第一幕 THE GOD'S ADVENT《005》

 今、何が起こった?


 ロキは呆然と、手の中に落ちてきた小瓶を見つめた。ぐわんと、義兄、オーディンの声が木霊する。


『人間たちを傷つけてきた償いとして人間界に暮らし、多くの人間を“心からの笑顔”にすること。そして、殺めかけた償いとして、その少年の願いを叶えること』


(償い、だって?)


 誰に、何を償えと?

 確かに人間にイタズラばかりしてきたが、だからなんだ。あいつらだって喜んでいた。たまには傷つけることもあったが、それは人間の不敬が原因だ。悪いことなんて何ひとつしていない。罰せられる理由がない。それなのに、このわけも分からない国で、時代で、人間どもにまみれて暮らせって? しかも、人間の“心からの笑顔”を集めろだと?


 冗談じゃない――そう思うのに、小瓶の乗る手の指先が冷えていた。故郷に……アースガルズに帰れない。

 自分は、アースガルズに要らない――。


「……大丈夫?」


 声を掛けてきたのは真尋だ。逃げていなかったのか。妙に静かな声に、胸の奥の怒りが一気に膨らむ。


「うるさい……! 人間ごときが、俺様に気安く声をかけるな!」

「うん。ごめん。でも、もし困ってるなら助けたい」

「叶。やばいって」


 怯えた声で、地味男が制するが、真尋は意に介さない。


「平気だよ。彼はたぶん、悪いやつじゃないと思う」


 泰然とした態度が鼻について、ロキはきつく真尋を睨んだ。

 その目に偽りはなく、本気で言っているのが手に取るように分かるぶん、余計に腹立たしい。


「……助けたい? お前に何ができる。俺がこんな目にあってるのも、お前の――」

「ストップ。真尋に当たっても、解決しないよ」


 優男だ。ロキはそのお利口な物言いにも腹が立った。


「俺は――っ」

「ねえ! ロキとか、オーディンとかって、マジで北欧神話の?」


 眼鏡が遮る。ロキは思い切り舌打ちをした。


「だったら何だ。関係ないだろ!」


 顔を背ける。ロキはいつの間にか、少年たちに囲まれていることに気付いた。さっきまで遠巻きに見ていたくせに、真尋が平静なせいか、彼らも徐々に落ち着いてきたようだ。


「どけ!」

「待った。オレ、イイこと思いついちゃった!」


 眼鏡がぴょんと飛び出して、ロキの行く手を阻んだ。


「えーと、ロキ? お前が元いた場所に帰るためには、『笑顔を集めて』『真尋の願いを叶える』が条件なんだろ? その2つを同時に叶える方法、オレなら知ってるけど」


 女の姿だったときは赤面していたくせに、変身を解いてからはいやに馴れ馴れしい。この俺の名を気安く呼ぶとは、とロキは憤慨していたが、その言葉に睨んでいた目を丸くした。


「本当か?」

「ホントホント」

「……総介」


 地味男が止めようとするが、眼鏡は大丈夫だとばかりにそいつを押し留めた。


「まあ見てなよ、悪いようにはしないから……って、りっちゃん、こんな時に何してんの?」

「……別に。ちょっと新曲が降ってきたから」


 目つきの悪いチビが頭に飾りをかぶり、地べたに座り込んで、本のようなものを指で叩いている。


「そか、それは大事だ。じゃあ、こっちは進めてるね」


 チビがこくりとうなずくのを見届け、眼鏡は軽く咳払いをすると、ニヤリと笑ってロキを見る。


「ロキ、さ。うちの真尋と一緒に芝居やらない?」

「は? なんで俺が!」

「ばっ、何言ってんだ、総介! 正気か!? だってそいつは……!」


 先ほどよりも強く地味男が眼鏡を止めようとする。まあまあ、と眼鏡は地味男や他の奴らを見回した。みんな、戸惑った顔をしている。


「最後まで聞いてって。オレらにとっても、いい話だと思うからさ。そいつが本当に神様なら、余計に。なあ、ロキ?」


 絶対いやだ、と続けようとしたロキの肩に腕を回し、眼鏡はのしかかってくる。さながら、アダムとイブを誘惑した蛇のように、ロキに囁いた。


「芝居ってのはさ、大勢の人間が集まるもんなんだよ。んで、笑わせたり泣かせたりして、最後には『心からの笑顔』で拍手をもらう。な? お前の目的にぴったりだろ」

「うん……?」


 うまいことを言って乗せようとしているのかとも思ったが、言われてみれば一理ある……か? これまでに見かけたシバイも、ロキにはどうでもいいものばかりだったが、最後は観客が満足そうにしていた気がする。あれが“心からの笑顔”なら、シバイを上演すれば一気にたくさん手に入るわけだ。


「それに、もう1つの条件は、あいつだろ?」


 眼鏡は真尋に視線を向けた。どこか所在なさげに立っていた真尋は、軽く背筋を伸ばした。眼鏡に促されて口を開く。


「俺は……。ここにいる仲間と一緒に、もう一度大きな舞台を成功させたい。俺に『願い』があるなら、たった1つ、それだけだよ」

「……」


 ロキは細い眉根を寄せた。

 オーディンの許しがない限りアースガルズへは帰れない。帰るためには『小瓶いっぱいの心からの笑顔』と『真尋の願いを叶える』ことが必要で、真尋たちと一緒にシバイをすれば、その両方が一気に叶う。つまり、帰還への最短距離というわけだ。


「……なるほど。なら話は早いな」


 真尋たちがさっさと大舞台を成功させれば、すぐに帰れる。簡単なことだ。そのために協力しろと言うのなら、あまり気は進まないがやむを得ない。


「んじゃ、さっさとやれよ。その大舞台とやら」


 言えば、真尋はとたんに眉を下げ、ロキからも視線を逸らした。何か言いにくいことがあるようだ。


「……うん。そうできたらいいんだけど」

「なんだよ、歯切れ悪いな」


 ロキの誘惑をきっぱり断った切れ味はどこへ行った。神を前にして、あんなにもはっきりと自分を持っていられる人間はそう多くない。油断していたとはいえこのロキ様の変身を見破ったのだ。まあまあできる男に違いない。もちろん、誘惑できなかったのは最大の屈辱なので、いつかもう一度試してやるが。

 そのためにも、真尋の側にいるのは、悪くない手だと思えた。

 そんな風に前向きに考えていたロキだったが、真尋は静かに目を伏せた。


「ごめん。でも、簡単じゃないんだ。だって俺は……」


 一瞬つらそうにくしゃりと顔を歪め、真尋はぐっと拳を固めた。


「俺は、『舞台に立てない役者』だから」


 舞台に立てない役者?


「……は?」



 それって、つまり……どういうことだ?

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