第一幕 THE GOD'S ADVENT《016》
全員が動画に見入る中、ロキはフッと息を吐いた。知らぬうちに息を詰めていたようだ。
「……」
ぎゅっと握った手には汗をかいている。初めての舞台の興奮が、まだそこにあるようだった。
(これがシバイ……)
稽古では味わえなかった高揚がまだ消えない。
人の視線には慣れきっているつもりだった。それなのに、今日の視線が特別に感じたのは気のせいだろうか。真尋が登場せず、失敗を憐れむような目で見ていた観客が、次第にシバイに集中していくのがロキにも分かった。物語が進むほど、熱心になっていく瞳たち。これまで、こんな眼差しを向けられたことはない。
注目を浴びるのが好きだ。人間たちも望んでロキに注目していた。それなのに、いつだって最後には敵意ある眼差しを向けられて終わった。
けれど今日、拍手をする観客の目にあったのは、紛れもない好意だった。
ただ人間を驚かせ、喜ばせるだけならロキにもできる。いつものように神の力を使えばいい。だが、それはシバイではないと教えられた。
何度も練習して身体に叩き込んだ章のセリフ。役の特徴をとらえ、魅力を引き出すような衣月の衣装。“北風”と“太陽”により一層の臨場感を与える律の音楽に、2人芝居の見せ方をあらゆる角度から突き詰めていくような総介の演出。そして、それらを理解し体現する役者――要素が上手い具合に絡まり合って、舞台が作られていく。1人ではできない。それが“シバイ”だった。
それに、真尋が本領を発揮してからは、その演技に付いていくので精一杯だった。真尋の演じる太陽の存在感が、稽古とあまりにも違いすぎたのだ。ロキのきらびやかさに目を奪われていた客たちの心が、太陽に向いていくのが手に取るように分かった。結局、観客を感動させたのはロキの華ではなく、真尋のシバイだった。
1人では無理だった。“心からの笑顔”を集めたのはロキの力だけではない。今になって、そのことに妙な悔しさが込み上げてくる。
(……悔しくなんて)
はっとして目を瞬かせた。
たかがシバイだ。アースガルズで、あいつらが興じていたお遊びと同じだ。熱くなった胸に水をかけるように自分に言い聞かせる。
「ブラーボゥ!」
唐突に総介の大声と拍手が、部室に響いた。
驚いて、不覚にも肩が大きく跳ねてしまった。腹立ち紛れに、ぐるりと後ろの総介を振り返る。
「急にでかい声出すな!」
「ごめんごめん。それにしても、いや~。イイね、イイよ! 初公演にしちゃ上出来だ」
そう言う総介は、眼鏡をくいっと上げてご満悦だ。
「アドリブを始めたときはどうなるかと思いましたけど」
「ほんと、それ。あそこで
「俺の! 俺様のおかげだろ!」
ため息混じりに言う律と章に噛みつけば、衣月がクスクスと笑った。
「そうだね。ロキのおかげで、真尋も、僕たちも、ようやく最初の一歩が踏み出せた」
自然と、全員の視線が真尋に注がれる。真尋はまだノートパソコンを見つめていた。カメラは終演後も回っていたらしく、ちょうど、観客の最後の1人が部室から出て行くところだった。
「マヒロ?」
ロキはヒョイと真尋の顔を覗き込んだ。ヒラヒラと顔の前で手を振る。
ゆっくりと真尋の目がロキを捉えた。
「ロキ」
まだどこか夢見心地というような目をしている。本番が終わってからずっと、心ここにあらず、だ。さっきだって、声を掛けたがっていた総介たちが遠慮したくらい、ぼうっとしていたのだ。
「ロキは、やっぱり華だね」
「なんだよ、急に」
ううん、と真尋は首を振った。ふっと小さく笑う。ぼんやりとした眼差しは、いくつかのまばたきのうちに消え、やがてしっかりとした意志の光を宿す。
「ありがとう。ロキがいてくれて、よかった」
「……っ」
その柔らかな微笑みに、思わず引き込まれそうになる。真尋という男は、時々、こういう表情を見せるから侮れない。
「……ふ、ふん。そうだろう。偉大なロキ様の機転のなせる業だぞ!」
真尋は、自分の右手首にそっと触れた。そこは本番中、ロキが無理やり掴んだ場所だ。
「うん。ロキが引っ張ってくれなかったら、今回もだめだったかもしれない」
「人のこと舞台に立たせといて、お前が立たないなんて有り得ないだろ」
そもそもシバイをやるなんて、ちっともロキの本意ではなかったのだ。これが、アースガルズに帰るための近道だと思ったから協力してやっただけで。
「はは。そうだね。ほんとに、そうだ」
真尋は笑みをこぼすと、後ろの4人を振り返る。
「みんなも、本当にありがとう」
章、総介、衣月、律。4人にゆっくりと視線を巡らせて、真尋は続ける。
「ロキとみんなのおかげで、また舞台に立てた」
その言葉に、部員たちは一瞬、言葉を詰まらせる。ロキが来るまで、たった1人の役者である真尋を支え、いつか来る「本番」を待ち続けてきた。今日だって、うずくまる真尋をじっと信じて待っていた。ロキには想像しかできないけれど、きっと深い想いがあるのだろう。
「なーに言ってんだよ。あったり前っしょ。オレら、ヒロくんの芝居が見たくてここにいるんだぜ?」
「そうそう。俺と総介なんて、叶を追いかけて中都に入っちゃうくらいだし。今更だって!」
総介が茶化し、章が、高ぶる感情を抑えるように笑う。どちらの顔にも、隠しきれない喜びがあふれていた。
「待ったぶん、すごく素敵な芝居が観られた。やっぱり真尋は、最高の役者だよ」
ね、律、と同意を求める衣月に、律は静かに答える。
「真尋さんなら、当然です」
素っ気ない物言いだったが、律は誇らしげですらあった。
「……みんな、ありがとう」
噛み締めるように言う。そんな真尋の頭に衣月は手を伸ばし、くしゃくしゃとかき回した。
「わ」
衣月にしては荒っぽい手つきだ。ロキが見上げると、そこにはいつも浮かべている大人びた笑みではない、喜びを分かち合う年相応の笑顔があった。
「つかそんな、全部夢が叶った、みたいな顔すんなって! これからが本番でしょ~? 初公演としては上々だったけど、まだまだ課題多すぎだからね」
総介はキリリとした表情で指を立てる。
「まずは、真尋の舞台恐怖症の完全克服! 今回は無理やり引っ張り出されてなんとかなったけど、次からは自分の足で行けるようにならないとね」
「うん。頑張る」
「ロキは2つ! 最初に起こした風ね。神様の力、使っちゃ駄目だって言っただろ?」
「だって、あのままじゃ客が帰っちゃってただろ。俺様の機転を褒め称えろ!」
総介はうなずいた。
「うん。助かったのは確かだけど、ダメだということは覚えて。今回は題材が北風と太陽だったから、送風機が暴走したって言い訳できるけど、次はそうはいかない」
「……チッ」
別に好きで吹かせたわけじゃない、と言うのをぐっと飲み込む。
「それと、予定外のアドリブから始まったからだろうけど、稽古の時よりずっと“ロキ”が前に出てた。自分でもそう思わない?」
「どういう意味だ?」
「“北風”のキャラクターよりも、ロキの地が目立ってたってこと」
「それは……マヒロがちゃんと出てきたら、俺だって練習通りできたぞ」
「そうかもしれない。でもオレには途中から、注目されるのが楽しいって、ロキの感情が透けて見えたよ。“北風”ならそんなことは思わない。でしょ?」
「う……」
指摘されると、違うとは言い切れない。
「ロキの地といえば、これは演出担当としての反省点でもあるんだけど」
総介は目を細め、軽く腕組みをした。
「本番のロキが思った以上に、それこそ太陽みたいに眩しすぎたせいで、ミスキャスト感が否めなかった。太陽と北風が逆じゃないかってね。真尋なんかもそう思ってるんじゃない? 北風に対して、ちょっとビビってたろ」
ちらりと真尋に目をやれば、神妙な顔をして総介の言葉を聞いていた。
「でも、キャストはあれで合ってる。自分と違うからこそ“演じる”んだ。そこんとこ、ちゃんと捉え直して」
総介は続ける。しかし、言葉はロキと真尋へ向けられつつも、その瞳はもっと深いところを探っているようだった。
「あと、ロキのあの存在感だったら、セリフはもっと減らせたな。なんか本番、くどく感じたから。言わせすぎっていうか、もっと見せ方があった」
「それは俺も感じた。本番でどう見えるか、もっとしっかり意識しなきゃな」
脚本担当の章が応じる。総介は章にちらりと視線をやってうなずくと、思い出すように目を伏せる。
「芝居全体は、真尋が立て直してから2人の息も合ってて、初演にしてはよかった。北風が素のロキになっちゃってるのも真尋が上手くフォロー入れて、元々そういうものって感じで見れたし。……ただあれなら、もっと太陽に影を持たせてもよかったよな。雨上がりの分厚い雲間から差し込む光みたいな……暗がりがあるからこそ、よりその光が尊くなる感じが出たはずだ。そのためには、セリフもそうだけど――」
総介はとうとう、ブツブツと自分の世界に入り始めた。ロキが他の部員を見回すと、章が、いつものことだというように眉を上げる。
やがて総介は、うんうんと1人で納得し、バッと顔を上げた。
「やばい! オレらって伸び代の塊じゃん? メッチャやる気出てきた!!」
総介が鼻息を荒くする。
「どうどう、落ち着けって総介」
「役者より声デカイっすね」
「演出魂に火がついたね。やる気をもらったのは、僕らもだけど」
章、律、衣月が口々に言う。
「ま、とりあえず、初公演成功おめでとうってことでいいだろ?」
「もっちろんだよ、アッキー! あ、そうそう、みんなには内緒だったんだけどさ、なんと今日は
「ご馳走!」
ロキはぴょんと跳び上がった。そして、はたと気付いて衣月に首を傾げてみせる。
「シンチャンって誰だ?」
「寮監の草鹿さんだよ。下の名前が心太郎だからね」
「ああ、あいつか」
クサカならわかる。たしか“リョーカン”だ。教師ほど老けている感じもしないが、学生という雰囲気でもなく、朝だろうと夜だろうと朗らかに挨拶をしてくるやつ。時折、食堂でスープを注いだり、デザートを配ってくれるので、ロキも覚えている。
「ご馳走頼んでたってどうやって? いくら草鹿さんでもいいって言わないだろ」
他の学生の手前もあるし、と章が訝しげに総介を見やる。総介は得意げに胸を張った。
「リクエスト券があるでしょ、リクエスト券。この日のために大事に大事に取っておいたんだぜ」
「リクエスト券?」
説明を求めて再び衣月を見てみれば、思い出したように目を瞬かせていた。
「寮の食堂のメニューを、自由にリクエストできる券だよ。入寮する時に、1人1枚ずつ配られるんだ。ロキの分も発券してもらわなきゃね」
「そんないいものがあるのか! なら、俺はリンゴをリクエストする!」
「せっかくなんだから、もっといいものにしろよ」
「リンゴよりいいものなんてないぞ。分からないなんて、アキラは寂しい奴だな」
「なんで俺が憐れまれるんだ!」
荒ぶる章を呆れたように見て、律が言う。
「もし、本番失敗してたらどうするつもりだったんですか」
しかし、総介はにんまり笑った。
「でも食べたくない? ご馳走」
「食べたい!」
ロキは大きい声で主張した。章はむむ、と顔をしかめたが、やがてため息を吐く。
「まあ、結果的に成功したんだからいいか」
「そうそう。終わり良ければすべて良しってね!」
「よし! じゃあ早く寮に戻ろうぜ!」
「その前に片付けでしょ。着替えも」
律の冷静な声に、ロキは自分の格好を見下ろした。そういえばまだ着替えていなかった。
それにしても、この北風の衣装はアースガルズで着ていた服よりも断然、着心地がいい。衣月の手作りだが、ここまで腕のいい仕立屋はアースガルズにもそうそういない。
「……うん。決めた。イツキは俺様専任の衣装係になるべきだ!」
「あんた、急に何言ってんの? 衣月さんにそんな暇あるわけないでしょ」
律が冷ややかな視線を向けてくるが、当の衣月は嬉しそうに笑った。
「それは光栄だな。今日の本番でいっそうインスピレーションが湧いたから、すぐにでも新しい衣装を作ってみたくなったところだよ。楽しみにしてて」
「おう!」
さて着替えるかと真尋とともに踵を返すと、そうだ、と総介が思い出したように声を上げた。
「ロキたん、ちょっといい?」
「あ?」
総介がゴソゴソとポケットからスマホを取り出す。そっちに立って、と言われるまま移動すると、スマホがこちらに向けられた。カシャッと音がする。
「……何したんだ?」
「写真撮った」
「写真?」
「あれ、スマホで撮れるって聞いてない? そもそも、写真は分かるんだっけ」
「それは分かる。けど、勝手に撮るな」
文句を言いながら腰に手を当てると、そのポーズも撮られてしまう。
「いやー、ロキたんは華があるから、どんな瞬間も写真映えするよね!」
「ふん。写真より実物の方が100倍いいに決まってる」
「まあ、それはそうだけど。お、その勝ち気な顔もいいね!」
カシャッ、カシャッ、と何度かシャッター音が繰り返される。
「じゃあ、そっちのトルソーとちょっと絡んで。そうそう、いいよー。ロキたん最高! 次はヒロくんと並んで――ヒロくん、顔が硬いよ。笑って笑って~」
「そんなに撮って、何するの?」
「ちょっとね〜♪」
撮られながらやや困惑気味に聞いた真尋に、総介は意味深に笑ってスマホを覗く。
「それじゃ、みんな集まって。記念に1枚!」
「……俺が撮ります」
「だめー。りっちゃん写りたくないだけっしょ?」
「……」
「せっかくだから、みんなで入ろう。ね?」
宥めるように声を掛け、衣月が律を連れてくる。
「アキももっと、寄って寄って」
「……ロキの隣は嫌だからな」
「なんだと?」
「ただでさえ薄い俺の影が、さらに霞むだろ」
「じゃあこっちおいでよ、東堂」
呼んだ真尋に章が頷く。まったく、ロキ様の隣を断るとは不届き者め。
「それじゃ、ツッキーお願い!」
「任せて」
総介からスマホを受け取って、一番背の高い衣月が長い腕を伸ばす。こちらを向いたスマホの画面には、ロキと真尋を中心に、ぎゅうぎゅうと集まる6人の姿が映し出されていた。
「撮るよ。3・2・1……」
カシャッとシャッター音が鳴った。総介はスマホの画面を覗き込み、数度左右に指を滑らせると、晴れ晴れと顔を上げた。
「よし。完璧!」
「何がだよ」
訝しむ章だが、総介はそれには答えず、さっさとスマホをポケットに押し込んだ。
「じゃ、2人は着替えちゃって。あとは片付けね。終わったら、ご馳走が待ってるぞ!」
いったいなんだったのか分からないが、ご馳走のほうが重要だ。ロキは衣装をぽいぽいと脱ぎ散らかしながら、着替えのある教室の後ろへ向かう。
「ロキ、衣装は大事に」
真尋の声が追ってくるが知ったことではない。遅れて、衣月が「大丈夫だよ、ヤワに作ってないから」と苦笑する声が聞こえる。
それよりもご馳走だ。ロキはこれまでの期間ですっかり慣れてしまった制服に、するりと袖を通すのだった。
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