第9話 埋葬
私は、お母さんと並んで馬車の荷台に座り、夏の空を流れてゆく綿雲を見ていた。
御者は町外れに畑を持っている農家のおじさん。その隣にお父さんが、正装をして座っていた。そして、おじさんと話をしていた。私たちも、ある程度フォーマルな感じの、そしてできるだけ地味な服を選んだ。お母さんが日傘をさしてくれた。
馬車は肥料や作物を運ぶためのもので、今日はおじさんがきれいなシーツを持ってきていて、麦わらの上にかけて椅子を作ってくれた。お母さんと私はお父さんたちと背中合わせに座って、そよぐ風の中景色を眺めていた。
馬車はのんびりと進み、目的地には1時間ほどかかるということだった。
夏休みの少し前に戦争が始まり、夏休みになったら終わるどころかますます激しくなった。8月も毎日のように早朝から戦闘機が飛び、夜暗くなる頃ようやく基地が静かになった。
8月の中旬からは特に飛行機の音はうるさく、聞き慣れた英軍機だけでなく、ドイツの軍用機もたくさん町の上を飛んだ。最初は軍港のあるポーツマスの方が狙われていて、その途中で町の上を飛行機が通過していった。けれど、ここ数日は町の上を低空で爆撃機が飛ぶようになった。
飛行場からはバリバリと対空機関銃の音が鳴り、爆撃機が落とした爆弾の音はズーンと町中に響いた。そのすぐ後は、蜂の巣をつついたように基地の方から戦闘機のエンジンの音ががなりだし、何機も離陸していった。爆撃機はワウンワウンと唸るような不気味な音で飛んでいった。やがて雷かと思うような音が響いた。戦闘機が銃撃している音だと後で教わった。
そんなときは、外に出るなと大人から言われた。だけど、家の中にいて爆弾や飛行機が落ちてきたら、それも助からない。台所の奥の裏口に近いところで、ひんやりとした壁の隅で耳をふさいでうずくまり、私は憂鬱な気分で飛行機の音が去るのを待った。
爆撃機はたまに夜飛んでくることもあり、初めてそのエンジンの音で目が覚めた私は、怖くなってお父さんたちの寝室に逃げ込んだ。その日から夜は不用意に灯りをつけることができなくなった。
7月の間は戦争といっても命の危険というのは特に感じなかった。しかし、8月は何が起こるか分からない不安をいつも感じていた。
爆撃機が基地を攻撃するようになった最初の日に、ドイツの爆撃機が1機、町外れに墜落した。迎撃に上がったスピットファイアに撃墜されたと聞かされた。
飛行機なんて特に興味はなかったのに、町の人がみんな基地で戦う飛行機の話をするものだから、私にもスピットファイアとハリケーンの見分けがつくようになってしまった。もちろん、ローザは私より早くそれを覚えていた。
――我々はお宅の鍋やフライパンを、スピットファイアやハリケーンにします――
この新聞に出ていた文章も、最初に読んだときはなんのことか分からなかった。今では、それが飛行機の名前であることはもちろん、工場で製造するためのアルミニウムが足りないこと、市民から供出を求めていることも理解できた。私の家も穴が空いて使えなくなった鍋を差し出した。
私は脇においた白いカーネーションの花を眺めた。花屋さんに頼んでおいて今朝私が預かってきたお花。
遠くでエンジンの音が聞こえた。その音は徐々に大きくなり、綿雲の間をゆっくり昇っていった。3機ずつ編隊を組んで、6機が飛んでいった。
「スピットファイアだ」
楕円形の、先が尖った翼を見て私は呟いた。
麦刈りが終わった後の畑に、広い範囲で焼け焦げた跡が残っていた。畑の端にはクシャクシャになった金属の残骸が、乱暴に積み上げられていた。残骸は黒く焦げていて、油の臭いがまだ漂っていた。
「エンジンは深く埋まっているっていうんで、掘り出すのはあきらめました」
畑の端に立って、おじさんは指差しながら教えてくれた。その先に穴が空いているように見える。
「それから、4人のドイツ兵はあそこです」
畑と道を挟んで反対の、小川の脇の草地に、新しい土くれが4個並び。板を組み合わせた簡素な十字架が建てられていた。その前には数本ずつ花が供えられていたが、昨日供えたものらしく、しおれていた。
お父さんは上着をただし新しいお墓の前に立つと、聖書と十字架を手にお祈りを始めた。
ハンス、オットー、ミヒャエル、エーリッヒ。お父さんは4人の名前を呼び、魂を鎮めるための言葉を続けた。
爆撃機に乗っていた4人の名前は、昨日までにお父さんが警察からリストをもらっていた。警察が現場検証を一通りやってから、遺体から認識票だけ回収していったそう。戦争で死ぬと、人は名前や番号が刻まれた金属片が本体になってしまうのだろうか。ふとそんなことを考えた。
彼らの名前のドイツ語での読み方はお父さんに教えてもらった。天使様も国によってこうも違う呼び名になるのかと思った。でも、聖書はももともと英語で書かれたものではないことを思い出した。
お父さんはそれぞれのお墓の前に立ち、改めて一人ひとりに祈りをささげた。どの土くれが誰なのかは、私達にも、おじさんにも、そして警察にも、もう誰にも分からなかった。
お母さんと私はその後に続き、白いカーネーションを1輪ずつ、ひざまずいて供えた。おじさんも私達の後から、オレンジのユリの花を供えた。同じような花が畑の脇に生えていて、そのなかの4輪かなと思った。
「先生、ありがとうございます。この人たちも迷うことなくあの世に行けるでしょう。私も幽霊に邪魔されずに麦を植えられるようになります」
おじさんは感謝の言葉とともにお父さんの手を取った。
「うちのせがれも海軍にいるんで、他人事じゃありません。今はまだ先生のお世話にならなくて大丈夫でいます。戦争はいつまで続くんでしょうね」
そしておじさんは目を細めて空を見上げた。目の端に皺が深く刻まれていた。
おじさんが帰りの馬車を準備してると、自動車が1台やってきて、道端に止まった。
「右ハンドルというのは合理的ではないな。シフトレバーは右手で操作するものだよ」
運転席から無精髭の男の人が降りてきて不平を漏らした。RAFの制服を着ていて、見覚えがある。ポーランド人のカミルさんだ。
「少尉、運転の腕前は分かりましたが、もっと左を走ってください。ここは大陸じゃないんです」
「こんな田舎道、対向車なんか来ないじゃないか」
「それはそうですが…」
助手席と後部座席から若い人も出てきた。助手席から降りたのは黒髪のトーマス。後部座席から折り曲げた身体を伸ばしながら出てきたのはノーマンだ。
「牧師さん、こちらにいらしていたんですか?」
カミルさんが丁寧な声でお父さんに呼びかけた。
「今、お祈りを捧げたところです」
「それはありがとうございます。私達も、墜落した飛行機のことが気になって、やっと休みが取れたので車を借りてここまで来ました」
「それは大変でしたね」
「この飛行機は僕らが撃墜したんだ」
トーマスが口を挟んだ。お父さんは飛行機の残骸に目をやり、少し戸惑った顔をした。
「任務ですから、自分がやられるか敵を落とすかという戦いですけど、でも、こう近くに遺体があると聞くと、居心地がなんだか悪いもんです」
ノーマンが説明を足した。
「正直に言います。私が撃ち落とし、4人、かな。彼らの命を奪いました」
カミルさんはお父さんにそう話し、帽子をとって胸元に置いた。無精髭は今日も顔の左右だけ剃った形跡があった。また少しカミソリ負けしてる。
「これは戦争です。お互い武器を手に戦っています。あなたが気に病む必要はありません。あなた方の働きで、もっと多くの人が命を落とさずにすんだのです。ですが、死者に敵も味方もありません。その魂に花を手向けることは尊いことです」
カミルさんは黙って4人の墓の前に行くと、一人ひとりに対しひざまずいて花を供え、手を合わせてお祈りをした。花は白いペチュニア。基地の花壇からとってきたとトーマスが小声で教えてくれた。
若い二人もその後ろに立ち手を合わせた。
「あなた達がこの爆撃機を撃墜したんですか?」
献花が終わってから、おじさんが感心したような口調で話しかけてきた。
「ご主人、畑を台無しにしてしまい申し訳ない」
「いえ、先生のおっしゃる通りですよ。爆撃機を落とすことで犠牲はわずかな敵兵だけで済んだ。畑も収穫の後でしたし、あの残骸だけかたしてもらえれば特に問題ないです。そうだな、オイル臭い麦がもしできてしまったら、スコットランドに運んでウイスキーにでもしてもらいましょう」
そしてカミルさんに握手を求めた。
「そのときは一杯やりましょう」
「喜んで」
口元に少し笑みをうかべてカミルさんは応えた。でも、目は少しも笑っていなかった。
3人の空軍の人たちは自動車で走り去った。私たちはまた馬車に揺られて家路についた。
一時間ほどかけて教会まで戻ると、空軍の自動車が教会の横の道に駐めてあった。
墓地を見ると何人か集まっっていた。特に男の子が多くいて、その中心でノーマンとトーマスが話をしていた。両手を動かして、空中戦の様子を説明しているようだった。あの辺りはフレッドのお墓がある。この様子をローザに伝えるべきか少し悩んだ。
それより、カミルさんはどこだろうと、あたりを見回した。そして、フレッドのお葬式の後どこにいたかを思い出し、教会に入った。
石造りの少しひんやりとした教会は、質素な作りだけど、ステンドグラスから色づいた光がわずかに差している。その薄暗い中で、カミルさんは床にひざまずいてお祈りをしていた。こちらからは顔は見えないけれど、その背中から、きっと真剣な表情だろうと想像できた。
扉が閉まる音に気づいたのか、カミルさんはこちらを向いて微笑んだ。私はそばに寄り、床に置かれた写真を覗いた。きれいな奥さんがとても可愛い女の子と並んでいる。男の赤ちゃんは不思議そうにこちらを見ている。
「久しぶりに、ここに来られました」
フレッドの葬式以来、また来ると言っていたけれど、本当に来たのは今日がはじめてだった。
「ご家族とは遠く離れてしまい大変ですね」
私がそう話すと、
「いや」
カミルさんは目を閉じてそっと首を振った。そして、祭壇の十字架を指差した。
「みんなここにいる」
「え?」
祭壇を見つめて何秒かかかり、やっとその意味が分かった。
「今日は久しぶりに家族と会うことができて、本当によかった」
「そんな、まさか…」
「私達が戦っている相手は、そういう敵なのです」
静かに、カミルさんは語った。
「それでこの国まで来て戦闘機に…」
「私はパイロットだった。だから今はスピットファイアの部隊にいて、ドイツと戦う。それだけです」
「あなたが戦うことは、私達の国を守ってくださっているということでもあります」
私はこの人が撃墜した爆撃機のことを思い出しながらそう話した。私が台所で小さく怯えている間、この人は空を飛び、侵略者を撃退してくれた。
「結果的にそうなっているようだね。実のところは、私はドイツ軍の飛行機を落とすことができれば、英国を守れるかどうかは、もうどうでもいいことなんだが」
謙遜なのかどうか、不思議な応えが返された。
「いえ、あなたが戦ってくれることで、多くの人の命が救われています」
「それは、英国が私たちに戦う翼を用意してくれたからです。祖国ではそんな武器さえありませんでした。家族の命が危機にさらされているとき、私には何もできなかったんです」
カミルさんの訴えに私は返す言葉をなくした。
「それでも意地汚く生き残り、チャンスをどうにか掴んだんです。いえ、不思議と、死ぬ機会がなかった、かな。そしてここまで逃げ延び、ついにドイツとまともに戦えるようになった」
床に置いた写真を手にとり、立ち上がりながらカミルさんは話を続けた。
「そして、もうけっこうな数の戦果を上げられた。ようやくです。ようやく、ドイツ人に勝つことができた。亡くした家族の数より多くのドイツ人を生贄にできた。だからもう、いつ家族のところに行ってもいい…」
「そんなことを言わないでください。これは戦争なんです」
私は反射的にそう言ってしまった。
「生きてドイツ人をもっと殺せと」
冷酷な言葉が帰ってきた。
「いえ、そんな…、結果的にはそうかもですが。でも、戦争ではみんな、死にたくなくても死ぬんです。そんなとき、自分から死を望むようなことを言わないでください」
「ごめん。お嬢さん。私は死にたいわけではないんだ。だけど、私は個人的な恨みでドイツと戦っている。私に戦えと命じる祖国はもうないんです。私はドイツ人が憎くて、それで戦い、殺しているのです。あの爆撃機も、不時着か、脱出して生き残る可能性があったのに、私はそれを撃墜しました。黙って見過ごせば死ななくていい命を、私はこの手で奪ったのです」
教会の椅子によりかかりながら、カミルさんは自分の両手を見つめた。
「でも、その人達が必ず生き延びることができたなんて、誰にも分からないでしょう?」
飛行機のことはよく分からないけれど、「不時着」や「脱出」が100%安全なものではないことはなんとなく分かるので、そう私は返した。
「だが、生き延びることができるという希望を、私は奪った。そういう希望を抱いている敵が許せず、私は発射ボタンを押した…」
祭壇の前に、重い空気が流れた。
少しして、カミルさんは写真を手帳に挟み、胸にしまった。
「お嬢さん、悪かったね。ひどいことを言ってしまった。ただ、命のある限りドイツと戦うことが、残された私の生きる意味そのものなのです」
「私は、あなたに死なないでいてほしいです。ご家族も、きっとそう望んでいると思います。生贄など、だれも望んでいません。ここまで生きてきた、あなたが生きているそのことが、皆さんが望まれていることだと思います」
「あなたがそう言うなら、主もそうお望みなのだろう」
カミルさんは私に微笑んでそう言い、歩きだした。
「いえ、これはただ私個人の…」
「できるだけ、死なないようにしてみるよ」
カミルさんはそう残して、教会を出ていった。
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