第6話 撃墜

 8月8日。飛行隊は早朝に前進基地に移動した。朝露が残る草地に降りたスピットファイアは飛行場の隅に移動し翼を休めた。

 僕らは配られた毛布をかぶってしばらくうたた寝した。連日日没まで飛び、床につくのは深夜だ。そして眠ったと思ったらすぐ、夜明け前に起こされる。8月になったがまだまだ夜は短く、戦闘機が戦える時間はうんざりするほど長い。

 朝の時間はやがて過ぎ、昼が近くなってきた。高く昇った太陽は暑さを呼び、毛布を脇に置くと僕は前進基地を見渡した。青空にいくつも綿雲が浮かび、通り過ぎる風が涼しくて、静かに草が揺れていた。

 このまま一日、草地でごろごろしていられるだろうか。

 のどかな風景を見て僕はそんなことを思った。

 しかし、この草地から南に何マイルか行った先は英仏海峡で、それを渡った先はドイツが支配している。ここは最前線だ。

 遠くで電話の鳴る音がした。臨時の司令室になっているテントがある方向だ。しばらくして、そこから飛行隊長が長靴でドタドタと歩きながら僕らのそばに立った。

 草地で思い思いに過ごしていた僕らは、「メイ・ウエスト」と呼ばれる救命胴衣を手にやおら立ち上がった(これをつけると彼女のようなセクシーな胸元になる)。

「この近くに来ている船団に敵機が接近中だ。まず私を含む6機で護衛に上がる。残りは他の敵に備えて待機だ」

 そう伝えると飛行隊長は今から一緒に飛ぶ5人を指名した。レッド小隊とブルー小隊。レッド小隊は飛行隊長が小隊長を兼任する。列機にカミル少尉とカナダ人の少尉。ブルー小隊はイングランド出身の少尉が小隊長で、僕と、僕の後輩の軍曹が列機となる。

「すぐに上がるぞ!」

 僕はノーマンに片手を上げて挨拶すると、メイ・ウエストを首からかけ、飛行靴をドタドタさせてスピットファイアに向かった。


「では、お気をつけて!」

 地上員が縛帯で僕を椅子に縛り付けると、いつものように一声かけて翼から降りた。飛行帽のヘッドフォンからは飛行隊長と小隊長の声が聞こえる。無線機は異常なし。

 スピットファイアは次々にエンジンを始動し、さっきまでのどかに鳥の声がしていた草地が轟々たる音に包まれた。僕も計器を一通り確認し、ボタンを押してエンジンをかけた。

 飛行隊長を先頭に6機はするすると移動を始めた。暖機運転はしない。機体は少し前進してから、草地が一番遠くまで続いている方向に機首を向け、そのままエンジンを全開にして滑走を始めた。

 草地の飛行場は決まった滑走路はない。今は一刻を争う。風向きも気にせず、僕も他の機体の後を追って、ブレーキの加減で機体の向きをちょっと変えると、早々にスロットルを全開にした。

 草地独特の荒い乗り心地は、翼が揚力を蓄えると徐々に小さくなり、機体が水平になったかと思うとすぐにタイヤが地面を離れた。

「イーグルリーダー、こちら管制、方位130度にバンディット50機以上。高度15,000ftまで上昇せよ」

 離陸後一度北に機首を向け、大きく旋回しながら上昇していると管制から敵の情報が入ってきた。方位130度とは、上から地上を見て、磁北を0度として時計回りに角度を示したもの。90度が東、130度はおおむね南東方向。

「50機…」

 僕はマスクの下でつぶやいた。今離陸したスピットファイアはたったの6機だ。一桁も違う敵とどう戦えばいいのか。

 前進基地から見えていた雲は5,000ft程度の高さで、ほどなく僕らはその雲の高さに届いた。雲の間を上昇しながら、酸素マスクのコックを開けた。

 6機のスピットファイアはいくつも浮かぶ綿雲の間を飛んだ。まるで雲と戯れているようだ。戦争でなければ、キャノピーを開けてあの雲まで手を伸ばしたい。

 下を見下ろすと、雲の合間から海が見えた。手前のワイト島と対岸のフランスとの間で、20隻ほどの輸送船が西を目指していた。周囲を6隻の駆逐艦が援護していた。阻塞気球がいくつも浮かび、低空からの航空攻撃を防いでいた。

 船団への攻撃はまだ始まっていないようだった。僕らの頭上には薄い雲の層が見えた。太陽が少し陰っている。今なら太陽の方向から僕らの編隊は見えないはずだ。

 高度は20,000ftを超え、その層雲もすぐ頭の上になった。船団は翼の下に隠れ、僕らはいつ襲ってくるか分からない敵を探し、雲の合間をキョロキョロと見回した。

 25,000ftのあたりで僕らは層雲を抜けた。黒ずんだ青い空に太陽がギラギラ輝いていた。眼下は真っ白い雲が敷き詰めた真綿のようだった。

「メッサーシュミット30機、太陽の方向から!」

 飛行隊長の声が響いた。

「タリホー!」

 敵機を発見した隊長は即座に戦闘開始を合図した。

 僕らが操縦桿を手荒く倒すと、スピットファイアはいっきに機体を傾けて方向を変え、編隊はバラバラになった。

 太陽の方向を見ると、いくつもの黒い影がまさにこちらに降ってくるところだった。

 身体を右や左にひねり、狭い視界の中で僕は必死に背後の敵を探った。1機のMe109が右後ろ上方から突っ込んできた。僕は左に旋回中の機体をさらに左に倒し、鋭い旋回に入れて敵の射弾をかわした。続いて、また右後方からMe109が襲ってきた。旋回から戻りつつある機体を再び横倒しにして、僕は攻撃をかわした。

 2機の109は高速で僕の近くを降下してゆくと、先の方で向きを変えてふたたび上昇に転じた。

 敵をゆっくりは見ていられなかった。目の前を1機のスピットファイアが2機のMe109に追われながら横切っていった。

 辺りは青い空と白い雲を背景に、ものすごい数の飛行機が飛び交っていた。どの方向を向いても視界に戦闘機がいる。しかもほとんどは翼の先が角ばったMe109だった。

 スピットファイアは5倍の敵に翻弄された。敵は数の優勢に自信があるのか、一撃をかけたあとも上昇し、二撃、三撃とスピットファイアに戦いを挑んできた。

 何度攻撃をかわしたのか忘れかけた頃、ふと前方にまっすぐ飛ぶMe109を見つけた。多数のMe109の中で見つけにくいスピットファイアを探しているのかもしれない。

 僕は背後を一瞥し、射撃体勢に入った敵がいないのを確認すると、後ろ上方の絶好の位置からその敵に近づいた。まるで射撃訓練の吹き流しを撃つような気分だ。

 徐々に大きくなる敵を照準器に捉えたとき、突然その機の右の翼が上に折れ曲がった。何事かと目を疑った。下方から曳光弾が幾筋も上に飛ぶのが分かった。

 翼を失ったMe109はくるくる回りながら落ちていった。その後を追うように、下から上がってきたスピットファイアは優雅な楕円翼を翻し、反転して降下に入った。機体下面の薄緑色がキラリと太陽を反射した。

「くそっ!」

 敵を横取りされた悔しさで僕は叫んだ。

「くそっ! くそっ! くそっ!」

 その悔しさもすぐにどうでもよくなった。

 バンバン!

 右の主翼から金槌で叩かれるような音がした。曳光弾が僕の右を前方向に流れてゆく。

「○○○○!」

 口汚く罵ると、僕は手荒く操縦桿を左に倒し、同時に手前に引いた。方向舵のペダルも荒く蹴った。

 右肩越しに後ろを見ると1機のMe109が射撃を続けながら僕を追いかけていた。

 僕は全力の旋回を続けた。遠心力で身体が座席に押し付けられた。脳の血液が足の方に下がってゆく。目の前が徐々に暗くなる。全身に力を入れ、視界がそれ以上奪われないようこらえた。

 急旋回を続けながら、僕は後ろを見た。敵はどこか。体をそらして真上を見た。そこにMe109のグレーの機体が見えた。

 綿雲の浮かぶ空で、僕らはお互いに背中合わせになって左旋回を続けた。もう僕の目にはその敵の姿しか入らなかった。頭の上の、首をそらしてようやく視界の上端に見える小さな飛行機の影。その影に僕は叫んだ。

「負けてたまるか!」

 旋回性能ならMe109よりスピットファイアの方が上だ。それは今までの経験で知識として知っている。とにかくこのまま旋回を続けていれば、今見えている敵に簡単に落とされることはない。

 旋回を続けるうちに、敵の位置は背中合わせの頭の上から、徐々に前の方にずれてきているのが分かった。スピットファイアの方が相手より小さく回っている。

 僕の左手はスロットルを最前の位置に押し付けていたが、さらに力を入れて、金具のストッパーを押し抜いた。エンジンの音と振動がひときわ大きくなった気がした。マーリンIIIエンジンは非常時に5分間だけ出力を1400馬力まで増強できる。この高度で何馬力出るのかは正確には分からないが、とにかくパワーが上がる。

 操縦桿はずっと引きの位置をキープしていた。遠心力は可能な限り最大を保っていたが、手元には微妙な振動が伝わってきていた。それは、これ以上引くと失速するという予兆だと僕は察した。

 焦ってはいけない。失速ギリギリで操縦桿を引き続ければ最も鋭い旋回ができる。その間に増大する空気抵抗には、エンジンの非常馬力で対抗する。

 気がつけばもう、Me109は僕の前に来ていた。主翼の左右で前方にスラットがせり出している。敵も失速ギリギリで旋回を続けているのだ。しかし、そのギリギリでの旋回性能はスピットファイアの方が優れている!

 Me109はやがて照準器のガラスの中に収まり、オレンジ色の光の輪の中でどんどん大きくなっていった。

 僕は機関銃の発射ボタンを押し、たっぷり5秒間射撃を続けた。

 両翼から伸びた8条の曳光弾は、後ろから前に移動しながらMe109を射抜いた。敵の破片がいくつも剥がれ、後ろに飛んだ。

 その主翼から白煙が上がったかと思うと、エンジンの方からぼっと火が上がり、火だるまになって敵機はがっくりと降下に入った。

 それを追い越しながら、ようやく旋回を緩めた僕は、機体を反対に傾けて落ちてゆくMe109を見つめた。

 黒い煙の尾を残してそれは雲の中に落ち、その先は分からなかった。

 僕は改めて周囲を見回した。そこら中にいた戦闘機はほとんど見えず、遠くで2機のMe109が東に向けて飛ぶのが見えただけだった。

「敵は引き上げた。我々も前進基地に戻る」

 飛行隊長の声が耳元に響いた。


 前進基地に戻ると、なんと6機が欠けることなく戻っていた。

 一番最後に着陸した僕を、残り5機のパイロットが出迎えてくれた。

「トーマス軍曹、1機撃墜しました!」

 飛行隊長に僕は誇らしく申告した。

「炎上して墜落する109は私も視認した。初撃墜だ、おめでとう!」

 そう笑顔で言うと、僕の肩を叩き、頭をぐりぐりとなでた。

「6機対30機という圧倒的な敵に襲われたが、損害なしで撃墜は4機だ」

 飛行隊長は歩きながら僕らにそう語った。

 歩いた先には1機のスピットファイアが燃料と弾薬を補給されているところだった。

 僕はその機の主翼を見た。機関銃の銃口を覆っていた赤い布カバーが破れて、機関銃の数だけ下に垂れている。この破れた布地と銃口の煤汚れが、僕らが戦った証だ。

「どうやら、君の獲物を奪ってしまったようだな。すまなかった」

 その機体をしげしげと眺めていたカミル少尉が、僕の方を向くと手を差し出した。

「少尉だったんですか?」

 僕は握手しながら問い返した。

「上を見たら109の腹が見えたので、つい撃ってしまった。翼は下から撃たれると折れると聞いていたが、本当なんだな」

「そうですね。あのときは悔しかったですが、撃墜おめでとうです」

「ああ、あれが初戦果だ。ありがとう」

「そうなんですか?」

「私は英軍では君の後輩だということを忘れないでくれよ」

「でも少尉ほどの経歴があれば」

「ポーランドでもフランスでも、109に勝てる戦闘機なんて乗れなかったんだ」

 少尉はスピットファイアの長い機首をトントンと叩いた。

「君も1機撃墜したんだね、おめでとう」

「ありがとうございます。敵と格闘戦になったので、返り討ちにしました」

「それはよくやった」

「スピットファイアなら絶対に負けません」

 僕は誇らしくそう言った。

「まあしかし、過信は禁物だよ。それから、私は今日は2機撃墜している」

「ええ?!」

 少尉の言葉に僕は驚いた。

「敵を追って降下したらシュツーカを見つけた。急降下爆撃に入る直前の1機を、後ろ上方から狙ったらうまく命中した」

「それはすごいですね」

「すごいよ。爆撃機は後ろに機関銃があるんだ。足は遅いけど、大したものだ」

「はい?」

 少尉は改めてスピットファイアの方を向くと、風防を指差した。

「絶好の射撃位置だったので弾がなくなるまで撃ったが、この通り、きついお返しをいただいた」

 風防の厚さ2インチほどあるガラスが、蜘蛛の巣のようにびっしりとひび割れていた。

「1回の出撃で2機を撃墜できるとは。ここで飛んだら敵には困らないな」

 そう語って少尉はニヤッと笑った。僕はむしろ心配そうに話した。

「少尉、これはまた、神様に助けてもらったんですよ!」

「いや違う。防弾ガラスは人の業だ」

 少尉は手袋を外した手で、今度は少し愛おしそうに機首をなでた。

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