第一幕 THE GOD'S ADVENT《010》

「――『旅のお方』」


 真尋が、トルソーに向かって手を差し伸べながら呼びかけた。それだけで分かった。奴はすでに、“シバイ”に入っている。


「『冷たくつらい北風はもう終わりです。ぼくが日差しをたっぷりと注いであげましょう』」


 穏やかな声音だった。その眼差しは柔らかく、無機物のはずのトルソーを、まるで本物の人間を慈しむように見つめている。


「『……ほら、ぽかぽかと暖かくなってきませんか?』」


ゆったりとしたその身振りから感じられるのは、眠気を誘うほどの心地よさ。


(……なんだ?)


 真尋の所作を見ているだけで、なぜか、本当にぽかぽかと暖かくなってきた気がする。ここは室内で、そう気温も高くないのに、まるでうららかな陽気の中にいるようだ。

 そう――目の前にいるのは、太陽だった。ギラギラ照りつけるのではない、北風の運んだ寒さを和らげる、穏やかな春の日差しだ。


「『上着なんてもう必要ありません。どうぞ、ぼくに渡してくださいな』」


 言いながら、真尋は旅人から上着を脱がす。その動きがあまりにも柔らかく自然で、旅人が本当に自分から上着を脱いだようにさえ見えた。太陽は微笑み、旅人に向かってそっと「ありがとう」とつぶやく。

 だが、……待て。そこにいるのは旅人ではなく、ただのトルソーだ。そう思い出した瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。


(こいつ……)


 ふらり、とロキは真尋に近づいた。


(なんか、すげえかも)


 もしかしたら、何か周囲が暖かくなるようなものを仕込んでいるのか――はっきりとそう思っていたわけではなかったが、確かめたくて、真尋の袖に触れてみた。


「……あったかくない」


 期待とは裏腹に、感じられたのは制服の生地のごわつきだけ。


「ん?」


 振り向いた真尋から、太陽の顔はもう消えていた。不思議そうに首を傾げる。

 それを見て、ロキは短く嘆息した。


「……」


 これが、真尋のシバイか。

 ロキは自分の腕を軽くさすった。制服を着ていてよかった。未だ収まらない鳥肌を見られずにすむ。


「……どうだった?」


 真尋が、心配げにロキをうかがっている。その表情は、もうすっかり元の真尋のもので、それがかえってさっき見た光景の凄さを際立たせた。

 ロキはふっと息をついた。

 ……仕方ない、認めよう。

 人間を驚かせ、喜ばせるのがシバイなら、それは簡単だ。先ほどロキが翼を出して風を作ったように、意表を突いてやればいい。

 でも、真尋は違った。口調や身振りだけで、太陽の暖かさを感じさせ、旅人の姿さえ見せた。ただ驚かせるのではなく、物語の中にロキをも引きずり込んだ。


(これが、こいつの――真尋の“シバイ”)


 総介たちが真尋に惚れ込んだ理由が、少しだけ分かった気がした。


「ロキ?」


 黙り込んだロキを真尋が覗き込む。ロキは、ぎゅっと口を引き結んだ。

 悔しい。絶対に、自分を納得させられるはずがないと思っていた。納得なんてしてやるものかとさえ思っていたというのに。


「……入ればいいんだろ」

「え?」

「演劇部! 入ってやるって言ってんだよ!」


 考えてやると言った。納得もしてしまった。ここでぐだぐだ言い続けるのは、神として格好がつかない。


「そう来なくっちゃ~!」


 固唾を飲んで見守っていた総介が、すかさず、皺の寄った紙とペンを差し出した。


「これ、なんだよ?」

「入部届。この部に入りまーすっていう誓約書みたいなものだよ」


 ここに名前書いてね、と総介が示したところに、さらりとペンを走らせる。


「ほら」

「やったー……って、何これ」


 総介は、ロキの名前を見下ろして眉をひそめる。覗き込んだ章が考え込むように腕組みをした。


「ルーン文字……っぽいか?」

「ああ、確かに。本で見たことがあるよ」

「無駄に達筆ですね」


 衣月と、回復したらしい律も、ニュウブトドケとやらを覗き込んだ。無駄にとはなんだ、無駄にとは。このロキ様の直筆サインを見られるなんて、めったにあることじゃないというのに。もっとありがたがれ!


「これ、育ちゃん受け取ってくれるかな?」

「イクチャン?」

「顧問の先生だよ。ほら、1限目の」


 真尋に言われて、ああ、と思い出す。確か、セカイシのリューザキだったか。


「うーん……竜崎先生なら逆に面白がってくれる気もするけど、書類としては問題かな。ロキ、名前練習する? それとも代わりに書こうか」


 衣月が言った。そこはかとない子ども扱いを感じる。


「俺様を誰だと思ってるんだ。神に不可能はないんだよ」


 今朝、転校生の紹介だといって、担任が黒板に書いた文字を思い出す。形さえわかれば、あとは神の力でどうとでもなる。もう一度ペンを握り、少し力を解放してやると、頭の中にこの国の言葉がふわりと浮かび始めた。


「……これでどうだ!」


『神之ロキ』。初めて書いたにしては上出来だろう。


「うん。読める読める。すごいね、ロキ」

「ハッ! 俺様にかかればこんなもんよ」

「書き順はめちゃくちゃだったけどな」

「うるさいぞ、地味助。読めればいいんだよ」

「だから、いくらなんでもその呼び方はやめて!? お前に比べたら、どいつもこいつも地味で平凡で無個性だっつの!」

「まあまあ、地味助。落ち着いて」

「総介! お前までその名前で呼ぶなっ」


 また話がずれているようだが、これだけは言っておかなくては。


「……いいか。演劇部には入るけど、お前らのためじゃなくて、俺がアースガルズに帰るために、仕方なく協力してやるんだからな。そこんとこ、忘れんなよ!」

「うん。それでもいいよ」


 お、とロキは思った。演技をする前のどこか陰りを帯びた顔とは違い、すっかり真尋の表情は穏やかだ。


「ありがとう。ロキ」

「ふん。もっと感謝していいんだぜ。俺様が入ったからには――」

「それもだけど。さっき、できるんじゃないかって思えたから」

「うん?」


 その言葉に、ロキは首を傾げた。


「今日も、始めは怖かった。でも、きみを見てたらなんだかうずうずしてきてさ。芝居が楽しいって、昔みたいに思えたのは久しぶりなんだ。1人で舞台に立つのは――想像するだけでも、まだ怖い。でも、きみとだったら、また舞台に立てるんじゃないかって。そう思えた」

 ロキ、と真尋は真っ直ぐにロキを見る。その決意したような強い眼差しに、不覚にもロキまで背筋が伸びた。


「舞台を成功させるには、きっときみが必要だ」


 胸の奥がムズっとした。それをごまかすように、不敵に笑ってやる。


「ハッ。とーぜん! やっとお前にもこのロキ様の凄さが分かったみたいだな!」

「最初から、華があるなって思ってたよ」


 そうだろうとも。ロキは胸を張った。


「オーディンの出しやがった“本当の笑顔”集めも、お前の願いを叶えるって課題も、あっという間に終わらせてやるからな。足引っ張るなよ。お前らもな!」


 ニヤニヤしている総介や、疲れたように溜息をつく章。にこにこ微笑ましそうな衣月と、素っ気なく目をそらす律をぐるりと見回し、念を押すように真尋に視線を戻す。


「うん、がんばるよ。これからよろしくね、ロキ」


 真尋が握手のために手を差し出す。昨日は無視したその手をちらりと見下ろして、ロキは言葉の代わりに、軽くその手を打ち鳴らしたのだった。

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