第5話 キャブレター
眼下の敵はMe109がまばらな編隊を組んでいた。機数は4機。ジグザグに並んで、各機の間は100ヤードは離れているだろうか。
僕は操縦桿を左に倒し、左ロールを維持して敵に向かった。こちらは敵の2倍ほどいる。
坂道を下る勢いで敵に近づくと、Me109の青っぽい灰色の迷彩塗装が明瞭に見えた。翼の黒い鉄十字も分かる。先頭の機体の機首と方向舵の鮮やかな黄色も。
「トーマス、後ろを頼む」
ノーマンから無線が入った。
「コピー(了解)」
僕は降下に入った角度を少し緩めて、ノーマンの背後と、自分の背後を確認した。
頭の上でキラキラと光る点が4個ほど見えた。高度の高い方の敵はやはりこの飛行隊を狙っていた。
「上空から敵機!」
僕はR/Tに叫ぶと、ノーマンの背後が守れる位置はどこか探った。
ノーマンは敵機の背後についたところだった。敵の戦闘機が降ってこなければ速度を落としてじっくり狙って撃っただろう。狙われた敵は悠然とまっすぐに飛んでいた。上空から降ってきた敵と合わせて考えれば、これは明らかに囮だ。
僕の通信を聞いたのか、ノーマンは敵の背後に位置するといきなり機関銃を一連射し、そのまま速度を緩めずにMe109の下を潜って降下した。撃たれたMe109は無傷だ。
上から降ってきたMe109はそのノーマンに向けまっすぐ突っ込んでいった。その敵の後を追って僕も降下した。
ノーマンは、降下して背後につこうとする追手を十分把握していたらしい。敵が射撃位置につくと彼のスピットファイアは突然引き起こし、さらに左に急旋回した。Me109は射撃の機会がないままさっきまでノーマンがいた位置に突進していった。
一方で僕も風防の枠の外にあるミラーを一瞥し、さらに身体をひねって直接背後を見た。
1機のMe109がまさに、後ろ上方の射撃位置につくところだった。
僕は力いっぱい操縦桿を引くと同時に左に倒し、ノーマンと同様に急旋回した。
敵は僕の機体の下を追い越していった。それから機首を上げて上昇しながら緩い旋回に入った。
僕は一回りロールした。水平に戻って再び後ろを確認すると、もう背後に敵はいなかった。
そして、スロットルを全開にして前の方で背中を見せているMe109を追った。そいつの進む先では、1機のスピットファイアが緩い左旋回をしている。
「ノーマン! 109が君を追ってる!」
スピットファイアの操縦席で、人影が動くのが見えた。ノーマンが身体をひねって後ろを確認しているのだろう。
ノーマンは右に反転し、高度を取ろうとしたのかやや上昇に転じた。
Me109も右に旋回し、スピットファイアを追った。
「追いつかれる!」
Me109の機首で機関銃の発砲焔が光った。しかし距離があり、まだ当たらない。
ノーマンは右旋回を続けながら上を向き、速度が落ちたところで鋭く旋回した。Me109もそれを追った。僕もやや遅れて2機に続いた。
スピットファイアは上昇反転で完全にこちら向きになり、僕の右側を反対方向にすれ違っていった。
Me109も上昇反転を敢行したが、その様子がおかしいことに僕は気づいた。角ばった主翼の両端で、前の方に何かが出ていた。「スラット」とかいう失速防止装置だ。そして、補助翼がパタパタ動いているのが見えた。あいつは操縦不能になっている!
僕がそう認識したのと同時に、右旋回中だったMe109は左に突然横転し、弾き飛ばされるように左側に向きを変えた。
「トーマス、チャンスだ!」
ヘッドフォンからノーマンの声が聞こえた。
僕は左に旋回すると、斜めになってフラフラに飛ぶMe109に接近した。
敵は速度を失っている。僕はすぐに追いついた。照準器にその機体を収めると、十分な大きさに見えるまで接近した。
敵は姿勢を戻しつつあったが、速度は依然遅いままだった。敵の翼幅が照準器の光の輪と同じ大きさになったときに僕は機関銃の発射ボタンを押した。
ダダダダダ!
主翼の8挺の機関銃の反動で機体が激しく揺さぶられた。
機関銃の弾丸はMe109の胴体に吸い込まれた。敵の機体はほぼ真後ろを向けていたが、いくつかの破片が飛び散り、命中したのは確かだった。
だが、突然敵機が消えた。
敵のパイロットは操縦桿を前にぐいっと押したようだった。手負いのMe109は突然降下し、スピットファイアの長い機首の下に消えた。
「くそっ!」
僕も操縦桿を押して後を追った。水平線が頭の上に移動し、海面が目の前にせり上がってくる。
遠心力で僕の身体が浮き、縛帯で椅子から吊り下げられた。敵弾を避けるため2回も僕がやった機動だ。まさかドイツ人もやるとは!
左下に敵機の後ろ姿が見えた気がした。スピードがついていてもうかなり離されている。僕も操縦桿を押し続けて、真下から背面へと姿勢を変えた。
もっと加速を…。そうしてスロットルを前に押しつける左手に力を入れているとき、エンジンがドドドと不快な振動を発した。速度も上がらない。Me109はもう見えなくなっていた。
僕は操縦桿を押す手を緩めるとともに、ロールして背面状態を改め、頭上の敵を警戒しながら水平飛行に戻した。スロットルもやや引いた。エンジンは程なく正常に戻った。
「こちらイーグルリーダー。敵は引き上げた。前進基地に戻る」
飛行隊長の声が聞こえた。上下左右、どこを見ても敵はもういなかった。
ノーマンが僕の機の左横に来た。僕は左手を開いて上を向け、「ダメだった」とポーズで示した。ノーマンは右手を振った。「気にすんな」ということか。
前進基地に帰ると、10機で離陸した飛行隊は8機に減っていた。1機は撃墜されたのを飛行隊長が見ていた。もう1機はカミル少尉だった。彼の行方は誰も知らなかった。
飛行隊長が各員からまとめた戦果は撃墜2機、撃破2機だった。撃墜1機は飛行隊長の戦果だった。僕の1機は撃破にカウントされた。
8機のスピットファイアは整備員がただちに点検し、異常がない機体はすぐに弾薬と燃料が補給されることになった。3機ほど被弾した機体があり、そのうち1機は飛行不能と判断された。
燃料車が飛行可能なスピットファイアを1機ずつ回って、整備員が給油作業をやるのを、僕らは飛行場の端の木陰で見ていた。
「トーマス、さっきは惜しかったな」
ノーマンが僕の肩をたたいた。片手には小さい本を持っていて、待ち時間はそれを読んで過ごすらしい。
「ドイツの防弾は見事なもんだな。あれだけ撃ち込んでも逃げられるとは」
「7.7mmではどうにもならないね」
僕が答えるとノーマンも同意した。
「本当にチャンスだと思ったんだが、まさかあんなに早くコントロールを取り戻すとは」
「君は見ていたのかい?」
「すれ違ったときに君の後ろに回って援護についてた」
「それは気がつかなかった」
「持ちつ持たれつだよ。君が撃つときはぼくが援護する。逆のときは援護を頼む」
ノーマンはそう言って笑うと僕の肩をもう一度叩いた。
「しかし君の機動は素晴らしいな」
「何が?」
ノーマンはちょっととぼけた。
「メッサーシュミットの攻撃をかわすだけじゃなく、失速するような機動に引きずり込むとはね」
「なんか、ついてきてくれそうな気がしたんだ」
「気持ちが通じ合ったのか」
「ぼくだったら、絶対食らいついてやる、そういう共感はあったのかな。それから、スピットファイアはメッサーシュミットより旋回性能がいいことを思い出した。スピットファイアに可能な上昇反転は、109がやると失速する」
「計算通りか。君は本当にクレバーだな」
僕は冷やかし半分に言った。
「多分ぼくらと同じような新人だろう。エキスパートなら最初の射撃のあと急降下して離脱する。上昇して格闘戦を挑んだりしない」
「でも僕が逃がしちゃったから、今度空で会うときはエキスパートだろうな」
「そうかもしれないね」
僕とノーマンは肩をすくめた。
「そういえば急降下のとき、エンジンが調子悪くなったんだ」
僕は彼に、敵を追いかけたときのエンジンの不調について話した。
「ああ、それでスピードが出なかったのか」
「君はエンジンの不調がなぜか分かるかい?」
「マーリンエンジンは背面飛行だとキャブレターの不具合が出るんだ。知らなかったのか?」
ノーマンはスピットファイアの弱点を教えてくれた。
「そうなのか」
「座学で習ったと思うけど、忘れた?」
「そうだっけ」
「燃料の流れを調節するキャブレターのフロートが、背面飛行をすると底に貼りついて、ガソリンが大量にエンジンに送り込まれることになるんだ。それでエンジンの出力が落ちる。最悪エンジンが止まるよ」
「どういうことかな?」
「下向きの重力のときは、言わばカップから一口ずつ紅茶を飲んでると思ってもらえばいい」
「うん」
「そのとき、カフェが突然上下逆になったらどうなる」
「紅茶が顔にかかって熱そうだな」
「君のマーリンエンジンが今日、そういう目にあったんだよ」
「うーん。でも、前に敵から逃げるときはなんともなかったよ」
「それは、マイナスGが敵の弾を避ける短時間だけだったからだろう。敵を追いかけるときは長時間マイナスGになったから、燃料が燃えないシリンダーが出てきた」
「そういうことか。わかった。今度は気をつける」
「どのみち急降下する109には追いつかないよ。できるだけ、荷重が下向きで飛べる範囲で、敵を追うようにしよう」
「でも、メッサーシュミットはなぜエンジンが大丈夫だったんだろう」
最後に気になったことを聞いた。
「ジャーマン・ミステリアス・サイエンスさ」
「ミステリアスか」
僕はただ繰り返した。
少し時間が過ぎて、僕が煙草を1本吸い、ノーマンが本のページをいくらか進めた頃、スピットファイアが1機戻ってきた。
手荒い着陸の後、滑走路の端で向きを変え、僕らの飛行隊の駐機スペースにやってきた。そして、エンジンが止まると操縦席からカミル少尉が降りてきた。
「照準器が使えなくなった。おかげで撃墜しそこねたよ」
僕らが彼のもとに集まると、誰に言うでもなく、彼はそう不平を言った。
程なく、整備員が何人か集まって彼の機の点検を始めた。
胴体の国籍マークのあたりに1個目立つ穴が開いていた。
少尉は飛行隊長に状況を報告し、それから機体と十分距離をとって、ポケットから煙草を取り出した。
そこに機体の点検を終えた整備隊の年嵩の中尉が早足で歩いてきた。そして、カミル少尉と向き合うと機体の状況を説明した。
「ドイツの20mm機関砲だ。胴体の後ろ上方から1発飛び込んで、無線機に当たって炸裂した」
少尉は黙って聞いた。
「20mmの破片は反対の胴体に多数の穴を開けて突き抜けた。そのとき、電装系のケーブルを切断し、照準器の表示が消えた。だが、破片のいくつかは操縦席の防弾板が防いで、君を守った」
「それで照準器が死んだのか」
「この状態でまだ敵を落とすつもりでいたのか?」
「弾倉にはまだ実包が残っているはずだ…」
「いいから聞け!」
中尉は少尉の肩を揺すった。
「当たった場所を考えろ。徹甲弾だったら君は今頃生きていない」
「なるほど。状況が分かった。九死に一生を得たわけだ」
「これは神のご加護だ。これからは二度と、神を試すようなことはするな」
「考慮しよう」
口髭の下に、火のついてない煙草をくわえながら、彼は答えた。
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