2-1 新天地



 次なる私の配属先となる第八研究室は、研究棟三階の最奥に位置していた。

 ペンキで白く塗られた扉。まだ研究室が設置されたばかりだからか、正式なネームプレートが用意されておらず、「トリスタン研究室」と走り書きされた紙が画鋲で雑に貼り付けてあった。

 トリスタン研究室。……そう、私は今日からその研究室の一員となる。

 たくさんの期待と少しの不安。控えめにノックを三回して、私はその部屋の扉を開いた。


「おっ、来たな、ティナ・バロウズ」

 真っ先に声をかけてくれたのは、派手な装いの若い男性だった。若いといっても私よりは年上の、ヴィル博士と同じくらいの見た目――彼は二千歳を超えているから、本当に単なる「見た目」の話――である。

 黄金色をもっと焦がしたような濃厚な金の髪を持ち、掘りが深く、顔立ちも濃い。白衣の下にはヒョウ柄のシャツ。おまけに第三ボタンまで開いている。

 見た目で人柄を判断しては失礼だけど、大人しい感じの人ではないなというのが率直な第一印象だ。もしもこの人が新たに私の上司となるベオウルフという人物なら、ヴィル博士が「危険」と言っていたことに、なんだか納得してしまいそうだ。

「俺はベオウルフ・トリスタン。この研究室の主任研究員ってやつ」

「初めまして。ティナ・バロウズです」

 予感的中。握手を求められたので、取り急ぎ荷物をその辺の机の上に置き、私も彼の手を握った。

 温かく、肉厚の大きな手。握る力もそこそこ強い。気圧されつつ彼の顔を見上げると、長く密生した睫毛からバチーンと音が聞こえてきそうなウィンクをかまされてしまった。……強い。濃い。加えて、なんだかチャラい。


「よっしゃ、これで全員揃った。今日は初日だし、オリエンテーションに充てたいんすけど、いいっすか? まあ、立ち話もなんだし、何か飲みながら自己紹介でも始めましょうかね!」

 どうやらベオウルフ班は、合計四人の班となるらしい。ベオウルフ主任――室長ともいう――に、私、それから三十代後半くらいの女性と男性が一人ずつ。どう見たって私が一番下っ端だ。

 じゃあ私がお茶を淹れてきます、と給湯室へ向かおうとしたところ、もう一人の女性が手伝いを申し出てくれた。

「私はリリィ。リリィ・フォスターよ。よろしくね」

 ウェーブのかかったふわふわの髪がよく似合う、とても柔らかな印象の女性。丸い眼鏡の奥からニッコリ微笑まれると、こちらも自然と笑顔になる。

「勝手に決めるけど、みんなコーヒーでいいわね? ベオウルフは……え? ハーブティー? ノンカフェインの、ですって? そんなものあるわけないじゃない。あなたは水ね。……よし、ちょっと待っててね」

 おっとりとした印象とは違い、彼女はテキパキ注文をとるとさっさと給湯室へ向かう。私は圧倒されながら、遅れまいとついて行った。

「前は給湯室まで行くのが億劫で、横着して研究室の実験器具でコーヒーを淹れていたのよ。でも、さすがに転属早々は気が引けちゃうから」

 だらしないようには見えないリリィさんも、実は面倒臭がりなのだろうか。私も横着して事務クリップをバレッタ代わりにしているから、親近感を抱かずにはいられない。


 マグカップとコーヒー豆をドリッパーにセットして、水の入ったケトルを火にかけてしまえば、湯が沸くまではすることがない。

「あの、リリィさん――」

「リリィでいいわ。これからは仲間になるんだもの」

「じゃあ、リリィは――」

「あなたがあの噂のティナ・バロウズね? コックスたちから陰湿ないじめを受けていて、でも、ヴィルヘルム博士の恋人で? 一体どんな子なんだろうってずっと興味があったのだけど、な〜んだ、普通のイイ子じゃないの」

「あ、え、えっと」

 彼女に質問したいことがあったのに、いっこうに喋る隙を与えてもらえない。それどころか、ツッコミどころしかない私の噂を話題にされてしまったら、気にするなという方が無理だ。私が狼狽えているのをいいことに、リリィはどんどん饒舌になる。

「コックスたちにボロボロの白衣を着させられて、共同研究は蚊帳の外。研究所内で噂になるくらい問題大アリの研究だったから、蚊帳の外でよかったかもしれないけど……専用デスクも用意されず、雑用・無視は当たり前。……って聞いたんだけど、本当なの? よく耐えたわね。私があなたの立場だったら、我慢する前に暴力沙汰を起こしてたわ」


 物騒な単語とは正反対の可愛らしい笑みを浮かべる彼女を前にして、どこまで知られているのだろうかと私はひきつった笑みを浮かべるしかできない。コックス室長たちが私にしたことを自分で言うわけないだろうし、私も口外していないし。

 それにしても、私にしたことを周囲が知っている中で働かねばならないというのは、彼らとしてはさぞやりにくいことだろう。なんだかちょっとだけ、ほんの少しだけだけど、つい同情してしまいそうだ。

 私はこれまで自分のことで手一杯で、所属している研究室の外の人とは交流らしい交流をしてこなかった。コックス室長たちの評価も、誰かから聞いたりすることなんてなかったから、こうしてリリィから教えてもらうのは、なんだかとっても新鮮だ。


 ケトルが音を立て出した。シュンシュンと、注ぎ口から水蒸気が上がっている。火を消して、用意したドリッパーに注いでいく――リリィが。私はただ、立って見ているだけ。彼女の行動の素早さに、私は完全に出遅れてしまった。

「……もういいのよ。普通は、そんな辛い思いをする必要はないの。耐えるとか耐えないとかの前に、まず、誰だって他人を軽んじていいわけがない。今だって、飲み物を用意するのはあなたの仕事と決まっているわけじゃないから、誰がしたっていい。私でも、マルコでも、ベオウルフでもいいの。……だから」

 リリィが私の方を振り返った。

「ティナ、仲良くやりましょうね。そして、いい仕事をしましょう」

 トラウマ、というほどではない。

 でも、他人に傷つけられた過去を消すには、時間も何もかもが足りない。

 だからこそ、リリィの励ましは私の心によく響いた。

「はいっ!」

 少しだけウルッと来たけれど、湿っぽくなるのは嫌だったので、元気よく返事をして終わりにした。気持ちを切り替えて、ハイ終わり。今日からは、新しい世界が待っているのだから。私の研究者人生が、今度こそ始まろうとしている……気がする!


 

 コーヒーの入ったマグカップ――ベオウルフ室長の分だけは水――を配り、テーブルを四人で囲んで座った。お砂糖とミルク、それにちょっとしたお茶菓子も用意した。お茶菓子は私が所蔵していた、とっておきのチョコレート。ロッカーに置いてちまちまコッソリ食べていたものだったけれど、食べ切らず残しておいてよかった。

「……それじゃ、適当にくつろぎながら聞いて貰えますかね。まずは俺から」

 そう言って、ベオウルフ室長から自己紹介が始まった。私は耳を傾けながら、角砂糖をマグカップに入れていく。

「この研究室の主任になった、ベオウルフ・トリスタンっす。これまではアーキン研究室でブラックドッグの研究をしてたんすけど、俺の有能ぶりにヴィルヘルム博士が感動して、どーしてもって頼んでくるんで、主任になっちゃいました」

 随分と自信のある言いぶりだなと言葉を失う反面、実際に成果を出しているのだから、自信家でもいいのかもしれないとも思う。あのヴィル博士も自信に満ち溢れた人だし、この上司もこんなことを言ってはいるけど研究に対しては謙虚で誠実なのかもしれないし。


 角砂糖をせっせとコーヒーに運びつつ自己紹介を聞いていたのに、変な間があいたまま、続きがなかなか始まらない。異変を感じ顔を上げた時にようやく、皆が私を凝視していたことに気づいた。

「……え? ななななんですかっ!?」

 ベオウルフ室長の自己紹介なのに、どうして私がみんなの視線を独り占めしているの!? しかも、「うわあ……」とまで言われ、ますます私はどぎまぎしてしまう。

「あの? ベオウルフ室長の自己紹介中ですよ? なぜみなさん、私を――」

「常軌を逸した甘党って噂、マジだったんすね」

 その注目の理由はすぐにわかった。私がコーヒーに砂糖を次々入れていく様子を、皆が見守っていたのだ。……いや、その前に、論点はそこじゃない。

「常軌を逸し……!? どどどどうしてそんなことが噂になってるんですか」

 そう、私が甘党であることが、なぜ噂になる必要があるというの! 私の嗜好なんて私以外の人にはどうだっていいはずだし、甘いものは罪深いけど罪はないっ!

 ついでに言うと、とすかさずリリィから補足が入る。

「私が今いちばん興味津々なのは、あなたが博士の恋人なのでは? っていう噂。あなたは知らないかもしれないけど、結構有名人なのよ」

「えっ、こい……びっ、いや、それはそのっ!」

 そういえば、さっきも給湯室でチラリとそんなことを聞いた気がする。彼女のおしゃべりに流されて、そのまま放置していたのだった。

 否定したい。とてもしたい。けれどいろいろな兼ね合いから、否定すべきか肯定すべきか、どうしたらいいのか判断に迷う。

 ベオウルフともう一人の男の人――自己紹介がまだなので、名前がわからない――にすがる思いで目を向けるが、二人とも助け舟を出してくれそうな感じはない。


「それでどうなの、本当のところは」

 むしろリリィの追い込みが激しい。「ほらほら照れてないで」とか、「そんなに赤くなっちゃったらもう認めてるも同然だけど」とか、私に考える隙を与えないあたり、かなりのやり手だと推察される。今の状況から考えると、ベオウルフよりリリィの方が危険に思えるくらいである。

「いっ今はホラ、私の自己紹介の番ではないですし! しっ室長っ! 続きを!」

 ゴシップの真相など今ここで語るには場違いにもほどがあるし、という最もらしい理由づけをして、私は話題を強引に室長へと戻した。

「じゃあまあ……続けますけど――」

 よし、成功。彼はゴホンとひとつ咳払いをして、中断していた自己紹介を再開した。

「上の都合で野外調査に比重を置く研究室を増やすことになったから、ここが新設されたらしくて。だから、ここにいるみなさんは野外調査希望ってことでいいんすよね? 調査地候補はこっちで勝手に絞ったんで、個人研究と調整しつつ、最終的に決定しましょうか。ってことで、シクヨロ!」

 研究所の方針転換に伴い新設された研究室は、私がかねてより切望していた野外調査の実施を前提としたところだった。ヴィル博士からは彼が悩んでいた時に私が導いただのと聞かされたけれど、とにかく彼に言われた通り、私の希望が叶ったわけだ。これに喜ばないティナ・バロウズがいようか? いや、いない!

「ああそれと、俺のことは『室長』とか『主任』とか、そういうのはいらないんで、単に『ベオウルフ』と呼んでもらえます? 一応はこの研究室のリーダーなんすけど、上下関係なく仲間として接して欲しい。みんな、アゲアゲでいい仕事をしてやりましょう!」

 なかなか濃い室長ベオウルフの考えに、私は素直に好感が持てた。


 ――いい仕事をしよう――


 リリィにも言われたこの言葉はきっと、私のことを上でも下でもない同等の「仲間」として見ているからこそ生まれる言葉なのだと思う。マグカップに「追い角砂糖」を落としながら、私は嬉しくなって頰がユルユルににやけた。

「じゃあ、次は僭越ながらこの私が。マルコ・ミョハネンです。私のことも敬称略で呼んでください。事務員として入所して、つい先日まで経理課に勤務していましたが、地理と無線好きが高じてなぜか研究員へと転属させられてしまいました。趣味で書いたモルワイデ図法及びメルカトル図法による幻獣分布図の四次元的利用法についての論文が――」

 ベオウルフ、リリィと、そして、ようやく名前がわかったマルコ。みんな私より年上で、当然ながら研究成果もあげている。かたや私は、胸を張って言えるような成果など何一つない新人。コックス研究室では雑用に忙しくて……という言い訳は、真実だけど格好悪くてとても使えたもんじゃない。

 私の夢は、今も変わらずヴィル博士のような優れた研究者になること。その夢を叶えるには、この研究室で今度こそ、成果をあげなければならないのだ。

 ……と、ここで、ついヴィル博士の名を浮かべてしまったためにリリィから聞いた例の噂を思い出し、冷えかけていた頰の熱が再びボワッと盛り返した。


 ――ヴィル博士と私は、恋人の仲にある――


 そういう噂があることはずっと前にミミから教えてもらっていたけど、初対面の人の口から聞くことで、実在している噂なのだと改めて現実味を感じる。

 博士を恋愛対象として――果ては結婚相手として――検討すると、優しいし、たぶん私に一途だし、仕事には真面目でしこたま稼いでいるだろうし、相手としては悪くないのかもしれない。しかし彼は竜だし、言うことなすこと清々しいほどの変態だし、やっぱり相手としては悪い。

 私は人間で、彼は竜。先に死ぬのは明らかに寿命の短い私。私の死後、博士はどうするの? 竜は寂しさで死ぬのでしょう? だったら、博士も私の後を追うの? そんなの、私は認めたくない――


「――ナ、ティナ! あなたの番よ!」

 や、やってしまった……マルコの途中からリリィの自己紹介までを、完璧に聞き逃してしまった。おまけに、いつの間にか私の番が来ていたようだ。

 何を話すかまったく決めていなかったものの、私は取り敢えず立ち上がる。

「私の名前はティナ・バロウズです、昨年の九月に新規入所しました」

 とにかく何かを話さねば、と私はがむしゃらに口を動かした。

「以前の所属はコックス研究室でした。学生時代はコウモリに関する研究をしていて……ええと、将来的には竜の研究に携わりたいです。研究員としてまだめぼしい成果はありませんが、だからこそ、この研究室ではしっかりと実績を積んでいきたいと思います。よろしくお願いします」

 まばらな拍手――聴衆は三人しかいないのだからしょうがない――をもらって、私の足跡かつ短い自己紹介は終わった。


「これで全員、マブダチっすね! んじゃあ、次は質問タイムといきましょうか――」 


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