第2話 トーマス
「ブレイク! ブレイク! 太陽の方向からメッサーシュミット!」
R/Tから入った声が飛行帽のヘッドフォンから響いた。ドーバーの沿岸で戦いはもう始まっていた。
僕が3番機を務めるオレンジ小隊は最後に前進基地を発進した。先に離陸したレッドとブルーの2個小隊はJu87に向かった。後続のグリーンとオレンジの2個小隊は上空の戦闘機を目指して上昇する途中だった。20,000ftまで届いたところで、Ju87を狙った6機のいずれかが、または全てが上空からメッサーシュミットに襲撃された。
下界を見ると黒煙を引いて落ちる飛行機が見えた。機種も国籍も分からない。同じ視界で、炎が一瞬輝いたのが見えた気がした。
「こちらオレンジリーダー。10時の方向にドルニエ、6機。同高度」
小隊長の声に左前方を探した。薄い雲の層が見え、それを背景に黒い小さい影が6個ほど見える。
先程の光が気になって僕はまた下を見た。1機の飛行機がくるくると回りながら落ちていくところだった。尾翼を失って不安定に舞い落ちてゆくその機体は、翼の上面の濃い色と下面の薄い色が交互に目に映った。
(スピットファイアだ…)
遠目にも分かるその楕円形の翼の形から、味方の戦闘機が1機落とされたという事実を知った。
僕は一瞬目をつぶり、首を打ち振って正面を見た。左前方の小隊長は僕の方をちらっと見た。それから右手の人差し指で正面を指した。
オレンジ小隊は水平飛行に移り、エンジンを全開にしてドルニエの爆撃機を目指した。黒点だった機体は機種が明瞭に分かるほどに近づいて、大きい頭がこちらを向き、2枚の垂直尾翼がその先に見えた。
「ドルニエを正面から攻撃する。背後に注意しろ(チェック・シックス)」
小隊長はそう告げてから、大きく身体をひねって後ろ上方を見た。僕も真似をして、右、左と後ろを確認した。
「太陽に注意しろ!」
R/Tから小隊長の声が響いた。
「降下だ!」
そう聞こえるやいなや、小隊長機は左に翼を打ち振って急降下に入った。
遅れず僕も続いた。地平線が右に傾いて、それから海面が目の前に大きく立ちはだかった。小隊長はほとんど垂直に見える角度で海へ向けての降下に入った。左横を見ると2番機もついてきている。
「操縦桿を押せ(プッシュ・オーバー)」
僕は言われるままに操縦桿を前に押した。でないと小隊長を下に見失う。機体は完全に真下を向き、海面が正面に壁となって立ちはだかった。
みるみる速度が上がる。身体は無重量状態からマイナスになって、座席から浮き上がり、縛帯で椅子から吊り下がった。股の間がゾワゾワする感覚が僕を襲った。
すぐさま頭の上を何条か輝く光の線が海へ向け伸びていった。
続いて。僕らよりはるかに速い速度で敵の戦闘機が頭の上を飛んでいった。海に突っ込むのかと思ったが操縦桿を引いて徐々に引き起こしているようだ。
戦闘機は合計で4機が、間隔を空けて飛んでいった。グレーのやけに小さい戦闘機。
「引き起こす。引き続き背後に注意しろ」
小隊長は戦闘機の編隊が行き過ぎたのを確認してそう指示した。隊長機は軽く機首を上げると僕の左横を過ぎて後ろに飛び去った。僕も慌てて操縦桿を引いた。こんどは遠心力が僕の身体を座席に押さえつけた。
高度は10,000ftを切って、海面やドーバーの海岸がはっきり見えた。
「トーマス、ブラックアウトに気をつけろ」
遠心力で重くなった頭を持ち上げて、隊長機らしきスピットファイアを視認できた頃にそう注意された。実際に目の前が暗くなりかけている状態だった。僕は操縦桿を引く力を少し弱めた。
水平飛行に戻るといつの間にか左前方に小隊長機がいた。その左には2番機も見える。
身体を乗り出して左右、背後、上空を確認した。ドイツ機はもう見えなかった。僕らのスピットファイアは3機そろって駆逐艦の上空を飛び、ドーバーの海岸から陸側に入った。
「Me109だった。トーマス、よくついて来た!」
小隊長は僕の方を向いて親指を立てた。
「いつか撃墜するところを見せてやる。その時も離れるなよ!」
海岸に沿って西へ飛び、しばらくして僕らは前進基地に着陸した。
着陸してから、スピットファイアの飛行隊の戦果と損害が明らかになった。
オレンジ小隊では2番機が主翼に何発か機関銃弾を受けていた。幸い僕の機体は被弾なし。レッド小隊とグリーン小隊も全機着陸した。しかし、ブルー小隊は3番機が帰ってこなかった。
ブルー小隊3番機は同期のフレッドだ。僕はくるくる回りながら落ちていくスピットファイアの翼を思い出した。まさか…
飛行隊長は中肉中背の体格で階級は大尉。口髭の下で煙草を咥えながら、集まったパイロットたちを一人ひとり見た。
「Ju87を撃破2機。未帰還は…」
ブルー小隊の小隊長を務めた少尉が蒼白い顔で飛行隊長を見つめていた。
「フレッドがMe110に襲われました」
「電話で海軍の捜索を依頼する。太陽は要注意だな」
苦悩に歪んだ顔で少尉は天を仰いだ。
燃料と弾薬の補給が終わってから、夕刻に僕らはまた離陸した。1機はエンジンが不調となって離陸を断念した。パイロットは前進基地のテントで泊りかもしれない。
ドーバーの上空を高度20,000ftで1時間ほど飛んだ。その間は特に攻撃はなく、やや離れたところで高射砲の砲弾が炸裂していた。飛行隊長が機体を左右に振って味方だとアピールしたが、その空域の高射砲の射撃はずっと終わらなかった。
20時過ぎに飛行隊は基地に戻った。
基地に届いた連絡では、墜落したスピットファイアの機体もパイロットも、見つかっていなかった。
翌日も海峡上空を哨戒し、前進基地に着陸した。2度目の出撃では25,000ftまで高度をとって、ワイト島の上空あたりを哨戒した。
ぼくは東のドーバーの海岸を見つめた。
フレッドはあの海のどこかにいる。まだ死んだと決まったわけではない。同期が敵に撃ち落とされたということがまだ信じられなかった。フレッドは一番射撃の腕前がよかった。吹き流しへの射撃訓練ではいつも僕らの中で最も多く弾丸を命中させた。それが、1発の弾丸も発射することもなく撃墜されたという。まったく信じられなかった。
「3時の方向にバンディット、ハインケル9機、高度20,000ft」
2番機が敵を見つけた。小隊はゆるく右に旋回しながら攻撃の機会をうかがった。薄い雲の下を選んで小隊長は飛んだ。雲の下から太陽は見えるが、おそらく雲の上から僕らは見えない。
「斜め前方から攻撃する。各機、離れるな」
小隊長はスピットファイアを緩い降下に入れた。敵機は海を背景に近づいてきた。互いに斜め前方から近づき急速に大きくなっている。垂直尾翼は1枚。風防の段差がない尖った機首。独特の後退翼。He111だと僕は視認した。
「タリホー!」
小隊長は速度を上げつつハインケルに突進し、敵機の左斜め前方に向け機関銃を発射した。
僕は小隊長についていくのに精一杯で、結局射撃の機会はなかった。
小隊長は軽く左にバンクしつつ機首を下げ、ハインケルの下をすり抜けた。僕もついていった。敵機の腹の下をギリギリで通過した気分だったが、実際には距離はけっこう空いていたかもしれない。
15,000ftまで降下してから引き起こしてハインケルが飛んでいった方を見た。1機が煙の尾を引いているように見えた。しかし、余裕で海峡を渡って帰れそうに見えた。1機撃破だ。
その翌日も出撃した。10,000ftで小隊はスロットル全開で進んだ。ワイト島の沖合の駆逐艦を狙って攻撃位置につこうとするJu87に狙いを定めていた。僕は小隊長を見失なわないよう気をつけながら、背後と太陽の方向を交互に監視した。
Ju87の縦隊を左前下方に捉えると小隊長はひらりとロールして降下に入り、Ju87に一連射を浴びせた。
僕も続こうとしたところで、太陽の中にちらりと動く影を認めた。
「こちらオレンジスリー、太陽からメッサーシュミット!」
小隊長を追わず、操縦桿を前に倒して、機体を真下に向けた。一昨日のときと同じように、遠心力で身体が浮き、縛帯で座席に吊り下げられた。
曳光弾がさーっと頭上を通過し、2機のMe109が後を追って飛び去った。機首の下の黄色い塗装が目に入った。
僕は機体を左ロールさせてから引き起こした。高度は3,000ftまで下がっていた。
水平飛行に戻りつつあたりを見回した。1機の飛行機が黒煙を吐きながら落ちていった。胴体が炎に包まれていた。燃える胴体から優美な楕円翼が伸びているのが分かり、僕は陰鬱な気持ちに突き落とされた。
前進基地に降りると小隊長が僕を迎えた。少しほっとした表情で僕を見て、歩く僕の肩を抱き、黙って煙草を差し出した。
オレンジ小隊の2番機を務めていた先輩の軍曹は、帰って来なかった。
翌日は24時間の休暇をもらった。9時過ぎまで寝かせてもらって、人気のないメスに行って新聞を読みながら朝食をとった。
風邪で3日間の地上待機を命じられた少尉が離れた席で煙草をふかしていた。鼻づまりはパイロットにとって耳の障害を生じさせる。気圧の変化に対応できず、耳の苦痛は戦闘が困難になる。鼓膜が破れる恐れがあり、敵に攻撃される隙も生じる。
少尉は穏やかな表情で窓の外の光景を見ていた。出撃に割り当てられていないスピットファイアが整備を受けている。僕は食事を終えてから少尉の近くの席に座って話しかけた。
「サー、トーマス軍曹であります、サー。」
「敬語はいいよ。君がオレンジ小隊の3番機か」
少尉は煙草を灰皿で消しながら応えた。
「少尉はシュツーカを撃墜したとお聞きしました」
「そうらしいね。私はメッサーシュミットから逃げるのに夢中だったよ」
「僕もドイツ機を撃墜したいんですが、敵の後ろを取るにはどのように飛んだらいいでしょう」
「背後に気をつけろ(チェック・シックス)」
「はい?」
「撃墜よりも、まず撃墜されないことだよ、軍曹」
「いえ、逃げることより、ハン(”HUN”、フン族の侵攻の故事にちなんだドイツ軍の蔑称)をどうやって落とすかを…」
「だから、死なないことだ。生きていればチャンスがある。撃ち落とされたら、それで終わりだ」
「少尉…、失礼しました、サー」
少尉の悲しげな瞳の奥にフレッドの赤毛がちらっと見えた気がした。10日のブルー小隊の小隊長だと、ようやく気づいた。
翌日、ウェーマス上空の哨戒を指示されたオレンジ小隊はポートランド島近くの上空でDo17爆撃機と護衛のMe110を視認した。サザンプトンを爆撃してフランスに戻る途中だった。
「雲の下から敵に近づく」
小隊長の声が聞こえ、やがて僕らの上に薄い雲がかぶさった。遠くに視認できた敵機も雲の奥に消えた。
エンジンを全開にして雲の下を2、3分の間進んだ。速度はスピットファイアの限界の320mphに近くなっていた。
「上昇する」
そう聞こえるやいなや、小隊長機は雲の中に消えた。2番機と僕もすぐ後を追った。雲を抜けると、太陽の光が眩しく注ぎ、Me110のスマートなシルエットが意外に近くに見えた。
速度を十分蓄えたスピットファイアはMe110の高度を安々と超え、小隊長は上昇の頂点で左にバンクを振って降下に入った。2基のエンジンを左右の主翼に備える、Me110の4機編隊が眼下にあった。小隊長は先頭のMe110にまっすぐ突っ込んでいった。
僕と2番機は、後続の2機編隊を狙った。
最後尾のMe110はグレーのスマートな胴体を僕にさらして、どんどん近づいてきた。
後部座席の銃手が僕に気づいた。赤らんだ白い肌の顔がありありと見えた。機関銃が僕の方を向くのも分かった。まったく普通の、僕らの同僚のような白人の若い男が、僕に銃口を向け、機関銃を撃ち始めた。しかし、曳光弾は僕のスピットファイアと全然外れた方向に飛んだ。
スピットファイアの照準器のレティクルはMe110の胴体を捉えた。僕は操縦桿の発射ボタンを押した。
ダダダダダダダ!
主翼の8挺のブローニング機関銃が火を吹いた。反動で機体が激しく揺すられる。
曳光弾はMe110の左上へ流れていった。外れた! 敵は微妙に横滑りをしている。
照準を修正する時間はなかった。目の前に大きく立ちはだかった敵機の胴体を避けて、僕は機を右に急旋回させた。
ブローニングの弾丸は右方向にMe110を舐め、キャノピーの奥に真っ赤な飛沫が上がったように見えた。
僕はMe110の反撃を避けるため降下を続けた。しばらくして見上げたると、上空に飛行機はまったくいなかった。
「トーマス、よくやった。1機撃破だ。基地にまっすぐ戻れ」
小隊長の声がR/Tから響いた。
基地に戻ると、茶色い無精髭を生やした不機嫌そうな男がメスにいた。飛行隊長がその肩をたたいて、僕らに紹介した。
「ポーランドから亡命してきた少尉だ。昨日スピットファイアの転換訓練を終えたばかりだ」
「どうも。カミルです」
ポーランド人の少尉は不慣れな英語の発音で僕らに挨拶した。
それから数日。出撃は続いたが特に戦果も損害もなく時が過ぎた。
前進基地から夜9時に帰り、へとへとに疲れてメスに戻ると、フレッドの遺体が海峡の沿岸に打ち揚げられたという情報を伝えられた。
僕らの同期から、最初の戦死者が出た。
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