第8話 カミル
「神のご加護を!」
「君もな!」
PZL P.11戦闘機の操縦席で地上員と交わした、これが祖国での最後の会話になった。
1939年9月1日、西側の国境を侵して雪崩を打って攻め込んできたドイツ軍にポーランドの防衛線は次々と破られ、数日で多くの犠牲を出した。
P.11の飛行隊を指揮してドイツの爆撃機を迎撃した私は、まずハインケルやユンカースの爆撃機に追いつけなかった。どうにか急降下爆撃機Ju87に追いついたが、上空から降ってきたMe109に列機を次々と落とされ、自分自身も回避機動で精一杯だった。機甲部隊の進撃先に集中して爆撃を行うドイツ空軍の戦術は成功し、我々に電撃戦を止める術はなかった。
残存する兵力は首都ワルシャワで抵抗するとともに、別の部隊はルーマニア国境近くに橋頭堡を築き持久戦の構えをとった。英仏各国が9月3日に宣戦布告したため、橋頭堡を維持すればやがて援軍が来る。そのわずかな可能性に望みを託した。
しかし、9月17日に東の国境を侵してソビエトが進撃を開始した。
ワルシャワは抵抗を続けたが9月28日に陥落した。
ルーマニア橋頭堡の陥落も時間の問題だった。
➖➖飛行可能な機体は離陸後国境を超えルーマニアに脱出せよ➖➖
これが基地で受けた最後の命令だった。ドイツとソビエトという2つの大国を相手に1ヶ月近く抵抗した我々も、もはや打つ手はなかった。
涙ながらに手を振る地上員に見送られ、私もゴーグルの中を涙で濡らしながら離陸した。南に僅かに飛びルーマニアに入り、手近な飛行場に着陸した。
ルーマニアではすぐ兵士が取り囲み、私は機体と拳銃を差し出して投降した。戦闘機は接収されルーマニア軍に組み込まれた。しかし、この機体はドイツ相手には戦力にならない。
隣国で祖国に残された家族や同胞を案じながら、じりじりと焦るだけの日々が続いた。やがて、ポーランドの亡命政権がフランスに発足するという情報が伝わってきた。逃げ延びたポーランド兵は、異国の同胞の助けを受けて船に乗り、地中海からフランスに到達した。
かつて我々が住んでいた土地はドイツとソビエトの国境が縦断し、地上からポーランドという国家は消滅した。
国が消えても人が消えるわけではない。国を失った人々を、侵略者の恐怖と暴力が支配した。
1940年。亡命政権のあるフランスに集まったポーランド空軍の兵士は、フランス軍に組み込まれ戦闘機を貸与され、ドイツと戦う準備を進めた。
機体はフランス製のMS406 戦闘機だった。液冷V12気筒エンジン。全金属製、低翼単葉、引き込み脚。仕様だけを並べれば時代の先端を行くものだった。しかし、速度、上昇力はいずれもメッサーシュミットに及ぶものではなく、操縦も容易ではなかった。
同じ基地で、フランスのパイロットはアメリカから購入したカーチスP-36を飛ばしていた。MS406に比べればはるかにマシな戦闘機だが、祖国で遭遇したMe109の性能を思い出すと、これも到底勝てるようなものではなかった。
そして5月。ベルギーを通過してマジノ線を迂回したドイツ軍が、フランスを標的に電撃戦を開始した。シュツーカが露払いを勤めるドイツの機甲部隊は、恐るべき勢いでフランスの中枢に突入した。
私は部下を引き連れMS406で離陸し、Ju87だけでもとにかく落とそうと挑んだ。しかし、Me109がその速度と攻撃の正確さをもって次々と我々の戦闘機隊に襲いかかり、私はまたしても、自分を守るだけで精一杯となった。祖国から逃げ延びた亡命ポーランド軍はここでも数をすり減らしていった。
朝の出撃を終え、数が半分に減った戦闘機を着陸させた我々を、昼食のワインで顔を赤くしたフランス空軍の将校が出迎えた。我々は次の出撃に備えて粛々と準備を進めた。しかし、午後早々にドイツ軍の空襲があり、我々の残りのMS406とフランス空軍のP-36は地上で破壊された。
戦う翼を失った我々は、亡命政権の手引きで基地を離れ、英仏海峡の沿岸まで移動した。そこから夜陰に乗じて船に乗り、強大な敵に飲み込まれつつある大陸を後にした。そして、波に揺られながら大ブリテン島に到達した。
8月14日。朝から曇り空だった。昨日や一昨日のような激しい空襲を今日も予測し、基地でいつでもスクランブル発進できる準備をして敵に備えた。
ドイツ軍の大規模な空襲は昼近くに英国に到達することが多かった。離陸して編隊を組むのに時間がかかるし、何より太陽を背に有利な戦いをするにはそのあたりの時間が狙い時なのだろう。
早朝からいつでも発進できる体制ではあるが、実際にはどこから、どれだけの敵が来るのか。私は想定できる様々な場面でいかに敵を落とすか、または負けずに生き延びるか。そんな想像をし、緊張感に包まれながら時間を過ごした。
そして11時近く。緊急発進のベルが鳴り、私は真っ先に自分の機に飛び乗るとエンジンを始動した。ほぼ同時に6機のスピットファイアが目覚めた。
「こちらグリーンリーダー、発進する。2番機、3番機どうか?」
「ノーマン行けます」
「トーマスもエンジンかかりました」
「先に上がる。基地を大きく一周するのでその間に集合せよ。遅れたら置いていく」
「コピー」
滑走路に出てすぐ離陸に移った。脚を上げ、高度が少し取れたところでゆるく左に旋回した。滑走路から1機、2機と後続が上がってくる。そのうち2機がこちらに機首を向けた。基地の外周を一周りするころにはカミル小隊が3機編隊を形成していた。
「ボギーは約10機。北東30マイル、高度15,000ftです」
管制の情報は昨日一昨日とだいぶ違った。機数が少ない。高度も低い。
雲の底は3,000ft程で、私は列機を見回してから上を指差し、雲に入った。
白い霧が周囲を満たした。視界が効かないので計器を見ながら上を目指した。勘だけで飛ぶと容易に進路を見失う。自分の機体だけが今見える確かな存在で、見えない世界との間を計器が繋いだ。
やがて世界が明るくなり、10,000ftで雲を抜けた。真っ青な空が頭の上に広がり、中天から日差しが降り注いだ。私はゴーグルをかけて周囲を見回した。2番機、3番機も距離が離れていたがほぼ同時に雲から出ていた。そして彼らは、こちらに向かい編隊を組み直した。
「2時の方向、爆撃機です」
ノーマンが連絡してきた。
「視認した」
双発機が3機、ゆるい編隊でこちらに向かってきていた。背の低い胴体はハインケルだろう。操縦席のガラスだろうか、時々キラリと光が反射した。
「ボギーを視認。爆撃機He111。攻撃に移る」
私は左右の列機を見てから手で合図し、右旋回を開始した。
しかし、すぐ敵機は降下し、雲の中に消えた。
「上空から109!」
トーマスが叫んだ。護衛の戦闘機が我々を見つけ、爆撃機に知らせたようだった。
「雲に潜る。ついて来い!」
操縦桿を右に倒して手荒く旋回し、He111 が向かうであろう方向に進路を変え、降下して我々は雲の海に潜った。また視界が真っ白になった。
3,000ftまで降りて雲から出た。雲の下に広がる地形を眺め、現在位置を探った。川と町並みからおおよその見当をつけ、基地の方向を把握した。続いて周囲を見渡すと、それぞれ距離を置いて飛ぶスピットファイアを1機ずつ見つけた。
「ノーマン、トーマス、集合だ」
私は翼を左右に振って合図した。
さらに周囲を見回し、敵の爆撃機を探した。
ふたたび翼を振り、機首を巡らせ、地形を確認して現在位置を確認し。そうこうしているうちに雲の下を飛ぶ爆撃機の黒いシルエットを発見した。近くを確認するとスピットファイアの2番機、3番機は私により沿って編隊を成していた。私はもう一度翼を左右に振ると、爆撃機を見つけた方向を指差した。
「タリホー!」
機関銃発射ボタンの安全リングを回し、照準器を点灯し、攻撃開始を合図した。そして前方に見えるHe111を目指した。
高度は雲の下ギリギリまで高くとった。雲の中ではぐれたのか単機で飛ぶHe111の背後に、ゆるい左旋回をしながら回り込んだ。
「ノーマン、トーマス、上で待機して周囲を見張れ。他のハインケルもいるはずだ」
「コピー」
「後ろ上方から攻撃する。私が撃墜できなかった場合は続いて1機ずつ攻撃せよ」
私は爆撃機が機首の下に見えなくなった頃合いで操縦桿を押し、速度を増して背後に迫った。背面銃座の中で銃手が機関銃をこちらに向けるのが分かった。程なく曳光弾が飛んできた。こちらに向かうように見える弾は目の前に来ると逸れ、何かの力が弾を弾いているかのような気がした。防空火網はだいたいそんなふうに見える。命中する弾などめったにありはしない。
構わず私は接近し、照準器の中心に背面銃座を据えた。機関銃の弾は曳光弾だけではない。曳光弾が逸れても、目に見えない他の種類の銃弾が命中する可能性は低くない。しかし、自分の目の前にはエンジンがあり、防弾ガラスがある。その効果は確認済みだ。こんな鉄砲で落とされはしない。
私は敵に十分に近づいてから背面銃座に向け機関銃を連射した。私が放った銃弾は次々と命中し、破片が後方に飛んだ。さっきまで銃手がいたガラス張りの銃座は破壊され、赤い飛沫が上がるのもはっきりと見えた。それから爆撃機の右横をギリギリで通過して下に抜けた。
「機関銃を無力化した。敵は撃ってこない。訓練だと思って落ち着いて狙え!」
高度を下げてから左に旋回し、爆撃機と距離が空いたところで爆撃機と進路を合わせ、上昇しつつ速度を落とした。
同時に2番機が降下して爆撃機に迫り、機銃を連射して左横をすり抜けるのを目で追った。
「ノーマンよくやった、左エンジンが止まった!」
「トーマス行きます」
3番機が降下して射撃をし、敵の右横をすり抜けた。敵機は右のプロペラも止まった。動力を失ったハインケルは、煙の尾を細く引きながらゆるい降下を始めた。
私は高度を取った後に再び敵の背後に回った。
「これで奴は戻れませんね」
トーマスの無線を聞きつつ私は敵機に近づいた。敵の胴体から爆弾が投棄されるのが見えた。これで高度の低下がやや収まった。機体を軽くした彼らは不時着できる場所を探しているのかもしれない。確かにもうこの機体は大陸に戻れないだろう。
その時、機体上面のハッチが後方に飛んだ。乗員が脱出を試みている。
反射的に、私は降下を開始し、間合いを詰めて銃撃した。射弾は左エンジンから主翼、胴体、主翼、右エンジンと辿り、再び胴体の側に転じた。そのとき、主翼から炎が上がった。
安定した滑空をしていた機体はがっくりと機首を下げ、地面に向けて落ちていった。ゆるい左旋回を続けながらその様子を私は目で追った。攻撃のときの興奮が醒め、冷静に機体の行方を追っている自分に気がついた。
炎と真っ黒い煙に包まれながら降下するハインケルは、重力に引かれて深い角度で突き進み、畑の中に落ちて爆発した。燃え盛る炎と立ち昇る煙の柱を一周し、私は機首を上に向けた。
「こちらカミル、小隊の3機でハインケルを1機撃墜した。残りの爆撃機を追う」
はっきりと確認された撃墜戦果を、私は基地に伝えた。
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