第一幕 THE GOD'S ADVENT《009》

 あからさまに困惑している真尋に、ロキは一歩近づいた。


「できない、なんて言わないだろ? 昨日、俺が近づくまでなんかやってたみたいだし」

「あれは、稽古だったから」

「今だって似たようなもんだろ」

「……」


 真尋はたじろぐように足を引いた。ロキは他の面々にぐるりと視線を向ける。


「昨日やってたの、なんだ?」

「“北風と太陽”。イソップ童話の。1人芝居用にアレンジしたやつ」


 そう言った章に、ロキはオウム返しに聞き返す。


「イソップ童話?」


 知らないかな? と優しく聞いたのは衣月だ。


「あるところに北風と太陽がいて、道行く旅人の上着を脱がしたほうが勝ちっていう勝負をするんだ。北風は強い風で上着を吹き飛ばそうとするけど、旅人が寒さのあまりに上着を押さえてしまって、脱がすことはできない。次に太陽は、北風とは反対に旅人を優しく暖める。すると、ぽかぽかしてきて上着が必要なくなった旅人は、自分から上着を脱いだ。勝負は太陽の勝ち、って話だよ」

「ふーん……。で、1人芝居なんだろ? 北風と太陽と旅人、全部1人でやるのか?」

「北風と太陽だけ。旅人役は、上着を着せたトルソーを立てて、人間に見立てるんだ」


 あれだよ、と真尋は部室の隅を指差す、トルソー? と、ロキが真尋の指を追うと、そこにあったのは胴体だけの人形だった。


「あれか。よし」


 ロキは自らそれを持ってきて、ドンと部室の真ん中に置く。


「ほら。やってみろよ」

「……」


 完全に萎縮してしまっている。

 人の目が怖いと、真尋は言っていた。部員の前ではできるようだから、今できないのはロキの目が怖いからだろう。たった1人の目が。

 真尋がどれだけすごい役者か、ロキは知らない。それでも、誰にも見せられないのなら、どんなにすごくたって大根役者と変わらない。

 やっぱり、人間はこんなにも弱い。ロキは小さく鼻を鳴らした。人の目を引くことの何が怖いというのだろう。


「シバイだの役者だの、あれこれ言ってるけど。ようは、観客をアッと言わせればいいんだろ?」


 だったら得意中の得意だ。自分にだってできるに決まってる。ロキは、軽く真尋の身体を押し退けた。


「ロキ?」


 何をするつもりかというように、真尋が声を掛ける。それを無視して、ぎゅっと自分の身体を抱いて背中を空に突き出した。ほのかな光が舞い、バサリと音を立てて大きな翼が広がる。イメージは大鷲だ。その拍子に、近くにいた真尋が驚いてひっくり返った。構わず、ロキはその翼を動かして空気を掻き回す。たちまち、激しい風が部室の中で荒れ狂った。


「うわああ!?」

「なんっ、何やってんだよ、ロキー!?」


 轟々と吹き荒れる風に、悲鳴が上がる。ロキはそれに機嫌を良くし、トルソーでできた“旅人”目がけ、さらに翼をばさばさと動かした。

 上着が飛ぶどころか、トルソーまで派手に倒れて部屋の端まで転がっていく。さらに、部屋の隅に置かれていた机や椅子まで倒れ耳障りな音を立てたところで、ロキはようやく風を収めた。


「見ろ、脱げたぞっ!」


 どうだ、と得意満面に振り返る。ボサボサ頭の集団が、散乱する小道具や紙束の中にしゃがみ込んで、唖然とロキを見ていた。尻餅をついた総介の眼鏡はずれ、章は近くの箱にしがみついて顔を引き攣らせている。一番小柄な律が、衣月に支えられるようにへたり込み、真っ青な顔で釣り気味の目をこれでもかというくらい見開いていた。

 ロキはそれぞれの驚愕ににんまり笑う。どうだ。

 すると、眼鏡を直しつつ、総介が始めに立ち上がった。


「いや、そういうことじゃなくない!?」

「は? そこの『旅人』の上着を脱がす勝負。そういうシバイなんだろ?」

「うん、それは、そうなんだけどね。今のはちょっと危ないかな」


 困ったように言いながら、衣月が律を立たせている。律は言葉も出ないらしい。ぎゅっとノートパソコンを抱え直す。


「ちょっとどころか、本番の芝居でこんなのやられたら大問題だぞ!?」


 我に返ったらしい章が食ってかかってきた。


「なんでだよ。こういうの見たら、大抵の人間は喜んだぞ」


 ぷいっとロキはそっぽを向く。せっかく特大サービスで翼まで見せてやったというのに、文句を言われる筋合いはない。確かに、部屋の中をぐちゃぐちゃにはしてしまったけれど。


「ふっ……」


 不意に聞こえた笑い声に、ロキは振り返った。尻餅をついたままの真尋だ。文句を言ったりたしなめたりしていた4人も、真尋のほうを見る。


「ふふ……、ごめん、笑ってる場合じゃ、ないけど……ふはっ」


 真尋は口を押さえて肩を震わせる。何かツボに入ったらしい。ひとしきり笑うと、柔らかな表情のまま立ち上がった。


「ロキはすごいな。怖い物なんかないみたいだ」

「この俺様に怖い物なんてあるわけないだろ」

「きみとだったら、もしかして――」


 真尋は言いかけた言葉を飲み込み、眩しいものを見るように目を細めると、あーあ、と言いつつ笑みを漏らして倒れたトルソーを立てに行く。その顔や肩からは、さっきまでの緊張が消えていた。


「ロキみたいに本物の風を起こせたら、芝居なんて馬鹿らしくなっちゃうのかもね」


 真尋は言い、トルソーに服を着せ直している。


「でも、芝居ってそうじゃないんだよ、ロキ」

「だったら、なんなんだよ」


 ロキが口を尖らせると、真尋は穏やかに言った。


「実際に北風なんて吹いてなくても、吹いてることがわかる。太陽が照ってなくても、照っているんだって伝えられる。それが『芝居』なんだ」


 吹いていなくても、吹いてることが分かる? そんなこと、人間にできるもんか。

ならば。


「そんなに言うなら見せてみろよ。お前のシバイってヤツを」


 真尋は柔らかく笑った。楽しくて、嬉しくて、しかたないというような、子どもみたいに無邪気な瞳で。


「うん。……見てて」


 自然体で真尋が立つ。ふぅ、と息を吐きながら目を閉じる。そうして、ゆっくり息を吸いながら顔を上げたとき――

 そこにはロキの知る、冴えない・モテない・寝癖頭の“マヒロ”はいなかった。

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