14 猫の食品事務所(後編)

「これって、完全にパワハラ――いじめだよね? 短期出張かと思ってたら、転勤じゃん」


 世界の北の外れに位置する、小さな田舎町。

 その郊外部にある小さなアパートの、これまた小さな部屋の入口ドアに貼られた『西南食品 北日本支店 サブール分室』と書かれた一枚の紙切れを見ながら、エス氏は溜息交じりに呟いた。

 住居兼用のオフィス。

 たった一人だけでオフィスに留まっているのも辛いものだ。そこで、エス氏は猫を惹き付けるフェロモンを発するという噂の“サブリアン・グレイ・マウス”の生態について頻りに外へ出て調べ始めた。


 だが調査が始まって間もなく、問題が生じた。

 頼りにすべきはずの、T係長の知り合い「ナンデヤネン」が、いなくなったのである。

 係長に教えられた住所に向かうと、その両親がおぼつかない英語で話すには、もうすでにどこかの海外に旅立ってしまった後ということだった。訊けば、彼は生まれてから三十有余年、自分を探す旅にしょっちゅう出かけては、忘れた頃にふらりと帰って来る習性を持っているらしく、次にこの街に帰ってくる時期は不明、ということなのだ。


「なんでやねん、ってこっちが叫びたいよ」


 衝撃的事実を聞かされた後、エス氏はアパートに戻るタクシーの中で呆然となった。

 しかし、それで諦める訳にはいかない。エス氏は街でうろつく人々に、片言の英語で片っ端から話を聞いてみることにした。

 一週間ほど調べて分かったのは、どうやらその噂は本当らしいということだった。現地では野生の鼠を捕まえ、飼育する人も出て来たという。

 エス氏は鼠の飼育を始めたという施設の責任者に会う約束を取り付け、すぐにその場所へと赴いた。


 地面剥き出しの、緑色のネットで覆われた野球場一個分ほどのスペース――。

 それが鼠飼育場の姿だった。フェンス越しに見渡せば、数えきれないほどたくさんの灰色鼠がまるでメジャーリーグの開幕戦の歓声のようにチュウチュウと鳴声を発している。

 自分の片言英語だけでは詳細な聞き取りは無理と感じたエス氏は、施設責任者の「ソウヤネンナ・ミズネリィ」というやや肩幅の広い中年女性に向かって、ハンディな翻訳機械を突き出した。これで質問しようという訳だ。

 鼠たちの発する爆音が邪魔はしたものの、翻訳機は彼の言葉をなんとか通訳してくれた。


「これが猫を惹きつけるフェロモンを発するという、噂の鼠なんですね?」


 ソウヤネンナもエス氏の持つ機械に向かって現地の言葉で話しかける。

 翻訳機から、目の前のソウヤネンナの言葉とは思えないほど若く美しい女性の声で構成された日本語が流れた。


「そうでぇす。これが噂のサブール・ハイイロ・ネズミでぇす」

「でも私には、ただの鼠にしか見えませんね。本当に特殊フェロモンを出すんですか?」

「あらぁ、疑うんですかぁ? これを見てくださぁい」


 機械の設定でも間違ったのか、翻訳機の話す相手の言葉の語尾が、まるで来日一年目の外国人のようなアクセントになっているのが気になった。

 雰囲気をそれっぽくするメーカーの工夫なのだろうか。もしそうなのだとしたら、そんな機能は要らないとエス氏は率直に思った。


 しかし、今はそれどころではないのだ。

 気を取り直し、彼女に笑顔を向ける。

 すると、ソウヤネンナもにこりと豊満な笑顔をエス氏に返し、続いて施設全体に響くほどの指笛を鳴らしたのだった。

 横に控える、若い男性スタッフに合図を送ったのだ。

 それを聴いたスタッフは、鼠のたむろする場所とこちら側とを仕切る壁板のようなものを取り払った。刹那、飼育場に勢いよく飛び出して行った、茶色っぽい黄色の毛並みをした数匹の猫たち。

 訊けば、この地方の猫はこの色がほとんどとのこと。

 場に溢れるフェロモンを嗅ぎ取った猫が、狂ったように鼠を追いかける。瞬く間に数匹の鼠が、猫たちの餌食となった。


「確かに、すごい猫の惹きつけ方ですね。尋常ではないです」

「そうでしょぉ?」

「この鼠を原料としたオリジナルのキャットフードを作ったら確実に売れますね!」


 ソウヤネンナが満足げに頷き、もう一度、指笛を吹いた。

 すると、指笛を聴いたスタッフが猫を捕まえに走る。

 すべての猫が回収され、鼠たちは元の状態に戻った。スタッフに抱えられた猫たちは満腹そうに舌舐め摺りした。


「ところが、ひとつだけ困ったことがありましてぇ……」


 ソウヤネンナの目が不意に勢いを失った。

 肩周りや顎の肉が緊張を無くし、たぷんと垂れ下がる。


「何か問題でも?」

「実はこのネズミたちぃ……眼球のレンズに爆発物質であるニトロズミノーゲンが多量に含まれていてぇ、偶に爆発騒ぎを起こすんですよぉ」

「はあ? バ、バクハツぅ!?」


 それこそ眉唾な話じゃないかと、エス氏は俄に信じられなかった。しかし、ソウヤネンナのたるんだ目蓋の奥の小さな瞳に、嘘は含まれていないようだ。


「ええ……。でも、必ず爆発するってわけでもないらしくてぇ、どういう条件で爆発するのかは未だに不明なんですぅ」


 思わず飼育場から逃げ出そうとしたエス氏を、ソウヤネンナが笑って制止した。


「ああ、爆発するのは死んだ鼠だけなんですよぉ。ここのネズミは生きてますしぃ、安全なんですぅ」

「そ、そうなんですか……」


 エス氏は思った――新しいことを起こすときに、多少の危険性というものは付き物だ、と。

 他社に打ち勝つための“猫まっしぐら”なキャットフードを新規開発すべく、結局エス氏は、この飼育場と鼠売買の契約を結ぶこととしたのだった。


 ※


 それから数週間後のこと。

 やることもなく、日本で食べた美味しい寿司と焼肉を思い出してヨダレを垂らしながら暗く狭い事務所にぽつんと佇んでいたエス氏の携帯電話が、けたたましい音を立てた。


「はい、エスです」

「ソウヤネンナ、デース。タイヘン、タイヘン! トニカク、コッチキテ!」


 電話はソウヤネンナからのものだった。

 翻訳機を通さないカタカナで表したくなる日本語で、エス氏に緊急性を訴える彼女。これ以降のソウヤネンナの早口言葉は、エス氏には全く理解できなかった。

 しかし、兎に角緊急なことだけは雰囲気から理解できる。

 エス氏は、訳も分からないままに飼育場へと直行した。


「すみませぇん、そちらに納入予定のネズミが不手際ですべて死んでしまってぇ……」


 訊けば、誤ってスタッフが黄色い毛並の猫を野放し状態にしてしまい、そこらじゅうにいた鼠をことごとく殺してしまったらしいのだ。その数、約五千匹。


「何てことだ。キャットフード開発用に、生きたまま日本へ送る予定だったのに……」

「こうなったらぁ、冷凍にして送るしかありませぇん」


 どっしりとした肩をすくめるソウヤネンナの提案を、エス氏は受け入れた。

 来週送付予定だったものを急遽早め、冷凍という形で送ることにしたのである。死体が爆発すると言ってもレアケースのようだし、多分大丈夫だろう――と願って。

 なにせM社長も首を長くしてこのプロジェクトの成功を待っているのだ。

 生きた鼠ではないものの、予定が早まったことでプロジェクト進捗には却っていい影響を与えるはずだ。文句はあるまい。

 バタバタと北日本支店への荷物送付手続きを終え、事務所でほっと一息をついた。

 そのときだった。

 エス氏の脳裏に、ひとつの奇妙な考えが浮かんだのである。


 ――瞳の奥の網膜は、死ぬとき最後に見た光景が焼き付けられるって話を聞いたことがある。だとすれば、鼠の目の網膜には死んだ時の光景――多くは黄色い毛並みの猫の姿――が映像として刻まれている可能性があるはずだ。

 電気にプラスがあってその反対にマイナスがあるように、エネルギーとは相反する要素がぶつかり合って生まれるモノ。

 とすれば、そんな状態の鼠の網膜に残った色の反対の色――つまりは黄色の補色である紫色が映されたとき、網膜はエネルギー反応を起こして起爆剤となり、眼球のレンズに含まれる爆発物質を刺激して爆発に至る――。

 もしかしたらサブリアン・グレイ・マウスが爆発するメカニズムは、そんなものかもしれない。


 だがこの考えは、エス氏が考えた他愛のない仮説に過ぎないのだ。

 エス氏は、笑ってそんな仮説を頭の中で自ら棄却した。



 しかし、その数日後のことだった。

 エス氏は驚くべき報道を、最新のネットニュースで知ることになる。


『北部日本にある食品会社社屋で爆発事故が起き、社長や販売部長など関係者数十人が死傷した模様。警察はこの会社が北欧のサブール地方から輸入した物品の中に爆発物が混入したものとみて捜査を進めており――』


「そうか、社長の服って紫色ばっかりだったからな。あは、あははははは……」


 エス氏はすぐにでも日本に戻り、会社に辞表を提出して就職活動を始めようと心に誓ったのだった。






すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。(アリストテレス)

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