発売御礼SS② 博士の噂、私の噂
「7 ミミの恋」のあとのお話。このお話に出てくる博士も相当なキャラですが、ヒロインもそこそこ……だと思われます。
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研究所の廊下を歩いていた昼下がり、近くの給湯室からとある会話が聞こえてきた。
「ねえ、博士の噂、知ってる?」
「博士の噂?」
総務課や会計課などの事務室が並ぶ廊下だから、会話の主はきっとどこかの事務員さんだろうと思われる。
博士号を取得している人は研究員の中にも沢山いるけれど、この研究所で「博士」と言えば、所長であるヴィル博士のみを指す。彼の場合は「博士」というのがもう愛称になっているのだ。
ヴィル博士はここの所長なのだから、話題に上がっても不思議ではない。彼の噂がどんなものなのか気になったけれど、他人の会話にコソコソと聞き耳を立てるようなものでもない。それに、盗み聞きなんてあまりお行儀がよろしくないし。
「ほら、昨年コックスさんの研究室に入ってきた女の子いるじゃない?」
「ガーゴイルに襲われかけたって子?」
歩くペースを上げ、通り過ぎようとしていたのに、結局私の足は止まった。「コックス研究室に入ってきた女の子」で、「ガーゴイルに襲われかけた子」と言えば、どこを探しても私しかいない。
盗み聞きは良くないが、自分の話題となれば別。気にならないわけがない。
「そうそう。あの子と博士、なんだかいい感じになってるみたいなのよ」
いい感じ、だと?
私と博士がいい感じだとっ!?
「ええーっ!? ヴィルヘルム博士が? これまでどんな美人に言い寄られても決して動じることのなかった、ヴィルヘルム博士が? 『趣味研究・特技研究・三度の飯より研究』の、あのヴィルヘルム博士が!?」
「そうよ、『人生の伴侶は研究です』のヴィルヘルム博士よ!」
壁を挟んだ向こう側で驚きの声が上がったが、私だって同じように驚いている。
ミミが私と博士の噂が広まっていると言ってはいたけど、あれは本当だったんだ。私はようやく確信を得たが、そもそもそれは誤解なのだし、ちっとも嬉しくなんてない。
博士のことを変人扱いしているのは私だけではなかったようだけれど、その変人と「いい感じ」になっているという私も一体どんな評価をされているのか、ちょっと不安になってきた。
「だから、彼の心を射止めたのは一体どんな子なんだろうって思って、この前コッソリ見に行ったの」
「うん、それでそれで?」
いつのことだろう? 全然気づかなかった。それで、私を実際に見てどう思ったのだろうか。あの超絶美形なヴィル博士の隣に立つには容姿に華やかさが足りないとか、まるで空気のような存在感だとか……いや、別に博士の隣に立つ予定はないのだからどう思われてもいいんだけど! むしろ自分があの美しさに引けを取らない見た目をしているとは全く思っていないし! ただちょっと、ほんの少しだけ気になるっていうだけで!
興味津々で相槌を打つ事務員さんと同様に、私も彼女の言葉の続きを固唾を吞んで待った。
「まあ……確かにそこそこ可愛い子だったけど、ちょっと多分、ズボラっていうか……髪をクリップで留めたり、鉛筆が刺してあったり……。不潔な感じではないんだけどね、身だしなみに無頓着なのかなって。それと――」
あれ? と私は首を傾げた。顔貌の評価を受けるかと身構えていたのに、そこにはサラッと触れる程度。身だしなみに無頓着というのは、残念ながらその通り。清潔感がそこそこあって、動きやすければなんでもいいというのが、私のスタイルなのだ。そして、彼女の話ぶりから察するに、他のことについて何か思うところがあった様子。
「それと?」
「ランチの時間にね、彼女……ジャムを食べてたの」
「ジャム? 私だってジャムくらい食べるけど」
「違うの。パンに塗って食べるとかじゃないの。瓶からすくって食べてたのよ!」
「瓶からすくって? ……ジャムだけを、ってこと?」
はい、瓶ごと持ち込んで直接食べていましたすみませんー! どうしてもとびきり甘いものが食べたくなって……!
何かに塗ったり、何かに混ぜて食べるという、ジャムの正式な食べ方ももちろん私は知っている。けれど、ジャムには沢山のお砂糖が入っていて、手っ取り早く甘いものが食べたい時にはとても便利なのだ。持ち運びもケーキと比べたら段違いに楽チンだし、果物もたっぷり入っているから体にも良いし……多分。
そういうわけで、堂々と食べていればきっと気にとめる人などいないだろうと考えて、私はしばしばジャムを昼食にしていたのだ。
いま彼女たちに見られているというわけではなかったけれど、つい手にしていたファイルで顔を隠してしまった。穴があったら入りたいとは、まさに今の私の気持ち。甘いものが好きなことを恥じ入るつもりは毛頭ないけれど、ちょっとだけ時代の先端を走りすぎているな、と思う時はないこともない。
そして、私の思いなど当然ながら知らないまま、彼女たちの会話は続く。
「見間違いかと思ったわ。きっとあの瓶の中はジャムじゃない、何かスープ的なものが入っているんだろう、って思おうとした。でも、瓶は透明のガラス瓶で、中身が赤いいちごジャムだってこと、ひと目見ただけで分かるんだもの!」
ヒエエ、ともう一人の事務員さんが小さな悲鳴を上げている。
もういいから! ジャムの一件は忘れてくださいっ!
「別の日には、シャンテリークリームを食べてた」
「クリームだけで?」
「クリームだけで」
シャンテリークリームを昼食に持ってきたこともあったっけ。まさかあれも見られていたなんて。けれど、ジャムよりはまともじゃないだろうか、などと五十歩百歩の反論を脳内で展開する。
子供の頃、実家でケーキを作ったとき、飾りきれなかったクリームをそのまま食べた――なんていう経験は、きっと誰もがしているはずだ。私はただ、幼い頃の思い出をほんの少しこじらせてるだけで……。
「それとね、マグカップに蜂蜜だけを入れて飲んでた」
「は、蜂蜜を、飲んでた……」
「甘党にしても、程度が甚だしいわね……」
……絶望。いっそ泣いてしまいたい。
どれもこれも、私がこっそりしていたことだ。まさか、こんなところに見ていた人がいたなんて。
私の恥部が、白日のもとに晒されている。さすがに職場で嗜むのは、避けておくべきだったかもしれない。けれど、最低月に一回はこの湧き上がる欲求に逆らえない日が訪れるのだ。
どうして? 見ず知らずの他人のことを、どうしてこんなにまで観察しているの? 私なんか幻獣のことで精一杯で、それ以外のことにはとんと疎いのに。それとも私が異常なの? 他人の目を気にしなさすぎだとでもいうの?
髪だって、クリップで留めてもいいじゃない。デスクの上に必ず一個は転がっているし、髪にも紙にも使えるから、一石二鳥で便利じゃない!
「でも、入所試験では成績トップだったって話よ。研究の方は私たち事務方には詳しくわからないけど、結構見込みあるって聞くし……きっと『あれ』よ」
「そうね、『あれ』だわ」
な、なによ、「あれ」ってなによ。
ふてくされながら、彼女たちの言葉の続きを待つ。
「「天才とナントカは紙一重」」
二人そろってそう言ってあと、小さな声でクスクス笑った。
「そう考えると、博士ともなかなかお似合いなのかもしれないわ」
「やっぱり、同じタイプに惹かれるのかしらね」
私はヴィル博士みたいに天才でもなんでもない。研究者として見込みがあると思われているのなら嬉しいことだが、私もあれと並ぶレベルの変人だと評されたとあっては、あまりにもショックが大きすぎる。
それに私はヴィル博士に惹かれてないし! 兄さん避けに利用させて貰いはしたけど、事実とは異なるし、絶対絶対お似合いじゃないし!
彼女たちに訂正したいが、立ち聞きしてしまった手前、姿を現わすなどできない。ヴィル博士に「あなたのせいで!」と詰め寄りたいが、それはそれで八つ当たりだ。
この複雑な感情は自分で折り合いをつけるしかないという歯がゆさ。もうこれは、甘いものに頼るしかない。今日は夕食にメープルファッジを山盛り買って帰ろう。
そして、お腹が甘いもので満たされた後でようやく、「こういうところがいけないのかしら」と、少しだけ反省するのであった――。
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