから、外に出る機会など当然ながら一度もなかっただろう。脚の爪が木の床に当たってカチャカチャと音が鳴るのを、不思議そうに見ている。
「ありがとう。私があなたたちに頼みたいことは――」
それから、いくつかの幻獣の檻を開け、彼らを施設内に解き放った。
幻獣と人。言葉が通じない、意思疎通はできないと断じたのは、一体誰だったか。
そんなことはなかった。もちろん、全ての幻獣が該当するとは思わないが、動物よりもずっと知能が高いということはわかった。
施設内に警報が鳴り響く。解き放った幻獣が、誰かに見つかったのだろう。
私は二匹のアスプ――外敵を眠らせることのできる蛇――を腕に抱きながら、混乱する廊下を走った。
深夜、研究所も静まり返る時間帯。しかし、竜を捕らえてからまだ間がなく、いつにも増して人が多い――もちろん、日中よりかは少ないけれど――。この中で博士を助けようと思ったら、幻獣を逃しその混乱に乗じるしか方法はなかった。
明かりを落として緊急灯だけがぼんやり足元を照らす中を、私は必死に駆けた。
「この警報音、いま向こうの棟では何が起こっ――」
しかし、彼らは一様に、私が抱いたアスプを見ると、言葉の途中でもお構いなしにすぐその場でくずおれるように眠りに落ちてしまった。このために、私はアスプを連れているのだ。
「おい、その妖精と蛇は一体なんなん――」
私の足元には、数人のエサースロン。私の求めに応じ、ついてきてくれたのだ。だが、幻獣管理棟で飼育していた数よりも、今は明らかに増えた数が私についてきてくれている。きっと周辺から集まってきてくれたのだろうが……人が暮らす市街地のどこに隠れて生活していたのだろうか。
幻獣は本当に様々な能力を有している。力が強い・弱い、体が大きい・小さいだけでなく、火を噴く、風を巻き起こす、催眠作用、幻覚作用をもたらす等々、多岐に渡る能力があるため、人間には対抗できる手段がない。
もしもこの幻獣の力を軍事利用でもされてしまえば、きっとどの国も手出しできないだろう。もっとも、今の技術では幻獣について解明できていない部分が多すぎるし、生物兵器として利用するにも幻獣の絶対数が少なすぎるので不可能だけれど。
何年、何十年、下手をすれば百年単位の歳月をかけて捕らえた幻獣は、研究所にとっては財産だ。それを、私は逃している。研究所には大打撃だろう。
けれど、これしか方法を思いつけなかった。博士を助けるためには、必要な損失なのだ。
けたたましい警報が響く中、私はついに竜――博士――が捕らえられている実験棟、第三実験室の前にやってきた。
「お前……ティナ……新入り? なぜここに……なんで幻獣が檻から出てる!?」
そして、偶然扉がバン、と開いて、ルノーさんが飛び出してきた。
私が今連れていたアスプは、元はルノーさんが面倒を見ていた。だからすぐにその能力を思い出したのだろう、アスプに催眠をかけられる前に、ルノーさんは目を瞑ってそれを防いだ。
「コックス室長から謹慎処分を受けていただろう! どうして――」
「嘘つき」
「は、はあ? 俺が、嘘つき? 何の証拠をもって俺が嘘つきだと侮辱するんだよ」
「私は、あの薬を盗んでいない。それを一番よく知っているのはルノーさん、あなたのはずです。あなたの虚言のせいで、私は謹慎を言い渡された」
ルノーさんは、アスプを見ないように、ずっと目を閉じている。
今の状態がどれだけ自分に不利なのか、彼もきっとわかっているはず。しかし、目を開いたら瞬時にアスプが待ち構えているのだから、他に方法はないのだろう。
「きょ、虚言でもなんでも、信じてもらえたら虚言じゃなくなるんだよ!」
「私たちは研究員、真実の探求者です。皆が知らないこと、世界の謎を解き明かすことを仕事としている。でも、その私たちが嘘をついてしまったら、それがたとえ一度、軽微な嘘だったとしても、その前もその後も、信頼を取り戻すのはとても困難になります。あなたは今、研究者としての禁忌を犯そうとしたんですよ?」
ガーゴイルが脱走した時もそう。ルノーさんは施錠を怠った責任を、私に押し付けようとした。
「ルノーさん、博士の居場所をご存知なんじゃないですか?」
「し、知らない」
「私は知ってますよ。今あなたが出て来た部屋です。そこにいらっしゃるじゃないですか」
「新入り、お前……」
「そう、あなたが昨夜捕らえたという竜。それが、博士なんでしょう?」
ブラフなど、面倒だった。確信していたというのもある。
「ルノーさん、あなたはまず、ミミから博士の正体は竜であると聞いた。もしも新薬で擬態の解除が出来たなら、そして捕らえることができたなら、その手柄はあなたのものになるとでもミミに乗せられたんでしょう? そこであなたは適当な理由をこしらえて、夜に博士を呼び出した。その場で新薬と睡眠薬を使用して、擬態が解けて竜の姿に戻った博士を捕らえた、と」
私の話を、ルノーさんは否定しなかった。
「……な、何が悪い? 竜は研究対象だ。見つけたら捕獲するなんぞ、当然のことだろう!」
「十九年前に捕らえた竜は、結局捕獲から短期間で死んでしまった。竜が快適に生きられる環境を与えられないこの施設では、竜の飼育など出来ない」
「だだだだからなんだよ! お前は俺の気持ちなんかわからないくせに! いつまで経っても書いた論文は却下されるし、ようやく出来た後輩も、さんざんいびってやるはずが博士に可愛がられるし! 俺だって、俺だって認められたいし、チヤホヤされたかったんだよ!」
私は一歩ずつ前に出た。靴の音が近づいてくるのに怯えるルノーさんは、目を瞑ったまま後ずさりする。
「それにしたって、あなたのやり方は間違ってる。手段を選ばないなんて、絶対あってはならないこと。研究者なら、もっと真摯に目の前の問題に取り組むべきだった」
「や、やめろ! アスプで俺を眠らせる気だろう!?」
「邪魔をしないでって言っても、無理でしょう? だったらこうするしかないんですよ。大丈夫、痛くありませんから」
頑なに目を開こうとしない彼の眼前に、私はアスプをのぞかせた。口から細い舌を伸ばし、チロチロと動かしている。それがルノーさんに触れ、彼は驚きのあまり悲鳴とともに目を開けた。
そして、アスプと目が合った瞬間、彼は昏倒するように眠りに落ちた。
「……ふう」
ルノーさんを廊下の端に追いやってから、ようやく私は竜のいる扉を開いた。私の姿を確認すると、竜が頭を上げた。
今朝会った時には視線が定まらず朦朧としていた竜も、おそらく麻酔から完全に覚醒したのだろう、体を丸めながらも、空色の瞳はしっかり開いていた。
そして私はエサースロンンに指示を出す。
「これが最後のお願い。ここの檻の鍵を開けて、竜の首輪と足枷も外して欲しいの!」
もともと、大型の幻獣用の実験室だ。小型の彼らにとっては、鉄格子の間をすり抜けるのも難はない。数人が檻の鍵の解錠に取り掛かり、その他は首輪と足枷に群がった。
エサースロンの数は、またしても増えていた。楽しそうにワイワイ話しながら、大きな鍵穴に手を突っ込んだりして着実に一つ一つ外していく。動くたびに、キラキラと鱗粉様の光が舞った。
「助けに来たんです」
戸惑う竜――ヴィル博士――に、私は言った。
「私、覚えています。あなたは今から十三年前、私に血をくれた竜でしょう? 再会したいとずっと待ち望んでいたけど……こんな形の再会は、私が望んだものじゃない」
前脚、後ろ脚、首。大きくて黒い金具が外れ落ちた。地面の煉瓦が衝撃で割れる。
檻の鍵も外れた。
私は彼が出やすいよう、両手を使って鉄格子を開く。
「逃げてください。今ならまだ、殺されずに済む。あなたがここで飼い殺しにされて、切り刻まれるのは見たくない。だから――」
竜が立ち上がった。天井は高いと思っていたが、翼を広げるほどの高さはないようだ。
頭を下げてのそりと出入り口をくぐり、そのまま、私は屋外へ誘導した。
「……君はどうする?」
十三年ぶりに聞く竜の声。大きな腹の中で反響して、低く、あたりに響くような声。私の記憶の中にあったままの声だった。そして、ちょっと、博士の声に似ている気がする。
感動のあまり、涙がじんわり沸いてくる。
「私は残ります」
屋根のない場所に出ると、竜は大きな翼を広げた。飛膜がピンと張られ、数度の羽ばたきで地面に風が巻き起こった。
あの質量の物体を空に浮かせるには、あの翼では物理法則に反する。きっとこれも、人知を超えた「魔法」の力なのだろう。
「ひとまず、どこかで身を隠してください。私は大丈夫、この騒動の主犯だとはわからないようにして……ギャッ!?」
竜は博士だ。もしも再び研究所の所長として人間に擬態して戻ってくるつもりなら、どこかでその姿を隠す必要があるだろう。そう思ってのことだったのに、私の言葉が終わるのを待たず、竜の前脚に捕まえられ、そのまま空中に連れ去られた。
空の旅は、たぶんとても不快だった。
高度が上がるたび、羽ばたき一つするたびに、私の内臓に重力がかかって胃がひっくり返るような感覚に陥った。だから、私はすぐ気を失ってしまった。
気づいた時には辺りは既にほのかに明るく、そして私は竜の腹を枕にして眠っていたみたいだった。
竜は恒温動物だ。陶器製タイルのような手触りの鱗は暖かく、呼吸に合わせて上下している。そして、私を体全身で包むように、背骨を丸く曲げている。
「起きたか」
「おはようございます」
朝日が昇ってまだ間もないだろう、植物は朝露に濡れ、白い靄が辺りを覆っている。
場所は……よくわからないが、どこかの森の中だと思われた。図体の大きな竜が、その体を隠すに市街地はふさわしくない。だから、人里離れた森の中にまで飛んできたのだろう。
太陽の明かりが射す中で、私は改めて竜を見た。鱗はいくつか割れて剥げて、ところどころ血を流している場所もある。特に足枷をつけられていた足首付近と首は、抵抗したと思われる傷が残酷なまでに残っていた。
「……痛そう」
「舐めておけば治る」
血は大半が止まって乾いていたが、それでも赤黒くなって鱗にこびりついている。
猫が尻尾を揺らすように、竜は翼を軽く動かした。その時、飛膜にも傷を負っていることに気づいた。もしかしたら、捕獲時には軽微だった傷が、私を抱えて空を飛んだおかげで、裂けて悪化してしまったのかもしれない。コウモリの飛膜は破れても、栄養と休息により素早く元どおりに治るが、竜の飛膜はどうなのだろうか。
「……ごめんなさい」
せっかくの美しい体が、心ない扱いによって傷ついてしまった。たとえそれが私のせいではないとしても、謝らずにはいられなかった。
「竜の研究には憧れていたけど、ああやって、湿っぽい実験室に閉じこめて、自由を奪い、死ぬのを待つことなど、したいと思ったことはなかった。私は空を自由に飛び、青い草原で食事をして、他の幻獣と戯れるような、そんな自然の中にいる竜を、観察したかったの。だから、あの研究所に入ったのに」
「気にするな」
穏やかに言うが、気にするに決まっている。
「人間と竜は、共存する方法があると思っていた。でも……そんなの、まだまだ遠い未来のことかもしれない。今の時代ではとても無理だわ」
きっと、これから先、たくさんの幻獣が犠牲になって、それを悼む人が増えなければ、世の中は変わっていかないのだろう。
竜は私の言葉に対しては何も言わなかった。その代わりなのか立ち上がったので、私もつられて立ち上がった。
「南にまっすぐ十キロも行けば、人の住む集落がある。そこで助けを呼べ」
「あなたは?」
「……私は私のしたいようにする。ティナには関係ない」
「あなたも一緒に行きましょう。あなたの傷の手当てがしたいんです」
「竜を人里に連れていけば、どうなるかわかっているだろう? 私はついては行けない。だからここでお別れ――」
「博士」
私は彼の言葉を遮った。
一瞬止まった竜が、ギギギ、と錆びたブリキみたいに、ぎこちなく私の顔を見た。
「ヴィル博士、でしょう? あなたは本当は、ヴィルヘルム・フロイデンベルク博士でしょう?」
きっと彼は、私が正体を知っているとは思わなかったのだろう。
私と彼は、目を合わせた。固まったまま動かないので、私はたまらず吹き出してしまった。
「いつもなら、『ティナ、ティナ』って私のそばに来るくせに。どうして今日はそうやって私から逃げようとするんですか。せっかくこっちから近づこうとしているのに」
それと、言葉。普段よりも突き放した言葉を選んで使っているのが分かる。博士としては、「竜」を演じているのかもしれない。そう考えたら可笑しくて、やっぱり私は笑ってしまった。
「……いつから気づいていた?」
「ミミに『あなた何にも知らないのね』って笑われて、地下書庫の、鍵のかかった部屋に入りました。あ、鍵は勝手に拝借しました。色々過去の記録を見たり、博士がこれまでに仰ったことを思い出したりして……それで」
「……そうか」
「だから、私に年齢を教えてくださらなかったんですね」
「一五〇〇までは真面目に数えていたんだけどね。その先はもう面倒になって。だから、自分のことながら正確な年齢がわからないんだ。ま、どちらにしろ人間の年齢としてはとっくの昔に死んでるだろうけど」
とたんに、いつもの喋り方に戻った。
けれど、竜の姿をしていると、博士の声はいつもの何倍も低いのだ。正直、あまり似合わない。
「私のこと、軽蔑した?」
「ビックリはしましたけど、軽蔑なんて。……ところで、元の姿には戻らないんですか? 元の姿というか、人の姿というか。普段が擬態している状態なら、今のその姿の方が、元の姿ということになるのかな。それとも、まだエリクサーの効果が?」
「いや……すでに効果は切れているが」
ミミはエリクサーをたくさん使用したと言っていたけど、この体の大きさにはそこまで負担のかかる量ではなかったのだろう。
「本当に? 本当に、擬態しても?」
疑い深くなんども彼は確認する。
「はい。今の姿が嫌いというわけではなくて、もっと見ていたいと言えばそうなんですけど……見上げるのが辛いのと、今の博士、体が大きい分、声も大きいから」
私は辺りを確認するように、周囲を見回した。
こんな森の奥の早朝、観衆なんていないだろうが、万が一ということもある。
「そうか。ティナが言うことももっともだが……本当にいいんだな?」
「はい!」
竜の姿でなくなってしまうのは名残惜しいとは、確かに思った。けれど、私は力強くうなづいた。
竜は姿勢を正し、目を瞑った状態で顔を空に向けた。すると、全身が淡く発光しだし、眩しさに顔を背け、また視線を戻した時にはすでに彼は人間の姿を取り戻していた。
「博士、やっぱり竜の正体ははか…………ぜ、全裸っ!」
首の骨が折れそうな速度で、私は博士に背を向けた。
「いやあ、だってティナがいいって言うから。当然だろう? 竜が着れる服なんてないし、服は肉体の一部ではないし」
草を踏む足音が、背後から近づいてくる。
「ち、ちちち近づかないでっ!」
「せっかく君の願い通りの姿になったというのに、酷い扱いだな」
何か彼に羽織らせるものはないかと周囲を見回したが、当然ながらここは森の中。そんなものあるはずがない。
だが、ハッとして私は自分の服に手をかけた。大慌てでボタンを外し、ぐしゃぐしゃに脱いで博士に渡す。
「は、白衣っ! 私の白衣、博士にはちょっと小さいと思いますけど、とりあえずこれも着ててください!」
じゃないと、目の毒だ。
「悪いね」
彼はそう言って受け取ると、シュルシュルと衣擦れの音が聞こえた。ちゃんと着てくれているのだろう。
博士の合図で恐る恐る振り返ると、裸に白衣を纏っただけの、怪しい人――ヴィル博士――が出来上がっていた。
袖も丈もちんちくりん。肩の線は合っていないし、裾からは膝が見えている。もちろんその下は男らしい筋肉の付いたふくらはぎが見えているし、さらに、裸足だ。しかし顔は、とびきり美しいときたもんだ。方向性が全くわからない。
「うわあ、変質者みたい」
「照れるね」
「褒めてません!」
この姿でどうしてそこまで堂々としていられるのか、彼のメンタルが理解できない。
それにしても、人間の姿をとっても、博士の首と手首足首には、痛々しい傷跡が残っていた。皮膚が赤く鬱血しているだけならまだしも、酷い擦り傷のようなところや、まだ乾いていない血がヌラヌラと光っているところもある。
「……痛そう」
「大丈夫。私たちは不老不死だと言われているだけあって、生命力も群を抜いて強い。この程度の傷なら、明日にはもう治っているはずだ」
「……あの、博士。ちょっとお話ししてもいいですか?」
「もちろん」
「どうして博士は竜なのに、正体を隠し危険を冒してまで、竜の研究をしていたんですか?」
彼は俯いて少し考えたあと、答えた。
「寂しかったんだよ」
「……寂しかった?」
「竜の個体数は少ない。人間や、その他の幻獣とも比べ物にならないくらい、少ないんだ。一体の寿命が長いから、そのぶん神様は数は少なくてもいいや、と最初からたくさん生み出してはくれなかったんだろうね。……長すぎる生は、毒だというのに」
ちょっとおどけて明るく言うが、博士の言葉の裏には悲壮感が漂っているのがわかる。
「世界のことは知っている。誰から教えられるでもなく、生まれながらにして知識として身についていた。でも、自分自身の、竜のことについては大したことは知らなかった。仲間を探しても、百年探して一頭見つけられるかどうか。だから私は、竜について徹底的に研究することにしたんだ」
それが、ルルイエ幻獣研究所の始まり、か。
「十九年前、一頭の竜に出会った。彼は名をグライシスと言った。彼は番を失った竜で、寂しさに耐え切れず会話をしたがった。それが仇となったんだろうね。私は人間には警戒心を怠るなと伝えたが、結局判断の甘さから捕獲され、研究所に連れて来られた。竜は番を失ったら、近いうちに寂しさに耐え切れなくなって、衰弱死してしまう。彼もその運命をたどるはずだった。だから、せめて最期は番と暮らした地で安らかに眠って欲しかったんだが……研究所では、私に賛同してくれたのはごくわずかな研究員だけで、大多数の部下と資金提供者は、彼を研究所内で飼育すべきだと訴えてきた。そうこうしているうちに、あの竜は天に召されてしまって……」
私にはなんと言葉をかけていいのか、わからなかった。
過去を語る博士の顔がとても辛そうに見えたから――いくら変な格好をしていようとも――。
「竜はただでさえ稀有な存在なんだ、その死体なんて滅多に見つかるものじゃない。だから、死亡してしまった彼の亡骸を、私は研究者として、切り刻んで研究に使用するしかなかった。あそこで『そのまま森に埋めよう』なんて言ったら、研究者としてのあり方を疑われかねないからね。それで、せめてもの償いに、彼の死を無駄にしないよう、彼の体からわかることを全て論文にまとめて発表した」
「博士は私にはない知識をたくさんお持ちでした。でも、論文にしていないのは……ここ十年以上、竜に関する新たな論文を発表していないのは、その一件が尾を引いているから?」
「そうだよ。……辛かった。もうあんな経験はしたくない」
博士の背中がいつもよりも小さく見えた。
「ちょうど君に出会ったのは、傷心のすえ、自暴自棄になっていた時だった。当時私には番がいなかったのもあってね……。幼い君は、私の肉が食べたいと言った。体が弱いから、不老不死だと言われている私の肉を食べて、丈夫になりたいと言った。あの時は本当にどうにでもなれと思っていてね。幼い君の願いなど、私に叶えてあげるいわれはなかったんだけど、どうしてか、魔が差したとでもいうべきか。気まぐれに、あげてもいいかという気になった。そして、代わりに君にも血を差し出すように強いたわけだけど」
「君は確かに病弱だったかもしれない。でも、今でも覚えている、汚れのない笑顔が疲れた私にはとても美しく見えたんだ。このまま朽ちていくにしても、最期にちょっとだけ、欲が出てしまったんだ」
「……欲?」
私は聞き返す。
「この少女と一緒なら、この少女が私の隣にいてくれたら、私は寂しいと感じることはないのではないかと」
頰が熱くなっていく。
博士は、気まぐれに私につきまとっていたのではなかったのかもしれない。
子供の頃から、私を――。
「誰もいないような森の中で出会うこと自体に、運命を感じてみてもいいかな、と思ったんだ。だから、君に賭けた」
無意識に彼の背中に手を当てると同時に、目頭がじんわりと熱くなった。
「……ティナ?」
「ごめんなさい」
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい、ヴィル博士の正体がばれる原因は、きっと私。博士のことを友人に喋ってしまったんです。もちろんその時は博士が竜だなんて思ってもいなかったけど、そのきっかけを与えたのは、紛れも無い、私です。エリクサーのことも、私のせい」
盗んだのはミミだ。でも、開発中の薬について、効果などを彼女に言わなければ、きっと彼女も結びつけて盗もうだなんてしなかったはずだ。
「ごめんなさい。もう少しで私は、博士を殺してしまうところだった。本当に、なんと謝ったらいいか……」
「いいよ。気にしないで」
命を危険にさらされたのに、そんなにのほほんとしていられるなんて。むしろこっちが怒りたくなる。
「無理よ! どうしたって、私は――」
「たとえ君に売られたとしても、どんな酷い裏切りを受けても、僕は君を想わずにはいられない。君が僕よりも早くこの世を去ってしまうこと以外であれば、何をされても許すよ」
「ヴィル博士……」
竜というのは不老不死だと言われている。だからこそ、死を知らないからこそ、深い孤独を抱えているのだろう。そして、どうあったって人間の私は竜である彼より先に死んでしまう運命にある。結局、あと数十年で彼はひとりぼっちになってしまうのだ。
彼を想った。
彼の悲しい定めを想い、私には彼を抱きしめるしかできなかった。
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