第4話 スピットファイア
8月4日。今日も3時半に起こされた。明るくなってきた空は見事な晴天だ。
基地では多数の戦闘機が出撃の準備をしていた。基地にいるのは僕らの飛行隊だけではない。スピットファイアとハリケーンを合計すると数十機が翼を並べている。
今日出撃する編成を確認した。僕はまたオレンジ小隊の3番機になった。自分に割り当てられた機体を一回り点検し、左の翼によじ登って操縦席に乗り込んだ。後から登ってきた地上員が縛帯を結ぶのを手伝ってくれた。
「では、お気をつけて」
彼はそう言って、胴体の左側の扉を閉めた。
僕はエンジン始動させた。暖機運転は整備員がもう実施してくれているので程なく出撃できるはずだ。左手でスロットルレバーを前に進め、僕はエンジンの音や振動、計器類から異常がないことを確認した。飛行帽のヘッドフォンから管制塔や飛行隊長の音声が聞こえた。R/Tも異常なし。
左右を確認して手信号を送ると整備員がタイヤの輪止めを紐で引っ張って外した。彼らが三角柱の輪止め2組ー4個を手に持っているのを確認してスロットルを少し開け、ブレーキをリリースした。基地全体にマーリンIIIエンジンの音が響き渡り、多数の戦闘機が夜明けの静けさを打ち破って動き始めた。
飛行隊長の機体がまず動き出し、僕らは列をなして滑走路に進んだ。
地上にいるスピットファイアは主翼の車輪と胴体の尾輪で15度ほど上を向いた姿勢になっている。1030馬力のマーリンエンジンは細長いスマートな機首に収まっているが、地上ではこれが目の前にそびえ立っていて、正面がまったくみえない。
斜めの左右はどうにか見えるから、斜め方向の安全を確認して、その方向に機首を振って進む。ある程度進んだら反対の斜めを確認してそっちへ進む。空中では320mphで飛べる戦闘機も、地上では斜めにヨタヨタ進むアヒル以下の乗り物だ。
地上で機体の向きを左右に変えるのはハンドルがあるわけじゃない。曲がりたい方向のタイヤのブレーキをちょっと踏む。操縦桿やラダーペダルが有効になるのは滑走してスピードがついてからの話。
誘導路を進んでいる間に、最初に発進する飛行隊のハリケーンが次々と離陸を始めた。僕らの小隊が滑走路の端に来たときは朝焼け空がかなり明るくなっていた。小隊長を中心に、左右に2番機、3番機が続いて、滑走路に平行に向きを整えスピットファイアを三角に並べた。そしてエンジンを全開にし、滑走を始めた。
機体はスルスルと加速し、頃合いを見て操縦桿をちょっと押すと頭を上げた姿勢が水平になった。やっと正面が見える! 抵抗が減った機体はさらに加速を続け、十分速度がついたところで操縦桿をゆっくり引くと空に浮かんだ。僕は操縦席の右にあるレバーを操作して脚を上げ、キャノピーの枠を前に引っ張って閉じた。
上昇を続けてゆくと東の地平線から太陽が昇った。
飛行場の上空でゆるく旋回しながら飛行隊ごとに集結し、今日の哨戒任務を受け持つドーバーの沖合を目指し、南東に進路をとった。
飛行隊は11機の編成だった。連日の戦闘で機材もパイロットも足りない。今日はパイロットが都合がつかず、1機のスピットファイアが地上に残った。この合間にじっくり整備してもらえると思う。
「20,000ftまで上昇する。酸素吸入用意」
飛行隊長から簡単な通信が入った。高度は12,000ftを超え、操縦席もだいぶ涼しい風が入ってくる。僕は外した状態で飛行帽の横にぶら下がっていた酸素マスクを装着した。ボンベのコックを開くとマスクのホースから酸素ガスが入ってきた。
7月の攻撃ではJu87急降下爆撃機が盛んに飛んできた。艦隊を攻撃するのは精密な爆撃ができるシュツーカの役割のようだった。海峡を航行する船がいない間は逆ガルの主翼に固定脚という独特の姿は見なかった。精密爆撃が可能でも海峡を渡ってブリテン島を攻撃するには航続距離が足りないのだろう。
ハインケルなど双発の爆撃機はJu87よりずっと高い高度を、より遠くまで飛んだ。そして、それらを護衛するメッサーシュミットはさらに高いところにいた。
僕らは海面より、自分たちの上をより重点的に監視した。
「こちらグリーンリーダー、酸素システムが異常です」
「了解した。基地へ戻れ」
飛行隊長の返信とともに、1機が翼を翻して下を向き高度を下げていった。
高空では酸素吸入がなければ頭が働かなくなる。そして、息苦しいといった自覚症状もなく、突然意識を失う。酸素なしでは戦闘ができないどころか、墜落して命を落とす。
エンジンも酸素不足になる。20,000ftでは地上に比べて半分ぐらいまで出力が落ちてしまう。このために、エンジンにはクランク軸にスーパーチャージャー(過給器)を連結できる。これで薄い空気を圧縮してエンジンに送り込む。各機は酸素の合図の少し前から過給器を動作させていた。
「オレンジスリー、グリーンツーの援護につけ」
飛行隊長は僕に他の小隊に移るよう指示を出した。機数が足りないのでグリーン小隊は小隊長と援護の2番機の2機編成だった。
「トーマス、向こうを頼む」
小隊長も了承した。
僕はオレンジ小隊の3番機のポジションから離れると、単機になったグリーン小隊機に向かった。
「新グリーンリーダー、トーマスが援護します」
「こちらグリーンツー。了解した。後ろは任せた」
その声はノーマンだった。彼のスピットファイアの左横に並ぶと、僕は彼を見て親指を立てた。向こうも同じくこっちを見て親指を立てた。それから左上に指を向けた。僕は少し高度をとって、左後ろから彼の機体を見守る位置についた。
20,000ftまで上がると海峡の向こう、ドイツの占領下にあるフランスが容易に見渡せた。地上はまるで精密な地図のようだ。大陸の上空は薄い雲が見えたが、おおむね欧州はいい天気のようだった。
ドーバーの沖合の海峡でゆるく旋回しながら、僕らは1時間ほど哨戒を続けた。パイロットは互いに死角になる背後を意識しつつ周囲を見渡し、敵の来襲に備えた。特にこんな天気の良い日は、太陽の方向からいつ敵が襲ってくるか分からない。朝はまだ太陽が頭の上まで昇りきってないから少しは安心できる。
この哨戒任務では敵の来襲はなさそうだった。レーダーで敵を探索している管制からも、特に情報は来ていなかった。
ふと、ノーマンの機体がゆらゆら揺れていることに気づいた。なんだろう? 見ているとキャノピーが少し後ろに動いた。それで操縦桿が少し雑に動いて機体が揺れたらしい。少し開いたキャノピーの隙間から、小さい白い紙切れが一つ、後ろに飛んでいった。そしてキャノピーはまた閉じられた。
手紙?
フレッドの葬式で、彼が女の子から手紙を預かったのを思い出した。まさか本当に飛行中に海に投げるとは。でも、この高度で投函すれば、速達で天国に届くだろう。
燃料が減ってきたので飛行隊は哨戒任務を終え、海峡の沿岸に近い前進基地に向かった。西寄りの穏やかな風という情報から、東から前進基地に向かった。各小隊は適度に距離を開けて着陸に備えた。
前進基地の広い平らな草地が見えてきた。草地の隅に幾つかのテントや車両が見える。先に着陸した戦闘機も何機かいた。
ノーマンと僕は編隊で草地の上を飛び抜け、まずノーマン。少しおいてから僕が、機体を左に傾けて旋回に入った。
きつめの旋回をして、翼端から白い筋が出るのを見た。旋回はエネルギーを使うから、180度向きが変わったときには機体の速度が落ちていた。
飛行場の滑走路と平行に、こんどは追い風になって進んだ。機体は速度と高度を下げてゆき、僕は脚とフラップを降ろした。ドスンドスンとちょっとした揺れとともに脚が降り、計器盤の赤いランプが消えて緑のランプが点いた。
フラップは主翼の付け根の後ろにある可動部分。スピットファイアはスプリットフラップといって、翼の下面だけが下に折れて下がる。操縦席からは降りたかどうか直接は見えない。主翼の上にフラップに連動する突起が出ることで確認はできる。
スピットファイアの失速速度は96mph(154km/n)。これより低い速度で飛ぶことはできない。フラップを下げると、これが93mph(150kmh/)と、ちょっとだけ低くなる。
速さだけならわずかの違いだけど、着陸するときは下り坂を降りるようなものだから、フラップがないと十分速度を落とすのが難しい。スピットファイアは空気抵抗がとても少ない。フラップを下ろすと、滑走路にアプローチするスピードをうまくコントロールできる。
ふと左を見ると、先に旋回したノーマン機が滑走路の端に達していた。僕も機体を旋回させ、滑走路が正面に見える位置についた。今日は特に横風もなく、着陸は難しくない。ノーマン機が着陸し、滑走路の端まで進むのが見えた。
滑走路は徐々に近づいてきて、機体は飛行場の端を超えた。もう脚のタイヤが地面まで数フィートという頃合いで僕は操縦桿を引いた。機体は失速し、頭を上げた姿勢で揚力を失ってストンと着陸した。今回は今までの着陸の中でベストな部類に入ると、ちょっと僕はほくそ笑んだ。
それから、再び正面が見えなくなった機体を、よたよたと走らせて駐機スペースに向かった。
午後の発進はいくらか慌ただしかった。部隊の編成は午前中の任務を継承していた。ノーマンがグリーン小隊の小隊長を務め、僕はその2番機。
「ハロー、管制。ハロー、管制。イーグルリーダーより送信。受信できていますか? 受信できていますか? どうぞ」
飛行隊長が管制に連絡した。確実を期すため同じことを繰り返し言う。「イーグル」は僕らの飛行隊のコールサイン。。
「ハロー、イーグルリーダー、管制より問う。管制より問う。明瞭に受信しているか? 明瞭に受信しているか? イーグルリーダー、受信しているか? どうぞ」
「ハロー、管制。ハロー、管制。イーグルリーダーより返信。受信は明瞭、受信は明瞭。イーグル飛行隊は全機離陸した。我々は全機離陸した。イーグルリーダーは送信をそちらに渡す。以後も受信を継続する」
管制から返信が来て、飛行隊長がそれに答えた。管制との通信は問題ない。これでレーダー基地からの情報が敵の方位と高度を教えてくれる。以後はしばらく無線が途絶えた。R/Tの交信は暗号化されていないから、敵に傍受される可能性が高い。ときにはこちらの受信機がドイツ語の交信を拾うこともある。
朝一と同様に飛行隊はドーバーの沖合に向かった。
「15,000ftまで上昇せよ。バンディット(敵機)は北方より接近中」
しばらくして管制から連絡が来た。いよいよ交戦だ。
すでに酸素マスクと過給器の準備を終えた僕らはエンジンを全開にして高度をとった。
「25,000ftまで上がる」
飛行隊長は管制の指示よりさらに高い高度を指示した。敵に上から襲いかかれば速度で優位になる。低ければ逆に不利だ。時間がある限り高度を確保しなければならない。
上昇を続けながら、僕は操縦桿の頂部にある機関銃発射ボタンのカバーを開け反対に倒した。
スピットファイアの操縦桿は足の間の床から上に伸びる1本の棒で、その上に少し縦長のフープがついている。操縦桿は根本から前後に動いて昇降舵を、フープを左右に倒して補助翼を操作する。機関銃の発射ボタンはフープの左上にある。右手の親指で押しやすい位置だし、左手でも押せる。僕は発射ボタンがむき出しになったのを確認し、ボタンを囲むセーフティリングを発射の位置に回した。これでボタンを押せばいつでも機関銃を発射できる。
「バンディットは高度20,000ft。イーグル小隊より北方にいる。その場で旋回しつつ注視せよ」
海峡も半ば以上東に進み、フランスに近いところまで来て飛行隊は緩い旋回に入った。管制の情報では敵は北にいる。それを信じる限り、南の太陽の方向から襲われる可能性は低そうだ。
「バンディット発見。10時の方向」
飛行隊の誰かが敵を発見した。10時とは、進行方向に対する相対的な方位を示す。上から平らに時計の文字板を置き、機首を0時としてどの時刻の方向に敵がいるかということ。「10時」は左方向で、真横よりやや前だ。
僕は目を凝らして左の方向を見た。地平線のあたりの空に黒い点がいくつか見えた。下の方にも黒い点が見えるようになった。
飛行隊は全力で上昇したが、敵機は僕らよりさらに上にもいた。あいつらには気をつけないといけない。一方で、左下に見える高度の低い敵機はよりはっきり見えるようになってきた。お互い反対方向に飛んでいるのでかなりの速度で近づいているらしい。
下方の敵はこちらに気づいているのだろうか? 敵は進路を変えず、2,3マイルほどの距離でスピットファイアとすれ違いつつある。
「タリホー!」
このとき、ヘッドフォンに飛行隊長の声が響いた。「タリホー」はキツネ狩りで使う言葉で、獲物が出たときに猟犬を放つ合図だ。戦闘機の迎撃戦では攻撃開始の合図になる。
飛行隊の11機は手のひらを広げるように散開し、それぞれ左に翼を傾けるとともに機首を下げた。
下を向いて重力を味方につけた機体は加速を開始した。
僕とノーマンも、左下ですれ違いつつある敵機に向かって降下した。
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