第一幕 THE GOD'S ADVENT《015》

 割れんばかりの――とはほど遠い、けれど今の自分には十分な拍手が耳の奥で弾けた。真尋は、ハッと短く息を吐く。


(……あつい……)


 手が、身体が、顔が、頭が、心が――熱い。

 心臓がどうしようもなく暴れ回っている。身体は興奮で小さく震えていた。目頭が熱い。知らず息が弾んでいた。全身に汗をかいている。全力疾走したような脱力感と、心地よい倦怠感に包まれていた。足下がふわふわして、夢の中にいるようだ。


(俺……)


 真尋は、客席を見回した。

 客席は暗いが距離は近い。10人足らずの観客たちの顔に、笑みが浮かんでいるのがはっきり分かる。

 真尋はさらに、視線を遠くへ向けた。誰よりも大きな拍手を送ってくれているのは、教室の後ろにいる衣月、章、律。そして、舞台袖の総介だ。


(舞台を、台無しにしたかもしれないのに……)


 それでも、みんなは信じてくれていたのだ。持ち場を離れず、中止だとも言わず、真尋が再び舞台に立つのを待ってくれていた。その気持ちを、ありがたいと同時に重たく感じた日もある。けれど彼らの期待は真尋を押しつぶすようなものではなく、支えて、引っ張り上げるような力強い期待だったと、今になってようやく気付いた。

 不意に、腕を小突かれた。見れば、ライトを浴びてキラキラ輝くロキが、横目で真尋を見ている。

 どうだ、と言わんばかりの、誇らしげな顔だった。


(ああ……)


 真尋はその眩しさに目を細めた。記憶にまとわりつく恐怖の闇をかき消した、強い光。


“お前ならやれる”。


 その言葉は、真尋の心の奥にまっすぐ届いた。ロキの発する光に飲まれるように導かれ、真尋はこの小さな、けれど今の自分にとっては途方もなく大きな舞台で、“太陽”として息をすることができた。

 あれが、ロキの神の力なのだろうか。もしそうだとしたら――いや、そうでなかったとしても、分かったことがひとつある。配役では、“太陽”を演じたのは真尋だ。けれどあの瞬間、ロキこそが、真尋にとっての太陽だった。


(できたんだ、俺)


 その事実が、じわりと心臓を震わせる。


(ロキのおかげで、もう一度、舞台に立てたんだ)


 もう絶対にだめだと思っていた。どんなに芝居が好きでも、どんなに稽古を重ねても、胸に刻まれた恐怖には勝てるはずがない。二度と舞台には立てない。そんな絶望が、真尋の喉を塞ぎ、心と体を雁字搦めにしていた。仲間に支えられ、期待してもらっているからこそ、その事実が殊更に辛かった。

 そして今日も、同じだと思い知った。教壇のたった15センチは、真尋にとっては天高く立ちはだかる壁にも等しかった。

 ……けれど。


「おい、マヒロ。いつまでぼーっと突っ立ってるんだよ」


 真尋は促されるまま、ロキに引っ張られて袖に向かう。

 舞台袖で待っていた総介は、心底気持ちよさそうに笑いながら、手を広げて2人の役者を迎えた。その様子を、衣月たちも微笑んで見つめている。

 みんなが、この時を待ってくれていた。舞台に立てない役者を、今日までずっと。

 ぐっと込み上げる熱い感情を飲み込んで、真尋は教壇を降りる。降りてようやく、本当の意味で地に足が着いたようだった。少しだけ振り返る。15センチは、15センチでしかなかった。登れないほどの高い壁でもなければ、落ちて死んでしまうほどの断崖でもない。


“――何がそんなに怖いんだ?”


 あの時、舞台袖でうずくまる真尋にロキは聞いた。完全なアドリブだったが、観ている者には、“北風”のセリフとして聞こえただろう。


(何が、そんなに……)


 ふっと影が差すように、繰り返し見る悪夢を思い出す。




 ――憧れだった、大きなホール。広い会場は、期待に満ちた観客で満員だった。忙しい合間を縫って、家族も来てくれている。学校の友だちや、近所の人まで。向けられる期待に応えなければと意気込む幼い自分。応えられないなんて、これっぽっちも思っていなかった。

 あの頃の自分は、芝居をするのがただ楽しかったのだ。横を見れば、最大のライバルであり、最良の共演者である1人の友人の姿。彼との芝居は特別楽しくて、2人で舞台に立てば、恐れるものなど何もなかった。


 それなのに――。

 舞台中盤のシーン。パッと、スポットライトが視界を塞いだ。

 その瞬間。




『――っ』




 ぎゅっと、何かが喉を塞いだ。

 次のセリフが出てこない。

 相手役の少年が、はっとした顔でこちらを伺う。

難しいセリフじゃない。いつもであれば、意識しなくても口から出たはずのセリフだ。それなのに、頭の中や身体中、どこを探しても見つからない。

 どうして?


(言え、何か――)


 覚えたセリフでなくてもいい。ひと言、いや、一音でも出れば、きっとその先に繋げるだろう。それなのに、うめき声さえ上げられず、身体は石のように動かない。


 幼い真尋は、初めての絶望に震えた。

 ドクドクと心臓の音が聞こえた。誰の? 自分の。顔が、身体が熱い。額から背中から、汗が噴き出している。舌が張り付いて、唇はピクリとも動かない。目の奥がチカチカした。頭が痛む。失ったセリフを探す無意味な思考が、グルグルと頭の中で渦を巻いていた。

 身体の奥で、何かが死んでいく。


(ああ……)


 死んだのは舞台だ。そして、誰よりも信頼し合っていた、相手役の彼だ。

 自分が殺した。

 何十回、何百回と、稽古してきた。この日の、この瞬間のために、2人で命を吹き込んできたのに――。


 真尋は舞台の上で棒立ちになった。静まり返った客席に波紋のように広がっていく、訝しむ声、気遣う家族の視線、動かない真尋を見つめる、数多の目、目、目――。

 それらが重なり合い、弾けた瞬間。

 相手役の残酷な言葉が、耳の奥で木霊する。




『真尋には、もう芝居なんて!』




 幾度も、幾度も見た悪夢だ。思い出すだけで、久々の舞台に高揚していた心が冷えていくようで……。




「マヒロ? おーい?」

「わっ」


 目の前にぬっと現れたロキの顔に、真尋は驚いて身を引いた。


「いい加減、戻って来いよ。客もいなくなったぞ」

「え」


 真尋は辺りを見回した。部室の電気が点き、明るくなっている。ロキの言う通り客席には誰も残っておらず、後方に設置してあった撮影用のカメラの周りに、総介たちが集まっていた。


「これから、ジョウエイカイ? とかいうのやるってよ。それより見ろよ! これ!」


 ロキがずいっと真尋の前に、オーディンが授けた小瓶を掲げて見せた。中にはキラキラしたものがほんの少しだけ溜まっている。砂だろうか。衣月が衣装に使うラメのようにも見えるし、瓶を傾けると抵抗なく流れる様子は、不思議な色に光る液体のようにも見えた。とても綺麗だ。


「これって、もしかして」

「“心からの笑顔”ってやつ。これっぽっちだけどな」


 やっぱりそうだ。知ってから見ると、小瓶の中身はまるで微笑むように光を放っている。


「本当に、集まったんだ」

「おう。ま、お前らの言う“シバイ”も、まったく無意味じゃないみたいだな」


 言葉とは裏腹に、その顔には笑みが浮かんでいる。本当に“心からの笑顔”を集められるのか、ロキも不安だったのだろう。今回の舞台で、わずかでも手応えを感じたのかもしれない。


「よかったね、ロキ」

「ふん。俺様にかかればこんなもんだ。見てろよ、オーディン。こんな瓶、すぐにいっぱいにして、アッと言わせてやるからな!」


 ロキは小瓶を目の高さに掲げ、子どものように笑った。その目は小瓶の中身のように輝いている。


「お〜い、おふたりさん! 準備できたから、こっち来て!」


 総介が満面の笑みで手招きをする。見れば、机の上には律のノートパソコンが開かれていた。


「さあ、特等席へどうぞ」


 衣月はパソコンの前に真尋とロキを座らせる。一時停止された暗い舞台の映像が、フルスクリーンで表示されていた。それを見るため6人で身を寄せ合って、画面を覗き込む。


「再生します」


 後ろから手を伸ばした律がトンとキーを叩いた。

 さっき終えたばかりの、中都演劇部の初公演が始まる。颯爽と現れたロキは、画面越しだというのにひどくキラキラしていた。


「うっ、眩し!」


 総介が茶化すように言う。


「こりゃ、客席もざわつくわけだよ」


 章はそう言うが、ざわついていたのか、と真尋は思った。それほど、何も耳に届いていなかったのだ。

 やがてロキが、舞台袖から真尋を引っ張り出す。真尋は今にも死んでしまいそうな顔をしていた。


「……」


 紙のような自分の顔色を見て、真尋は思わず身を固くする。その肩に誰かの手が乗る。温かい。きっと衣月だ。

 そしてアドリブのシーン。一連の動きの最後で、ロキが真尋に近づいて耳打ちする様子が映っている。


「ここ、なんて言ったの? ロキたん。最後だけ聴こえなかったんだけど」

「はっ! 神のありがたーい言葉だ。そう簡単に教えるかよ」

「えー? そこをなんとか~!」


 真尋はどこか意識の遠くで、そのやりとりを聞いていた。

 聞きながら、目では舞台に立つ自分とロキを食い入るように見つめる。

 やはりロキは華だ。そこにいるだけで存在感がある。そして自分……、最初はぎこちなかったが、ロキにつられるように役に入り込んでいくのが分かる。上演時間の半ばも過ぎれば、真尋はすっかり“太陽”になっていた。


(本当に、芝居してる。お客さんの前で)


 まるで夢みたいだ。

 目を閉じる。遠い日の友人の言葉が、黒い星のように光って、胸を刺す。

 この暗い光に囚われて、何度諦めようと思っただろう。いっそ捨ててしまえれば楽だった。それでもできなかったのは。どんなに怖くても、もう一度舞台に立つ夢を諦められなかったのは――。


(俺は、やっぱり芝居が好きなんだ)


 ようやく胸を張って言える。

 真尋は、泣きたくなるような感情を、息を止めて抑え込んだ。

 部員たちは、ああだこうだと言いながら、楽しげに画面を眺めている。

 今日この日の舞台に、仲間たちが連れてきてくれた。そして、ロキが奇跡をくれた。

 肩に残る、体温が心地いい。

 真尋は目を開くと、再び中都演劇部の初舞台に見入るのだった。

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