第7話 「不屈の魂」
8月9日。飛行隊は基地で待機の割当てになった。午前中はスクランブルの体制も求められず、小僧たち(boys)は飛行場で思い思い時間を過ごしていた。
僕は整備格納庫でスピットファイアやハリケーンの修理を見ていた。羽布を剥がして修理中のハリケーンは、胴体が骨組だけになって飛行機ではない別の何かになっていた。違う片隅ではスピットファイアの修理に何人か見物人が集まっていた。
「君は士官だ。戦場での君の判断はある程度尊重しよう」
飛行隊長がそのスピットファイアを眺めながら、傍らのカミル少尉と話をしていた。
「昨日は109に襲われて回避し、早々に隊長機を見失いました」
「それは分かる。私の2番機を任せれば、どこかに消えることはないと思ったんだが、6機対30機では仕方がない」
「目の前でまっすぐ飛ぶ109を発見するまでは、隊長機を探して援護するという気持ちは一応持っていました」
「だが、君は撃って、降下した」
「ドイツ機が海に落ちるのを、どうしても確認したくなってしまい…」
「そしてもう1機ついでに海に落としたと」
「まるで私のために用意されたかのように、視界に入りましたから」
「カミル君、私は、実際のところ、私の援護のことはどうでもいいんだ。といっても君の能力を信じていないわけでもないが」
「ではどういうことですか?」
「君の無鉄砲な戦いぶりは、ひどく心配なんだよ」
そう言って飛行隊長は、スピットファイアの風防ガラスを指差した。昨日機関銃の弾を食らって、激しくひび割れた防弾ガラスだ。
「今度は隊長を見失うことはないようにします」
「いや、そうじゃない」
飛行隊長は口ひげをもごもご動かしつつ、口角を上げて二っと笑った。
「むしろ君が小隊長になって自由に飛ぶのがいいと気がついた」
カミル少尉は無精髭の仏頂面で聞いていた。
「護衛のためにノーマン軍曹とトーマス軍曹を列機につける。君の部下はこの二人が適任だろう」
急に話を振られて、居合わせたノーマンと僕は互いに目を合わせた。
「ああ、それはいい。分かりました、大尉殿。次からは私が先頭に立って戦います。背中は君たちに預けた」
少尉は向き直ると、ノーマンと僕の肩を両手で叩いた。ズシンとした重みのある手だった。
「猛将カミル小隊だ。悪くないだろう?」
飛行隊長は僕らにそう言って、不器用そうにウインクすると、格納庫の外へ歩いていった。
8月10日。僕らの飛行隊はまた朝一で離陸し、前進基地に移動した。ここで、いつでも出撃できるように待機した。
グリーン小隊の飛行隊長が亡命ポーランド人将校のカミル少尉。2番機がノーマン軍曹、3番機が僕、トーマスだ。
午前中は特に出撃はなく、やがて昼になって、青空の下で食事をした。
午後はドーバーの上空の哨戒任務を要請され、12機で海の上をゆるい円を描いて飛んだ。港の上は阻塞気球が上げられていた。そちらに近づくと対空砲火が上がるため、飛行隊は安全を見て海の方を飛んだ。
空は薄雲がかかり、低い高度にも綿雲が浮いていた。敵が来ないならいつまでも飛んでいたい空だった。
時間が来て僕らは前進基地に戻った。入れ替わりに離陸したハリケーンの飛行隊が遠くですれ違うのを見て、僕らは着陸した。
燃料が補給される合間に、R/Tの交信が指揮所のテントにある無線機から聞こえてきた。ハリケーンの飛行隊はちょうどドイツ機の来襲と鉢合わせし、空中戦で交わされる会話が次々と響いた。
やがて何機か傷ついたハリケーンが降りてきた。1機は脚が片方だけしか降りず、着陸を断念して浜辺まで飛び機体を捨てた。背面飛行に入ったハリケーンからパイロットが落ち、やがてパラシュートが開いた。主を失った機体は背面からくるりとロールして正常な姿勢になったが、すぐ機首を斜め下に向け、不安定に回りながら墜落した。
ハリケーンの戦果は不確実2機を含む4機の撃墜と報告された。損失はさっきパイロットが脱出した機も含めて2機だった。もう1機もパイロットは脱出してパラシュートで降下したと聞かされた。
夕方にもう一度僕らが哨戒任務で上がったときは、また何事もなく過ぎた。
カミル小隊の初陣は、まったく成果なく終わった。
8月11日。また朝に前進基地に移動して待機に入った。11時過ぎに緊急発進の要請が入り、飛行隊は12機全機が離陸した。
飛行隊は西へ飛び、ウェーマスとポートランド島を目指した。
25,000ftまで上昇して進むと、同高度に双発機らしき機影が見えてきた。ウェーマスの上空で数機が距離を置いてゆるく旋回していた。機種はMe110と分かった。
「4,000ft上空に109が、同高度に110がいる」
飛行隊長の声がヘッドフォンで響いた。
「まず110を狙う。8機が防御サークルを形成している。互いに背後をカバーしているから深追いをするな。上空の109にも注意だ」
「ノーマン、トーマス、行くぞ。私を見失うな」
カミル小隊長の声だ。
「タリホー!」
飛行隊長の掛け声で攻撃が始まった。
「11時の方向の110を狙う。斜め前からすれ違う。敵の機関銃の死角だ、衝突だけ気をつけろ」
他の機が敵の背後に回ろうと右に機首を振ったとき、小隊長はそう告げると、むしろ左に向きを変え速度を上げた。
はかなげな小さい影に見えていた敵機は見る間に大きくなった。2基のエンジンとスマートな胴体、2枚の垂直尾翼も分かる。僕らは浅い降下をしながら1機の110を狙って進んだ。3番機の僕は上や後ろを見回し、特に太陽から降ってくる109がいないか警戒した。
小隊長のスピットファイアが射撃をはじめ、両翼が硝煙に包まれた。少し遅れてノーマンも射撃を開始した。僕が上空の警戒から敵機に目を移したときは、敵機は目の前をすれ違っていった。
「降下して離脱する」
「コピー」
僕らは操縦桿を少し押して30°ほどの降下に入り速度を上げてウェーマス上空を去った。
「ノーマン、君のヒットだ!」
言われて振り向くと、1機のMe110が煙を吐いて高度を落としつつあった。
「ぼくの戦果でありますか?」
「間違いない。私の弾は全て外れた!」
水平飛行に移りながら小隊長はそう言い切った。
ノーマンの初めての撃墜が、僕らの小隊の初戦果になった。
日が落ちる頃に基地に戻ると、小隊長はノーマンと僕をメスのバーに誘った。
「君たちの戦果の祝杯だ!」
いつもより機嫌がいいような気がした。
メスの入り口を入ったところで、盾のような新しい飾りが置かれていることに気がついた。一昨日スピットファイアから外した、ひび割れた風防ガラスだ。即席で作った木の台に置かれていて、上にはアーチ型に組み合わせた板が置かれている。その板には、「INVINCIBLE SPIRT(不屈の魂)」と刻まれていた。
「カミル小隊長に!」
バーでは飛行隊長が僕らにビールを渡した。飛行隊のほぼ全員が集まっていて、皆で乾杯した。
「我らの不屈の魂に!」
少尉は後を追って声を上げ、全員がもう一度グラスをぶつけ合った。少尉は「目に見えない(invisible)魂に!」と言ったような気がした。わざとか? 言い間違いか? どちらにしても、魂が目に見えないことは間違いない。
「そしてスピリタスを小僧たちに!」
場が盛り上がってきたのを実感した少尉は、飛行隊長のビールに続いて、全員にウォッカをふるまった。
僕は、カミル少尉が心底楽しそうにしている姿を、それまで見たことがなかった。
「我が目に見えない祖国に!」
少尉の細めた目の端に、少しだけ涙が光って見えた。
8月12日。酔いが醒めない間に朝になってしまった。
エプロンに出てもまだふらつきが残っていた。ノーマンもややつらそうにしていた。しかし、カミル小隊長は何事もなかったかのようにまっすぐ立ち、いつものように鋭い目で空を眺めていた。
午前中は基地で5分間待機だった。空の下に並んでいるスピットファイアを眺めながら、椅子に腰かけたりしてゆったりと過ごした。11時頃、突然の緊急発進のベルが鳴った。僕らは立ち上がると、急いで機体に走った。あわただしく操縦席によじ登ると、地上員がすかさず僕を機体に縛り付けた。
ニュース映画で見たような典型的なスクランブル発進だった。エンジンを始動すると動ける機から動き出し、風向きを気にせず手近なルートで滑走路に出た。そして計器や周囲の安全を一瞥すると次々と離陸した。
「130度の方向から敵機450機以上」
管制からレーダーが捉えた敵の情報を送ってきた。あまりに膨大な数に一瞬耳を疑った。
「こちらカミル。ノーマン、トーマス、私の機が見えるか?」
離陸したばかりの僕は辺りを見回した。北の方に向かう1機のスピットファイアが大きく翼を振っているのに気が付いた。
「トーマス視認しました」
「ノーマンも視認しました」
「私について来い。一度北に飛んで高度をとる」
スピットファイアは翼を振るのをやめると北に向かった。
僕らはそれを追って、3機が揃って上昇した。
20,000ftを超えたところで進路を西に変え、敵機が来るであろう左の方向を探った。
サザンプトンやポーツマスの方向で高射砲がさかんに撃ち上げられているのが見えた。その炸裂する砲弾の周り、かなり広い範囲に黒い点になって敵機が見えた。
およそ20,000ftから28,000ftまでの範囲に、無数の機影が見えた。200機はいるかも知れない。見たこともないような飛行機の数だ。それらが群れで弧を描く様は、夏の夕方に見る蚊柱のようだった。
ドイツ機の群れはポーツマス港を中心に旋回しており、さらに南東から爆撃機を含む多数の敵機が接近しつつあるようだった。敵機の群れは大ブリテン島の南岸から海峡を渡って、フランスまで続いているように見えた。
敵の姿がもう少し分かるように近づいた頃、僕らの高度は25,000ftを超えていた。それでも一番上にいるMe109には届きそうになかった。
「3,000ftほど下に110がいる。ゆるい4機編隊だ。全員で1機ずつ狙う」
カミル小隊長はそう指揮した。もう狙う獲物を決めていた。
「敵は圧倒的多数だ。間隔を空けて降下し、それぞれ110を攻撃する。撃ちながらすり抜けて降下しろ。スピードが命だ。減速するな。ぐずぐずするとその間に落とされるぞ」
Me109とM110が同じ高度でいたら僕らは110を狙う。109が上にいて、110が下にいたら獲物は明らかだ。上空から落ちてくる109には攻撃する時間を与えない。
「タリホー!」
そう宣言して、小隊長は翼を左に傾け、降下を始めた。間隔を空けた僕らはゆるい縦隊になって、下方に見えるMe110に向けて進んだ。
速度はみるみる上がった。300mphをやすやすと超え、敵に迫る頃には400mphになっていた。
僕らは後ろ上方の絶好の位置からMe110を襲った。小隊長がまず射撃を始め、敵の後ろをすり抜けて降下した。ノーマンはその後ろのMe110を撃った。僕も、目の前で急速に大きくなる別のMe110を撃った。
射撃のチャンスは1秒もなく、射撃の効果を確認する暇もなく敵機の下をすり抜けてしまった。
「降下を続けろ!」
R/Tの声に従い、操縦桿を引かずに降下を続けた。速度は500mphに届こうとしていた。急激な気圧の変化に鼓膜が圧迫され、何度も唾を飲んで気圧差を鼻から抜いた。
「もういい、水平飛行に戻す」
小隊長の声を聞いて、やおら僕は操縦桿を引いた。
操縦桿はセメントで固めたかのように恐ろしく重くなっていた。高速の気流が昇降舵を押さえつけていた。僕は両手で操縦桿のフープを握ると、力いっぱい引いた。操縦桿を引く力と、徐々に生じてきた遠心力で、腰と背中が軋んだ。
遠心力はやがて強烈な下向きの荷重になり、また視界が徐々に暗くなってきた。全身に力を入れて、血液が頭から下がらないよう抵抗した。
ひどく長い時間、操縦桿と遠心力を相手に格闘していたような気がした。しかし、気がついてみると機体は水平飛行に戻っていて、速度も落ちて操縦桿は普通の重さになっていた。遠心力も速やかに消え、黒ずんで狭くなっていた視界が明瞭になった。
「ノーマン、トーマス、生きてるか?」
「ノーマン生きてます」
「トーマス生きてます」
「分かった。基地に戻る。私の機は翼に皺ができた。もう戦えない」
「コピー」
200機を超える敵の間をくぐり抜けた僕らは、自分の息遣いから生きていることを改めて確認し、基地に向かった。全身汗だくだった。
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