20 轢きつ轢かれつ
すごい衝撃だった。
間違いなく、今までの人生で最大の衝撃だ。
そして、人生最後の衝撃でもあった。
何せ俺は――幽霊になってしまったのだから!
「くっそー、何してくれてんだよ、あのジジイ……。死んじゃったじゃん、俺。まだ四十になったばっかりだし、やりたいこともたくさんあったのによ」
黒い小型乗用車と商用ビルの壁の間で押し潰された自分の
会社帰り。
最寄り駅前の繁華街に向かう途中だった。
三歳年下の妻が高校の同窓会とやらで家にいなく、「帰りは何か食べて来て」というので、お気に入りの居酒屋で夕飯を済ませるつもりだったのだ。
――おでんを肴に熱燗だな。
そんな思いとともに辿り着いた、スクランブル交差点。
横断歩道を斜め向かいに渡れば、目的の居酒屋はもうすぐだった。
信号が青に変わったのを合図にゼブラゾーンを渡り始めた俺を、赤信号を無視して突っ込んできた小型乗用車が引き摺るような格好で轢いたのである。
車にぶつかる寸前。
運転席に座る見知らぬ老人――くそジジイの姿が、はっきりと見えた。少し、にやけていたような気もする。
あいつのせいで、俺はこんなことに――。
幽霊となって握りこぶしを固めたこの俺に、声を掛けてきた者がいた。
紛れもなく、先ほど見た『くそジジイ』その人である。
「やあ、すまんすまん。だが、わしも死んじゃったから、お
「な、何がお相子だよ! 俺の一方的負けだよ!!」
俺を轢いたジジイも、あの時の勢いのまま壁にぶつかったせいで車が潰れ、どうやらそのまま死んでしまったらしい。俺同様に、幽霊となっている。
だが……そうだとしても、だ。
どう考えたって、俺の一人負けである。
彼の生前からの自慢らしい、やけに目立つその白い歯に無性に腹が立った。
「ジジイ、殺してやる!」
と、相手の首を絞めにかかった俺だったが、「あ、もう死んでるか」と自分にツッコミを入れた、その隙だった。爺さんが、きらりと光る白い歯を見せびらかしながら、にこやかな笑顔とともにこう云い放ったのだ。
「で、すまんが、わしを天国まで連れていってくれんかの?」
「はあ? 何云ってるんだよ。あんた、加害者だろ。被害者は俺なんだから、あんたが俺を連れてってくれよ」
見渡せば、いつの間にやら「天国はこちら ⇒」という案内板があちらこちらに置かれているではないか。どうやら、死人にしか見えない案内板を辿っていくと天国に着く――そういったシステムらしい。
天国に行くのにも自力で歩かねばならないなんて、生きるも死ぬも大変なんだな。
なんて思っていると、急に気色ばんだ老人が、俺に向かって力説を始めた。
「あんたこそ、何云っとるんじゃ。よく見てみろ、わしはこんなに足が悪いんじゃぞ。しかも視力も弱ってるから、天国の案内看板の文字がよく見えん。そんな老人を置いて一人だけ天国に行こうというのか? この人でなしッ!」
「この、くそジジイめ……人でなしに人でなしなどと云われたくないわッ! ……って、俺たち二人、もう゛人゛じゃないけどな」
「そりゃそうじゃな。こりゃ、あんたに一本取られたわ。ふぁっふぁっふぁっ」
この世――生きてる人間からすればあの世――には、杖というものはないらしい。
人でなしの、もう人ではないジジイが、びっこをひきひき苦しそうに歩いている。しかし、そんな覚束ない足と眼で普通の自動車を運転するなんて、それこそ殺人行為じゃないのか?
そう考えると、えらく腹が立った。
腹は立ったが、こんな老人を見捨ててしまうわけにもいかないという気持ちも、確かにあった。
「仕方ないな……俺の肩につかまれ。一緒に行こう」
「悪いな。助かる」
爺さんを支えながら、俺は思った。
なぜ、天国とか地獄は死んだときの年齢の姿なのだろう、と。
死んだら皆、二十歳くらいの容姿や能力に統一されたなら、それこそ天国は『パラダイス』だろうに。
それに、誰かが亡くなったときに「お迎えが来た」とかよく云うだろう?
だったら、こうして歩いていたら、神様か仏様か、とにかく偉い誰かのツケで料金を払ってもらえるようなタクシーが「送迎」のランプを点け、颯爽と迎えに来てくれてもいいだろうに!
でも現実は、甘くなかった。
俺は足の悪い爺さんとともに、照り付ける太陽の下、ひたすら看板の矢印を頼りに歩き続けたのである。
☆
そんなこんなで、歩き始めてから半日ほどたったころだった。
文句たらたらで、それでも何とか歩いていた爺さんが「わしは、もう歩けん」と駄々をこねたかと思うと、急にその動きをぴたりと止めてしまったのである。
道路脇に座り込み、てこでも動かないという姿勢を見せる、くそジジイ。
――仕方ねぇな。
自分の人の好さに恨めしさを感じつつ、爺さんをおんぶして歩く。
それから更に、数時間後とのことだった。
ついに、爺さんとの二人旅にも終わりの時が来たのである。
大きな道路を挟んで、向こう側。
十階建てのビルほどの高さはあろうかという大きな門が、忽然と現れたのだ。
両開きの重そうな扉の上にあって、一際目立つ大きな看板。そこに、爺さんの眼でも見えるであろう大きな文字で『天国』と書かれている。
一日程度の歩き旅で辿り着けるだなんて……。
天国って、意外と人間に近い存在なのかもしれない。
「さあ、着いたぜ。目の前の横断歩道を渡ってあの門をくぐれば、天国だ。あとは自分で歩けるだろ?」
「そんな、殺生な! ここまできて見放すなんて、なんて冷たい奴じゃ……。この人でなしの、ろくでなしの、女に捨てられちゃう甲斐性なし!」
「ふん、どうとでも云え……ていうか、いま、関係ないことまで云わなかったか? まあ、いい……。とにかく、ここまで連れてきてやったことに感謝するんだな。あばよ、爺さん!」
背後で、何やらとんでもない言葉を使って俺を罵倒している老人の声が聞こえる。
が、俺はそれを無視することにした。いい気味だ!
横断歩道を、天国に向かってすたすたと快活に歩き出した、俺。
――しかし、やけに広い通りだな。
下界にその名も轟く、かの有名な『天国』の入り口前の通りなのだ。こんな片道四車線程度の広さを持つ道路があったところで、特に不思議ではない。
なんてことを考えながら進んでいると、かの老人の、まるで金属板をノコギリでひいたかのような、甲高く聞き苦しい悲鳴が聞こえたのである。
本当は、振り向きたくはなかった。
そんな声など無視して、前に進みたかった。
だって、生きているときに夢にまで見た『天国』はすぐ目前なのだし、悲鳴をあげた爺さんは俺を殺した超本人なのだし……。しかし、死してなお、魂の中に宿っているらしいちっぽけな良心が、それを許さなかった。
頭を掻き掻き、振り向く。
すると、あのくそジジイが、うつぶせ状態で倒れていた。
きっと、足がもつれてしまったのだろう。
――はあ。もう、ホント仕方ないな。
老人の倒れている場所まで戻り、手を差し伸べようとした、その瞬間だった。
まさに光の速さで走る一台の自動車が近づいてきて、俺をいきなり撥ね去ったのである。
さすが、天国 (の一歩手前)の車だ。有り余る太陽光をエネルギーとする電気自動車だった。エンジンがなく音もしないのが、欠点と云ってもいい代物だ。それが近づいていることに、俺は全く気付けなかった。
「く、くっそー。また轢かれた……」
息も、絶え絶え。
このまま俺は死ぬのだろうか。もしかしたらこれが「生まれ変わる」ということなのかもしれない。
「おや、エスさん――あんた、また死んじゃうのかい?」
「さ、さあな。そんなこと、俺が知るもんか……て、あんた、どうして俺の名前を知っている!?」
ジジイは、俺の顔から何かを観て取ったのだろう。
ニヤリと笑った後、神妙な面持ちで、こう答えたのである。
「エスさん。あんた、ここでの生い先が短いようじゃから教えてやる。実はな……わしは、あんたの奥さんに頼まれてあんたを轢き殺したんじゃ」
「な……なんだって!?」
「わしは見ての通り、足が悪い。そんなわしが車で人を轢いても、事件ではなく事故として扱われるじゃろうし、年齢も年齢じゃから刑務所に召喚されずに済む可能性も高い。だから、あんたの奥さんから成功報酬としてもらうお金を老後の生活の足しにしようと思っておったんじゃ……。しかし、うまくはいかんもんじゃな。自分は助かるつもりじゃったが、いざとなったら足ばかりじゃなく手もうまく動かせなくて、自分も死んじまったわい……。天国には杖もお金もないようじゃし、まったく意味はなかったのぉ」
そう云って高笑いをした、老人。
最低な奴だぜ……っていうか、それならお前は天国じゃなくて地獄行きのはずだろうが!
ぶん殴ってやりたかった。
やりたかったが、今の俺ではそうもいかないらしい。全身から力が抜けていく。そろそろこの俺も、『あの世』の見納めらしい。
「あんた、次はどこに行くんじゃろうな。次は゛浮気する人間゛のいない、平和な世界で暮らせるといいな」
「ああ……同感……だ」
薄れゆく意識の中、来世では必ずや前世の記憶を残し、かつての女房とその相手の男に復讐を誓った。そのとき、変な良心が働かないことを祈りつつ。
目を閉じている者が眠っているとはかぎらない。(クロアチアのことわざ)
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