第10話 飛行機雲

 8月24日。何日か悪天候が続いた。曇天は気分がいいものじゃないけど、英国では珍しい天気ではない。むしろ僕らは、その間にいくらか英気を養うことができた。スピットファイアも整備が行き届き、数日ぶりの敵の来襲に対し飛行隊の12機は順調に離陸した。

 管制は英国の東方、カーンからブルージュの間で数十機の敵が飛行中であることを伝えてきていた。敵はフランスからベルギーの上空で旋回しており、英国への攻撃のために編隊を組む途中なのか、それとも違う目的で飛んでいるのか、どうも判然としなかった。基地で要請を受けて最初に離陸した僕らは、あまり長くないスピットファイアの飛行時間の間に、敵と遭遇できるよう祈りながら飛んだ。


 8月の14日から、敵は戦術を変えてきていた。最初は、海峡の艦隊や沿岸の軍事拠点を狙い襲撃し、迎撃に上がった英軍機を上空で待機していた戦闘機が襲った。戦闘機を誘い出して殲滅し、上陸作戦決行までに英軍の航空戦力をすり潰すのが狙いのように感じられた。

 しかし、8月12日、13日と大規模な空襲が2日続いた後は、少数の爆撃機が戦闘機の基地を直接攻撃するようになった。いつになっても減らない迎撃機に焦りを感じたのか、戦闘機が基地にいる間に破壊しようという意図が推測された。あるいは基地そのものを破壊して飛行機の離着陸をできなくし、可能ならパイロットや地上員も抹殺したいのだろう。

 夜間の爆撃も多く行われるようになった。休息を与えられてロンドンに遊びに行ったとき、ホテルで寝ていると爆撃機の音で目が覚めた。ゴウゴウとうなる音は暫くの間続き、不安になった人々が廊下で話し合う声も聞こえた。爆撃機による損害は大したことはなかったが、眠る時間を奪われた兵士や工場の労働者にはいい迷惑だった。夜間は灯火管制が行われ、ロンドンではせっかくの夕食もカーテンを閉めた食堂で、ロウソクのかすかな灯りのもと黙々と口に入れた。


「グリーン小隊とオレンジ小隊は今のうちにできるだけ高度をとれ。上空から襲ってくる109をさらにその上から襲え」

 飛行隊長の指示があり、僕らの小隊は機首をいったん北に向け上昇した。よく使う10,000ftから25,000ftの高度を通過し、さらに上を目指した。30,000ftに近づくとエンジンは明らかに馬力が下がり、高度をとるのに時間がかかるようになった。

 頭の上は黒々とした空が広がり、その中ほどで太陽が眩ゆく輝いていた。眼下は地球の丸みが明らかに見てとれた。大ブリテン島は巨大な地図のように見え、海峡の先の大陸も、大西洋も、アイルランドも見渡すことができた。

 操縦席は空気が冷え切って、身体から蒸発した水分がキャノピーガラスの隅で霜になって凍った。気圧が下がったためかエンジンの音は静かで、酸素マスクで呼吸する自分の身体の音だけが絶え間なく聞こえた。

 足元は確かに寒いが、頭の上からは真夏の太陽が容赦なく照りつけ、飛行帽は焼けるような熱さになった。寒さと熱さのはざまで僕は奇妙な気持ちでいた。

 31,000ftまで昇ったところで高度をとることはほぼ不可能になった。エンジンを全開にし、操縦桿を引いていないと水平飛行もままならない。

「90度の方向から20,000ft、130度の方向から28,000ftで敵が接近しています」

 管制からの情報は敵機の来襲を報告した。

「南に向かう。飛行機雲は出てないな?」

 上昇を続けながらゆるく旋回し、機首が西を向いていたときに小隊長が問いかけた。僕は後ろを振り向いた

「雲を引いてます」

 僕らの機体からやや離れた後方を、細長い白い筋が追いかけてきていた。飛行機雲だ。ガソリンが燃焼したときにできる水蒸気が、空気に冷やされて凝結して雲になる。天気によっては雲はできないが、今日はそういう天気ではなかった。

「分かった。ならこちらも敵を見つけやすいだろう」

 小隊長は特にがっかりする様子もなく返信した。 

「『ハン』の飛行機雲を探せ」

 旋回は続き、南向きになったときに直進に変えた。大ブリテン島はゆっくりと移動し、今は英仏海峡が真下に来ていた。僕らは左の東方向を中心に敵を探した。

 28,000ftの敵はおそらく、爆撃機を襲う戦闘機を上から攻撃するつもりだろう。今日はそれより上に僕らがいる。今度はスピットファイアが太陽から飛び出すんだ。

 僕は燃料計を見て、ここまで昇る間に燃料を半分も費やしていたことに気づいた。これから空中戦になったとして、そんなに長くは戦えない。もっとも、これだけの高度があれば、燃料が切れても英国のどこへだって行けそうな気がした。


 大地と、海と、綿雲をはるか下に見て飛ぶ僕らは、まるでこの世ではない世界にいるような気がした。地上は巨大な模型で、僕らはそれを上から眺めてる。

「9時の方向、飛行機雲が見えます。おそらく109。8機ほどでしょうか」

 ノーマンが無線で伝えてきた。言われた方向を見ると、地平線のやや下に白い雲の筋が見えた。

「視認した。向こうも気づいているようだな」

 敵の航跡は僕らと平行しており、こちらと距離を置いて通過して英国に向かうように見えた。

「ゆっくり後ろに回り込む」

 小隊長の声に僕らは従った。小隊長は進路を徐々に東に変え、109が残した飛行機雲に近づいた。雲は僕らの高さより1,000ftほど下にあるようだった。

 航跡をたどると、北方で左にゆるく曲がり、敵機が僕らを避けるように向きを変えつつあることが分かった。敵も僕らに気づいている。

 空気が薄いため、急な旋回はできない。ゆっくり、ゆっくりと向きを変えながら、僕らのスピットファイアの6機と、メッサーシュミットの8機は互いに近づき、空に大きい渦巻きを描くように飛んだ。

 まだスピットファイアの方が多少高度が高かった。109が直進に移れば、こちらは加速して飛びかかる用意はできていた。

 飛行機雲の螺旋は半径がだいぶ小さくなり、109の機体が視認できるようになった。風防ガラスが時々キラっと光った。109の風防やキャノピーは平面ガラスだから、一瞬だけキラっと光る。スピットファイアの丸みのあるキャノピーは常に小さく太陽を反射している。どちらが戦場では有利なのだろう。

 やがてこちらの編隊が太陽の側に回ったとき、小隊長が声を発した。

「降下して速度を乗せて襲いかかる。タリホー!」

 言うが早いか、小隊長は左に鋭くロールをすると機体を降下に入れた。すかさず僕らも続いた。

 敵も同時に反応した。同じように左に急旋回し、高度を落としつつ加速を開始した。

 僕らは互いにすり鉢の底に落ち込むように降下し、速度を上げながら近づいた。

 敵は機首をまっすぐこちらに向けるように飛び、僕らは敵の機関銃の射線に乗らないように左横をすれ違うように進んだ。結果として、互いに左方向に見える敵を目指し、僕らはぐるぐると小さい旋回をした。僕らの螺旋は小さく、速く、下へと落ち込むように編み込まれていった。

 そして敵味方の距離は限界に達し、スピットファイと109は互いに左に見ながらすれ違った。

「上昇して反転しろ、『ハン』の後ろにつく!」

 小隊長のスピットファイアは左旋回を緩めると上昇に転じ、速度を殺して小さく回った。僕らもそれにどうにか追いつこうと上昇し、速度が下がった頃合いを見て旋回した。

 109は高度を下げて突っ込むと、勢いがついたまま左旋回し、同時に上昇に転じた。上昇反転から降下に移った僕らは、また互いにすれ違うルートに乗った。

 そして、再度操縦桿を引きつつ左に鋭く回ると、上昇姿勢にある109の後ろ上方にうまく位置をとることができた。

 先頭の小隊長がもっとも鋭く動き、まるで敵の動きを予測していたかのように無駄のない動きをして、すれ違いざまに敵の背後をとった。

 遅れて同じように敵の背後を狙おうとした僕は、目指す敵から距離を相当離されて、それでようやく敵の後ろに回った。

「小隊長、背後に敵はいません」

 ノーマンが抜かりなく見張りを行い、結果を報告した。

 僕も慌てて周囲を見回し、小隊長と、ノーマンと、そして僕自身を追う敵がいないかを確認した。

 特に背後に敵がいないのが分かり、小隊長の方を見ると、スピットファイアが機関銃を一連射し、109は白煙を引いて高度を落とした。

「トーマス、上だ!」

 ノーマンの声に、僕ははっとして頭上を見た。

 太陽を小さい影がよぎった気がした。

 僕はラダーペダルを荒く踏んで機体を大きく横滑りさせると、続いて操縦桿を倒して急旋回を行った。曳光弾が胴体スレスレを通って行った。

 機体を一回転ロールさせた僕は、曳光弾を追って降下しすり抜けていく109の後を追った。操縦桿を前に押すとエンジンが息をついてしまうので、機体を真横に倒して揚力を殺し降下に入れた。敵との距離は500ヤードは離れたかもしれない。

 機体を完全に垂直の降下に入れると、スピットファイアの速度は450mphを超え、僕よりいくらか浅い角度で降りる109の速度をすぐに超えた。

 僕は速度がついてから、風圧で床に固く固定された操縦桿を渾身の力を込めて引いた。降下の角度を緩めた機体は敵の腹の下めがけて突進した。

 興奮していた僕は敵に機体をぶつけるつもりで接近し、照準器を満足に確認しないまま機関銃を連射した。

 死角から襲われた敵は8挺の機関銃の弾丸を全身に浴び、いつか見たのと同じように主翼が折れて吹き飛び、くるくる回りながら落下していった。

 ぶつかるはずだったぼくの機体はギリギリで敵の脇を抜け、強烈な遠心力とともに降下角を緩めるとやがて水平飛行に移った。

 高度はもう6,000ftまで下がっていた。

 操縦桿が自在に操れる速度になってから、頭上や背後を確認し、既に空戦が行われている領域から離れていることを悟った。

 僕の2機目の撃墜戦果は確実な撃墜と言えた。正確には、爆撃機を3機で撃墜したから、僕のスコアは2と1/3機になった。

 興奮が醒めてくると、全身が汗でぐっしょりと濡れていることに気がついた。この高度では操縦席に入ってくる風がちょうどいい涼しさだった。

 ふと上空を見ると、青空に幾筋も飛行機雲が見えた。無数にのたうち回る雲の筋に僕は「狂気の空」と名前をつけた。僕が絵描きなら絶対この光景を、ばかでかい絵にする。

 それは、血気盛んな男たちが命賭けで空に描いた、最高に頭のおかしい芸術だった。

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