スピットファイア−四人の翼−

春沢P

第1話 フレッド

 1940年。この年の夏は僕らにとって忘れられない夏になった。


 飛行場が近くにあったので、僕は小さい頃から飛行機を見て育った。古い飛行機は吹きさらしの操縦席に座る飛行士の姿がはっきり見えた。あそこからはどんな眺めが見えるのだろう。

 空軍に志願してパイロット候補生になれたときは本当に嬉しかった。友達が陸軍や海軍に応募する中、僕は空軍に志願した。戦争の足音が聞こえるようになって、僕は空を飛びたいという気持ちが急に大きくなった。戦争でも飛行機に乗れるならそれでいい。さいわい、視力と運動には自信があった。

 1939年の秋が深まり、風が冬の冷たさを帯びてくる頃に僕らは複葉のタイガーモス練習機で訓練をはじめた。そして9回目の飛行で単独飛行を許された。

 同じ教官に教わる同期の練習生4人で同じ飛行機に順番に乗った。僕は2番目だった。教官と同期に見送られて草地の飛行場に進み出たときは、自分が本当に一人で飛行機を操縦するのが信じられない気分だった。恐る恐る後ろを見ると本当に教官席に誰もいない!

 飛行場の風下側に飛行機を運び、向きを変えて風に正対し、スロットルを開けた。機体は意外なほど鋭く加速し、一人いないだけでこれほど違うのかと思った。

 離陸の手順はもう何度も覚え込まされた。同じ手順を進めるだけだ。教官のいる、いないは関係ない。僕は自分に言い聞かせた。

 前から吹きつける風は強まり、すぐ尾翼が浮き、地面のガタガタした振動が急に弱くなり、すっと消えた。

 僕はこの瞬間、自分だけの手で空に舞い上がった。

 手順通りに上昇し、操縦桿を左に倒し、ゆるく180度の旋回を終える頃には1,000ftほどの高度になった。左にさっき離陸した草地の飛行場が見える。草地は夏の鮮やかさを失っていて、じきに雪に覆われるだろう。

 あたりを見渡すとスコットランドの晩秋の景色が広がっていた。ほんのわずか昇るだけで見通しがまるで変わる。この感覚はいつも楽しい。

 そして後ろは誰もいない。

「ワーッ!」

 僕は大声で叫んだ。

「ワーッ! ワーッ! ワーッ!」

 今まで経験したことのない開放感で、叫ばずにいられなかった。まだ背中がゾクゾクする。それに、どんなに叫んでも誰にも聞こえない。

 やがてまた左に旋回する位置に来た。高度と速度を落としながら180度旋回すると目の前にさっき滑走した草地が見えた。はっきりとした滑走路はないけどタイヤの跡で降りる場所は分かる。

 覚え込んだ手順通りに飛行機を操作し、地平線や回りの景色ががどんどん高くなってきて、ドスンと飛行機は接地した。すぐにガタガタと地面の振動が伝わり、ほどなく飛行機は止まった。

 年が明け春になる頃には僕らは一端のパイロットになり、全金属製の単葉機、ノースアメリカン・ハーバートの教程に進んだ。戦闘機により近い形のこの飛行機はタイガーモスとまるで違った。スピード感をたっぷり味わってから、担当する機種を割り当てられ、僕らは実用機教程に進んだ。


 僕は戦闘機パイロットに選ばれた。スピットファイアが飛行場で僕らを待っていた。輝かしい初夏の日差しに照らされた、ダークアースとオリーブグリーンに塗り分けられたスマートな飛行機。僕らは、来る日も来る日もスピットファイアを飛ばして訓練に勤しんだ。早くこの強力な戦闘機で戦えるようにならなければいけない。

 去年から始まった欧州大陸の戦争は急に慌ただしさを増していた。5月に西側に侵攻をはじめたドイツ軍は破竹の勢いで、英軍の応援も虚しく兵士は西へ西へと追いやられていた。6月早々にはダンケルクから約40万人の兵士が命からがら海峡を渡って大ブリテン島に逃げ込んだ。

 僕らの訓練期間は圧縮され、スピットファイアで一人前に戦えるよう、必死で教程をこなした。6月の末には、軍曹として実戦部隊に配属された。

 同期で同じ隊になったのは僕=フレッドとトーマス、そしてノーマン。トーマスは黒髪でガタイがよく運動が得意。テニスは僕の方が上手いけど。ノーマンは金髪で背が高い。よくスピットファイアの操縦席に収まるものだと感心する。付き合いが悪いわけじゃないけど、時間があるときはよく本を読んでいる。

 イングランドの中部にある基地に出向き、メス(士官食堂)で手荒な歓迎を受けると、翌日朝には飛行隊長が先輩のパイロットを引き連れて出撃した。しかし、はるか高空を飛ぶハインケルの爆撃機に結局追いつけなかった。敵はドイツ製のカメラで英国をしこたま撮影していったに違いない。

 7月4日にポートランド島がドイツ軍に攻撃された。一方で、英仏海峡の沿岸に前進基地が用意され、海峡に面した港湾を警備したスピットファイアとハリケーンがそこで燃料と弾薬を補給できる体制ができた。

 飛行隊は新人の僕らを置いて朝早く出撃し、前進基地で昼を過ごし、暗くなりかけの夜9時ぐらいにようやく帰ってきた。僕らは居残りの先輩にしつこく空中戦の話を聞き、一時も早く出撃したいいう気持ちを紛らわせた。整備が終わり飛べる飛行機が用意できたときは、新人が代るがわる飛ばして訓練を忘れないようにした。

 7月9日に飛行隊はスピットファイアを飛ばし、南イングランドの新しい基地(エアロドローム)に移動した。前進基地は相変わらず使うが、新しい基地ならより早く前進基地に移動でき、作戦を柔軟に行える。行き先を聞いたときは驚いた。僕の故郷のすぐ近くだ。

 移動では僕ら新人も操縦桿を握った。今までいた基地から南に飛んで、子供の頃いつも見上げていた飛行機が離着陸していた基地に、僕自身が最新のスピットファイアでやってきた。空から見る故郷は新鮮な眺めだった。パッチワークのように色違いの畑が連なる地面を見たが、自分の家がどこなのか分からない。しかし、町の教会と墓地の場所は分かった。ほどなく、僕は着陸した。


 7月10日。晴天。3時半に起こされた。洗顔、ひげ剃り。メスに行くと朝食が用意されていた。パンとベーコンと卵。皆黙々と食べている。慌ただしい空気がみなぎっていた。明るくなった飛行場で12機のスピットファイアがエンジンを回して点検を受けていた。その音がメスにいて響いていた。

 今日は僕も任務に加わる割当てになっていた。新人をいつまでも遊ばせておくほど人は余っていなかった。

 4時半に僕らはスピットファイアの狭い操縦席に体を沈め、離陸を開始した。離陸してほどなく朝日が昇ってきた。まばゆい日差しの方向、海の向こうの東の大陸は今や敵地だ。

 ドーバーまで飛行して高度12,000ftで海峡の艦艇上空を旋回した。

 1時間程で燃料が少なくなり、海峡の海岸に近い前進基地に着陸した。

 飛行場の片隅の草地に車座で座り、持ってきたパンとゆで卵で昼食にした。前進基地は建物がなく、燃料以外に必要なものは全てテントの中にあった。燃料はドラム缶が野積みにされ、燃料補給車が機体とドラム缶の間を行き来した。燃料を補給されたスピットファイアは午後にまた離陸した。先に哨戒任務に飛んだハリケーンと入れ違いだった。

「ドーバー東南東から高度9,000ft、15,000ftの2群に分けて数十機の敵が向かって来ています」

 R/T(無線電話、レシーバー/トランスミッター)から管制の声が聞こえた。本当に敵が近づいている。いよいよ実戦だ。

 飛行隊は4個小隊の12機で編成され、1個小隊は3機からなる。3機は先頭に小隊長、左に2番機、右に3番機が配置される。攻撃は小隊長が先陣を切って行い、2番機、3番機は隊長を援護する。小隊長は少尉。2番機は先輩の軍曹。3番機は新米の僕。小隊長からは何があっても小隊から離れるな。敵を落とすなど考えず、小隊長を見失わないよう飛び、小隊長の後ろに敵が回り込みそうになったらR/Tで連絡しろ。そう指示された。

 ドーバーに向かうと海峡の艦隊にJu87が攻撃を行っている最中だった。急降下するJu87が海面への衝突を回避するよう低空で水平飛行に移るのを見た。視界の隅で駆逐艦の側面に水柱が上がった。外れだ。駆逐艦はしきりに対空砲火を撃ち上げている。ドーバーの港は命中弾を受け、火災の煙が上空に上っていた。

 12,000ftの高度で僕らは敵に向かった。まだ攻撃をしていないJu87の編隊を視認したパイロットがR/Tで報告してきた。

「バンディット(敵機)。2時の方向に4機。高度9,000ft」

「視認した」

 小隊長から落ち着いた声が帰ってきた。

 高度を維持して飛行隊は前進し、小隊長は艦隊を狙って攻撃位置につこうとしているJu87の4機の縦隊を目標に選んだ。数マイルの距離を取って僕らは敵機の後ろへ、後ろへと進んだ。やがて眼下の敵の後ろ姿を左斜め下方に捉えると、小隊長のスピットファイアは翼を左に傾け、降下を開始した。R/Tからは攻撃開始の声が響いた。

「タリホー!」

 僕らの戦闘機は高度差を速度に変えて敵に襲いかかった。スピットファイアの長い機首の向こうにJu87の特徴的な逆ガル翼が見えた。

 小隊長はJu87の背後に迫り一連撃を加えた。

「ブレイク! ブレイク! 太陽の方向からメッサーシュミット!」

 2番機がR/Tで叫んだ。

 小隊長は右へ、2番機は左へロールして一気に進路を変えた。上空からは双発の大柄な飛行機が2機、猛スピードで降りてきてさっきまでスピットファイアがいた場所を駆け抜けて行った。Me110だ。2枚の垂直尾翼が一瞬だけ見えて眼下に姿を消した。

 僕は小隊長にならって右に操縦桿を倒し、さらに操縦桿を力いっぱい引きながら頭上を見た。

 眩しい太陽にちらっと影がよぎり、すぐにガンガンと銃弾がスピットファイアを叩く音が響いた。

 ダーン!

 続けざまに激しい衝撃が背後に響いた。

 20mm機関砲弾が後部胴体に命中し、炸裂した。

 僕は本能的に操縦桿をより強く引いたが、急に操縦桿は軽くなり、手前一杯まで動いてガツンと止まった。

 機体は操縦不能になっていた。機首は右に大きく振れ、そのままくるくると水平に回り始めた。

 遠心力で操縦席の片側に押し付けられ、身体の自由が全く効かなくなった。

 僕の頭はキャノピーに押し付けられ、ひどく苦しかった。僕を銃撃した敵はどこかに行ってしまい、その姿を見ることもできなかった。

「脱出を…」

 僕はなんとか右手を動かし、座席に身体を拘束している座席ベルトを外した。それから頭上のキャノピー枠にある手掛けに手を伸ばそうとした。これを開けられれば、飛び降りて脱出できる。

 しかし、機体はぐるぐると激しく回り、どうしても手が届かない。目の前には空と海面が交互に現れた。その海面は思ったよりかなり近くにあるような気がした。

 僕は全身にあらん限りの力を込めて座席から離れようとした。キャノピーを開けるのももう少しだ!

 しかし、ぐるぐる回る機体の遠心力は僕の脳から血液をどこかに運び去ってしまった。

 必死であがいている間に、唐突に目の前が真っ黒になった。すぐに何も分からなくなった。

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