第一幕 THE GOD'S ADVENT《014》

 よく晴れた青空に白い鳥が数羽、群をなして飛んでいる。鳥たちは悠々と大きな弧を描き、アースガルズの大地を見下ろした。青々と広がる森や、神々の住まう数多の館。それらの上を旋回した鳥たちはやがて、そびえるように佇む石造りの神殿の向こうへと消えていった。

 神殿は、その持ち主の権威を示すかのように荘厳だ。太く延びる柱は、精緻な彫刻が施された屋根を支えている。

 建物のすぐ目の前には、祭事を行うための広場がある。その場を舞台代わりに、4人の男神が、神々の退屈を紛らわすための余興――“シバイ”を繰り広げている。周りには、大勢の神が集まり、熱心に壇上の4人を見つめていた。


「くっだらねえ」


 シャクリ――黄金の林檎に、ロキはかじりついた。

 朗々とした力強い声が、神殿の屋根に座るロキの元まで届く。その響きにかぶさるように、高く伸びやかな声が続く。音だけ聴けばまだ許せるが、古くさい言葉遣い、迂遠で飾ったセリフ回しが鼻についた。

 ロキは、ぶらりと足を揺らした。

 白けた眼差しで舞台と客席を一瞥し、もう一口林檎をかじる。

 舞台の4人は熱心に役を演じ、観客の神たちは固唾を飲んでそれを見守っている。登場人物に何かが起きるたびに息を詰め、顔をしかめ、あるいは涙ぐみ、そして、ほっとしたように頬を緩める。少し顔を上げれば目に入るはずのロキの姿など、気づきもしない。


「なーにが、そんなに面白いんだよ」


 ここ最近、神々の間でこの4人によるシバイが人気だ。人間の文化を気に入った主神・オーディンが命じ、こともあろうにアースガルズで上演させているらしい。


(シバイだかなんだか知らないが、人間の猿真似とか、ダサいにも程があるだろ)


 こんな所、頼み込まれても来る気などなかったが、退屈しのぎに覗いてみたら案の定。やはり来るんじゃなかったと後悔に口を曲げる。

 あんなものの何が楽しいのだろう。舞台の上で大げさに演技してみたり、それを見て喜んだり。用意された筋書きを読み上げているだけ。ロキにはまったく理解できない。

 ロキだって、注目されるのは好きだ。いろいろな姿に変身して、驚かせることだって好きだ。だが、だからといって見せ物になるのは話が別だし、そもそも誰かを楽しませようと思ったことは一度もない。自分が楽しめればそれでいいのだ。笑われるよりも、笑いたいのがロキだった。

 ロキはシャク、シャク、と金色に光る林檎をかじっていく。しかし、つまらない見せ物がおともでは、せっかくの林檎も台無しだ。


「ふん。帰るか」


 最後まで見ずに、ポイと林檎の芯を放り投げる。ちょうど舞台の真ん中へと落ちていくそれを見て、ロキはイタズラを思いつきニヤリと笑った。林檎の芯が地面に着く前に、パチンと指を鳴らす。

 ゴオッと一瞬、黄金を纏う炎が林檎の芯を包む。シバイの場面にそぐわない派手な炎に、客席から悲鳴が上がった。うっとりととろけていた神々の顔が、驚愕に歪む様は壮観だった。


「――ロキだ! あそこにいるぞ!」


 客席で誰かが叫び、ロキを指さす。数多の視線が一斉に向けられる。


(そう。注目するなら、俺にだろ?)


 それがこんな、非難の眼差しであっても。

 ふと、刺すような視線を感じた。舞台を見やれば、4人がシバイを止めてこちらを見つめている。射殺すような目で見ているのは1人だが、それぞれの眼差しには複雑な感情が宿っていた。

 ロキはそんな彼らを皮肉を込めた笑みで見返すと、ひらひらと手を振って、炎とともに姿を消したのだった。



   *   *   *



 あいつらが立っていた舞台とは比べものにならないくらいの小さな壇上が、ロキの初めて立つ舞台だった。

 アースガルズで“シバイ”をあざ笑った自分が、こうして舞台に立っているとはなんという皮肉だろう。観客は10人かそこら。まるで小箱のような狭くて暗い部室の、さらに狭い教壇の上。あの頃の自分だったらきっと、そのみすぼらしさに腹を抱えて大笑いしていたことだろう。

 衣月の作った衣装を身に纏い、律や章が用意した、熱くて眩しいスポットライトに照らされている自分。向けられているのは、この学校に来てからずっと付きまとっている、男子生徒たちの好奇の眼差しだ。彼らがシバイを楽しもうと思ってここに来ているのではないのは分かっている。ただ、“噂の転校生”を見に来たのだ。


 それでも、悪い気はしていなかった。むしろ、初めての公演に高揚さえしていた。

 これを成功させることが、アースガルズへ帰るための大きな一歩になる。

 最初は、なんで自分がシバイなんて、と思うことも多かったが、真尋とともに稽古を重ねていくうちに、気が付けば没頭している自分がいた。仕方ないので、退屈しのぎくらいには、認めてやってもいい。

 真尋のシバイバカも身に染みるほど理解した。シバイに関することなら生き生きと輝く表情や、ロキへの妥協のない演技指導がそれを物語っていた。そして悔しいことに、演技の点ではどうにか及第点をもらうのが精一杯だった。

 その悔しさもあって、夢に見るくらい何度も稽古した。真尋の一人シバイ用に書かれた脚本からかなり変更はあったものの、セリフも動きも全部、頭と身体に叩き込んでいる。当然、真尋もだ。

 だから、失敗などあり得ない。

 あり得ないはずだった。――唯一の、そして、最大の問題さえなければ。






「……」






 しんと舞台に沈黙が落ちる。出てくるはずの場面で、“太陽”が――真尋が出てこない。空白の時間は数秒、数十秒と増えていく。


「なんだ?」

「止まっちゃったぞ?」


 客席から、さざ波のようなざわめきが広がった。そのざわめきは足下に到達し、そのままぞわぞわと這い上がってくる。

 訝しげな視線がロキに注がれた。1秒が長く、重い。息苦しさに唾を飲み込んだ。気付けばカラカラに渇いた喉が痛んだ。


 ――何が怖いんだ?


 自分の言葉が、耳の奥で木霊する。

 身体にまとわりつく観客の視線を振り払うように首を振り、ロキは真尋のいる舞台袖を見た。


(……マヒロ)


 舞台代わりの教壇に上ることすらできず、真尋がうずくまっている。何者をも拒絶するように顔を覆ってしまっていた。その背中に手を添える総介が、険しい顔で口を引き結んでいる。


(ここまで来たんだぞ?)


 舞台の幕はもう上がっている。あとは真尋が出てくるだけだ。


「……なあ、つまんないから帰らねえ?」


 潜められた声にロキはハッとした。客席を見れば、今にも帰りたそうに身体を揺らしている学生がいた。

 何かしなければ、自分がどうにかしなければ帰ってしまう。

 ロキは焦った。舞台に立っているのは、自分だけだ。舞台袖にいる総介も、客席後方で照明を操作している衣月や章も、音響の律も、誰一人、帰ろうという客を引き留めることはできない。


(どうすればいい?)


 ロキは暗い客席の向こうに視線を向けた。質問に答えてくれる衣月は遠い。いつも指示を出す総介も、真尋の側で厳しい顔をしているだけだ。


(一旦引っ込むか?)


 いいや、とロキは乾いた唇を噛んだ。部員が誰も中断を訴えないのは、彼らが真尋を信じているからだ。真尋ならば舞台に立てると信じて、この空白の時間を耐えている。


(でも、どうすれば……)


 舞台に1人立つロキには分からない。こうしている間にも、不穏な空気は部室を包み込んでいく。

 自分にできることはなんだと、ロキは思考を回転させた。今日までの2週間、ロキはただひたすら稽古を重ねてきた。セリフも動きも、何度も繰り返し身体に叩き込んできたが、まだ言われたことをこなせるようになったばかりだ。台本以外のことはやらないほうがいいね、とやんわり禁止されている。

 だが、真尋が来ないのでは進まない。動けない真尋を待って棒立ちのまま、去っていく客を見送れというのか?


(冗談じゃないぞ)


 協力してやったのに。

 真尋が再び舞台に立てるよう願ったのはアイツらだ。ロキはそれに協力してやっている。シバイなら人々の本当の笑顔を集められると言うから、仕方なく付き合ってやったのだ。

 忘れていた怒りが、ジリリと胸の奥で目を覚ます。

 これで振り出しだ。いいや、もっと悪い。このままじゃ、いつまで経っても、自分はアースガルズへ帰れない。

 もはや客席は誰か1人でも帰れば連鎖して出ていきそうなほど、そわそわと落ち着きがない。まだ始まったばかりだというのに、終わりを突きつけられているようだった。


(ふざけるな!)


 ロキは苛立ちをそのまま叩きつけるように、力を使って風を呼び起こした。腰を上げようとしていた学生たちが、突然ぶわりと吹き渡った風を受けて驚愕に目を見開き、ストンと座る。


「大人しく座ってろ、人間」


 このロキ様を前に中座するなど、不敬にもほどがある。

 愕然とした視線が集まる。演出? どこから風が、と先ほどとは違うざわめきが広がった。

 ロキはわざとらしく大きく腕を振って身体の向きを変えると、舞台袖へと向かっていく。

 計画性などない。だが、何もせずにはいられない。


「“なあ、太陽さんよ”」


 苛立ちは隠せなかったが、あくまで“北風”の声で、所作で。

 予定にないセリフに、いち早く気づいた総介が顔を上げる。アドリブを入れるような場面じゃないというのだろう、キッと視線が尖った。けれど、他にどうすればいい。ロキの他に、誰がこの状況を打開できるという。

 びくりと真尋の背中が跳ねる。声は届いている。ならば聞け。


「“何をうずくまってんだよ? 何がそんなに怖いんだ”」

「……」


 おずおずと上げられた顔は、血の気が引いて真っ青だ。お優しいお友だちなら、きっともうやめようと言うのだろう。次があると励ますのだろう。だがあいにく、ロキは人間同士の言うお友だちなどではない。ロキは自分自身の目的のためにここに立っているのだ。そしてその目的には、真尋の力が要る。


「“出てこいよ。太陽おまえがいなきゃ、始まらないだろ?”」


 ふるふると真尋が首を振った。消え入りそうな悲痛な声が絞り出される。


「……無理だよ、やっぱり、俺には……できない」

「“は? できないだって? それは嘘だね”」

「――っ」


 真尋は自分を守ろうとするように体を抱いている。その腕を、ロキは無理やり掴んだ。

 ロキ、と総介が小さく声をかけたが、お構いなしに舞台袖から真尋を引っ張り上げる。簡易的な黒幕の舞台袖からようやく現れたもう1人の役者の姿に、ひそひそとざわめいていた客席がしんと静まり返った。


「“お前は俺を負かした、唯一の男なんだぜ?”」


 そう。ロキの変身を見抜いた人間は、古今東西見渡しても、真尋ただ1人だったのだから。

 ハッと真尋が息を飲む。ロキ、と音もなく唇がその名を象った。

 勝手にセリフを作るな、台本を変えるなと、言いたければ言えばいい。このままロキだけ舞台に立っていても、どうせ壊れる舞台だ。ならばこれ以上何を恐れる。


(やりたいようにやってやる)


 ここまで協力してやったのだ。その上、ロキばかり道化になってやるつもりはない。


「来い」


 拒絶する真尋にロキは小さく囁いた。抵抗を無視し、スポットライトの下に真尋を連れていく。その顔はひきつっていた。視線が一瞬、客席を見渡し、すぐに逸らされる。息は荒く、その肩は憐れなほどに震えていた。

 真尋の恐怖を、その理由や深さを、ロキは知らない。けれど、知っていたとしても、何度だってロキは真尋を引っ張り出しただろう。

 立ち上がれ、声を出せ。腹からの声だ。お前の、もう一度舞台に立ちたいという願いは、こんなにもあっさりと恐怖に握りつぶされてしまうほど、ちゃちな願いだったのか?


(違うだろ)


 俺はお前の恐怖を知らない。知っていることは、ただ1つだけだ。

 俺の認めた人間おまえは、切実に、ひた向きに、誰よりも強く、舞台に立ちたいと願っていたはずだ。

 ロキは真尋を引き寄せて耳打ちをした。


「“お前ならやれる”」

「……でも」


 くどい。

 ロキは、次の一言にぐっと力を込めた。


「――客が怖いなら俺を見ろ。お前の前にいるのは誰だ?」

「……っ!」

「今がどん底だ。これ以上何が怖い? 誰に迷惑が掛かる? 這い上がってみせろよ。――“なあ、太陽?”」


 くっと見開かれた目に強い光が灯るのを、ロキは間近で見た。

 まるで、初めて呼吸を知ったように真尋は唇をわななかせ、心の奥底から恐れを押し出すように、息を吐く。身体はまだ震えている。目の奥にはまだ怯えが残っている。それでも――。


 真尋が、伏せた顔を再び上げる。

 そこには、“北風ロキ”の知る“太陽まひろ”が立っていた。

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