蟲軍団異世界を征く
Ceez
第1話 執務室
「ん……」
気怠げな声を零し、ユーリエは体を起こす。
色々考えているうちに机に突っ伏して寝てしまったようだ。
瞬きをしながらぼやけた視界と思考が急速に色を取り戻す。
目の前にあったのは黒い木目調の重厚な執務机。
周囲に漂うかすかなハーブにも似た樹の香りに、ここで……眠ることも可能だという現実を、今まさに実感したばかりである。
部屋の天井までの高さが3メートル弱。
正確に計った訳ではないが、縦横10メートルもある彼女の執務室は、天井からじかに生えた白い花から放たれる光が室内を明るく照らしている。
そこからふわふわと零れた花粉は燐光を放ち、室内を漂いながら徐々に消えていった。
床を覆っている赤紺色は絨毯ではなく、短く刈り込まれた芝生の一種だ。
放っとけばぼうぼうに伸びるわけでもなく、少々刈り込むだけでふかふかな絨毯と同じような機能を有している。
徐々にクリアになる思考で身の回りにあるものを見つめながら、ユーリエは自分の置かれている場を確認していく。
夢でも幻でもなく、妄想や想像の類とも違う。ここは彼女にとっての現実だ。
視線を横へ向けると、壁沿いで静かに佇む直立した蜂人がいる。
その複眼がこちらに向いていることは分かるが、寝起きの自分に対して何かを窘めることなどは決してない。
黄色と黒の警戒色目立つ腹部を後ろに回し、後脚だけで揺らぎなく立つ人間大の蜂人は、ユーリエ直属の部下の一人でもあり、侍女でもある。
首元から細くて白いエプロンを装着し、中脚は腹の側面に折り畳まれ、前脚は体の前で銀色のお盆を持っている。
通常の蜂であれば手足に二本ほどの爪を備えているが、この侍女の両手は人と変わらぬ五本指を備えていた。
背中には隠れているが羽根があり、誰かを抱えても遜色ない移動を可能にするほどの飛翔力を持っている。
頭部の下側を占める大顎の間からは、ほんのりと赤いルージュを施した人間の口元が見える。
そこだけなら人のようだが、彼女らを良く知らない者が見れば人が無理やり蜂の外骨格を纏ったような姿である。
異様な風体ではあるものの、彼女の周りにいる者たちの中では比較的オーソドックスな姿なので、今更気にするほどのことでもない。
「……カラ」
「はい。どうされました、閣下?」
うたた寝をしてしまった間に何か事態が進展したかを確かめるべく、彼女は侍女に声を掛けることにした。
カラと呼ばれた蜂型の侍女は、壁際より一歩進み出てユーリエに頭を下げた。
「何か進展はあった?」
「はい。先ほど第二将軍様がいらっしゃいましたが、閣下がお休みになられていたため、また後で窺いに来るそうです」
「うわ、悪いことしたなあ」
『とっとと起こしてくれればよかったのに……』とは思ったが、事前に「時間になったら起こして」とも頼んでないため、カラたちはユーリエの睡眠を優先させたようだ。
普通用がある者が訪れた場合は起こしそうなものだが、彼女たちはユーリエの睡眠を優先し、報告を後回しにしたものと思われる。
特に彼女らの種族はユーリエの『命令』を厳格に受け止めすぎるきらいがあるので、予め数パターンの対応策を事前に決めておかねばならないようだ。
この世界に来てからは、部下全体にそういう規律を通達しておかないと、寝ている間に重大な事故を見逃しそうである。
「そう。じゃあ第二将軍……ユフクレナを呼んで」
「はい、かしこまりました」
侍女のカラは無音で執務室の扉を少し開け、隙間からするりと外へ出て行く。
数分ほど待った後に、ノックの音が静かな執務室に響いた。
「お入り」
「失礼致します」
まず、カラが部屋に入り、扉を大きく開く。
続くのは横長の巨大な4枚羽根を持つ人物だ。
簡潔に表すならばトンボのコスプレをしたスレンダーな美女である。
こちらも顔の上半分は巨大な複眼を持つトンボの頭部で、下半分に大きく開いた顎からは人の口元になっている。
「ユフクレナ、お呼びにより参りました」
ユフクレナと名乗った美女は室内を進むと、ユーリエの座す所より離れた場所に跪く。
「悪かったわねユフクレナ。わざわざ調べて貰ったのに、私が居眠りしちゃってて」
『とんでもありません!
「アッハイ」
ユフクレナとカラに力説されてはユーリエも頷くしかない。
まだまだ自覚が足りないかな、と首を振って考えを改める。
「ごめんなさい、続けて頂戴」
「はっ!」
ユフクレナは再び頭を下げて報告を続けた。
「ご命令通り周囲半径50km程度を探索、調査致しました。一応簡単な地図を作成してありますが、先日までの地図とはまるで異なっております」
ユフクレナはどこからともなく丸めた紙を取り出し、空中に転がした。
ユーリエの執務机と同じ高さにA2サイズの紙が広がり、その上に縮尺された立体図が浮かび上がる。
中央に天へとそびえ立つ巨大な樹木。それを囲むようにカルデラ湖が透明度の高い水を蓄えている。
更に外側には森林があり、中央の巨木ほどではないにしろ背の高い木々が大半を占める。そこまでは彼女たちにも見慣れた光景だった。
そこから先の周囲の植生が明らかに違うものになっていた。内側には亜熱帯に見られるシダ系の灌木が生えているが、外側にあるのは高山などで見られる丈の低い針葉樹等である。
現にその周りには雪の積もった険しい峰が連なる高い山だらけであった。
「……気温の方は?」
「あ、はい。世界樹を中心とした我々のエリアは20℃〜26℃に保たれています。その外側は14℃前後でした。しかしご安心下さい。我々の中には寒暖差で行動不能に陥るような間抜けはおりません」
苦虫を噛み潰した表情になったユーリエに戦々恐々としながらユフクレナは淀みなく答える。
ユーリエが考えていたのは別の事なのだが、そうとは知らないユフクレナには何か落ち度があったのではないかと、俯きぎみだ。
「兄さんの、痕跡は見つかったのかしら?」
「は、いえ。そちらの方は全くと言っていいほど情報がありませぬ。現在は周囲の偵察程度に留めておりますが、探索となると地上にも手を広げなければならないかと」
「そう……」
眉をひそめて遠い目をするユーリエをカラとユフクレナが心配そうに表情を窺う。二人の視線に気づいたユーリエは、咳払いをして姿勢を正した。
「なにはともあれ、偵察ご苦労様でしたユフクレナ。私はあなたたちの働きに心からの感謝をします」
「はっ! もったいないお言葉、光栄に御座います」
左胸に腕を添えたユフクレナの姿勢は、このコロニーの中で最大の忠誠を捧げるポーズらしい。毎日のようにされていればユーリエにもうんざりするほど見慣れてくる。
「それとこの地図は複製して、全部署に配りなさい。細部の更新があった場合はそれも忘れないように」
「はい、技術部に打診してまいります」
ユーリエが手をかざしただけで、くるくると丸まった地図をカラに渡す。
彼女は地図を両手で恭しく受け取ると、静かに部屋を出ていった。
彼女の代わりに新しい蜂侍女が部屋の中に入ってきて、壁際に立ち命令を待つ。
「後で全部署の責任者を集めて会議を開きます。あなたはそれまでに体を休めておくように」
「はい。御前失礼致します」
ユフクレナは再度深々と頭を下げ、執務室を退出していった。
ユーリエは壁際に立っていた蜂侍女に視線を移す。
彼女はそれだけで悟ったのかそのまま膝を付いて頭を垂れた。
「二時間後に会議を開くと全部署の責任者に通達しなさい」
「はい。わかりました」
彼女が出て行けば、また新しい蜂侍女が室内へ入って来る。ユーリエは内心頭を抱えた。
部下に四六時中引っ付かれていると、気の休まる暇もない。
疲弊した精神を回復させるために、一度自室へ戻ることにした。
あそこなら室内にいる侍女はユーリエの腹心ばかりなので、少しは気がまぎれるだろう。
蜂侍女の先導で自室へ戻ると、呼ぶまで誰も入って来るなと言付けて自室の豪華な天蓋付きのベッドに飛び込んだ。
「はああああ……」
ふかーい溜息が漏れる。
部屋の片隅に控えるのはメイド姿のマネキンばかりだ。
「どうしてこうなった……」
彼女がこんなに苦労する羽目になったのは、だいたい一日ほど前の事である。
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