14 猫の食品事務所(前編)

 この辺りでは桜舞うには少し早い、四月一日のことだった。

 北日本にある、とある町中の五階建て自社ビル――。

 ここ、食品販売会社「西南食品せいなんしょくひん」北日本支店も御多分に洩れず、新年度を迎えることとなった。

 職場はフレッシュな新入社員を迎えて意気揚々――となればいいのだが、ビル四階に配置された“ペット食品販売部”では、そうならなかった。他社製品に圧倒され、ここ数年販売額が右肩下がりな当該部署では新人も配置されなかったのである。

 当然、活気など微塵も感じられない。


 始業時間の九時となった瞬間、部員が一か所に集められた。

 新年度挨拶を部の責任者で部長の、K氏が行うことになっていたからだ。

 まだ睡眠中だと疑いたくなるほどに開き切らない両目を部員に曝しながら、いつもの朝礼と何ら変わない口調でKが話し出した。五十歳手前で恰幅の良いKの、見た目とは凡そ釣り合わないぽそぽそ声が、彼の口から発せられる。


「ええー、昨今の不景気の波には抗えず、昨年度の我が部の業務成績は惨憺たるものでありましたけれども――」


 部員たちが、一斉に首を捻った。

 どの顔にも“売り上げの悪さは景気のせいじゃないよな?”と書かれている。

 けれど、そんな社員の素振など少しも目に留まるはずもない、K氏。今後の方針など重要なところは軽くすっ飛ばし、彼の挨拶は早くも佳境へと達しようとしていた。


「今年度こそは部員一丸となり、キャットフードの売り上げ倍増を目指していこうではありま――」

「部長。その件についてお話があります!」


 係長のT氏が、すっと手をあげつつ、部長の訓示をぶった切るように声をあげた。当然部員の視線は部長から離れ、窓際に立つ三十歳そこそこのT氏に集まる。

 彼の手があまりにぴんとしてまっすぐだったので、その細長い体型と相まって競技開始前の体操選手のように見えた。

 あんぐりと開いた口をゆっくり閉じると、今まで誰もその開いている状況を見たことがなかった右目を微かに開きつつ、K部長が言った。


「……ほう? なんだね。それは私の挨拶を中断させるに値する内容なんだろうね?」

「当然であります。実は、ヨーロッパ北部、北極圏にあるサブール地域に住む灰色鼠――サブリアン・グレイ・マウスというんですが――の体から、猫を強烈に惹きつけるマタタビに似た物質が放出されているという新情報があるんですよ」

「それは本当か、T君?」


 Tの上司でKの部下、課長のR氏が彼ら二人の会話に割り込んだ。


「それはつまり、その鼠をキャットフードの原料とすれば、ものすごい喰い付きを発揮して大ヒット間違いなしってことだよね?」


 寅田の話に喰い付いたのは、K部長ではなくR課長だった。

 トレードマークの黄色フレームの眼鏡が斜めになってしまうほどの、興奮ぶりだ。


「その通りですよ、課長! ですが……その情報源は現地に住む私の知り合いの『ナンデヤネン』という男でして。コイツ、いいヤツなんですけど、ちょっと――いや、かなりテキトーな性格なのが玉に瑕で……。ですからここは、部の誰かを現地に派遣し、事実確認を取ることが必要であると考えます!」


 刹那、部員たちの視線が自動的にとある“一点”に集まった。

 それは、入社三年目のヒラ社員で、部内で孤立気味のエスという男が立つ場所だった。間髪入れずに、部長、課長、係長の三つの声が一斉に揃った。


「ならばエス君、キミが行って来なさい!」

「ぼ、僕がですか?」


 かなり狼狽えた、エス氏。

 しかしすぐに気を取り直すと、必死に“今抱えている仕事だけで精いっぱいだ”とアピールし、海外派遣に抵抗する。ただでさえ色々と仕事を回され、残業の毎日なのだ。そんな仕事まで自分に回されれば、命に関わるのだ。


 と、そのときだった。

 ペット食品販売部の入り口ドアをガチャリと開け、中に入って来た一人の男がいたのである。まるでもぎたて新鮮な茄子のように鮮やかな紫色のスーツに身を包んだその男は、今頃東京本社にいるはずの、M社長だった。


「K君! さっきから廊下で聞いていれば、なんという仕事のたらい回しぶり! だからこの部は成績が上がらないんだ。このまま、この部署を解散してもいいんだぞ」


 顔を紅潮させて怒る社長に、一気に緊張感が深まった部内。

 慌てふためいたK部長が背筋を伸ばし、目を完全に見開いた。


「しゃ、社長! どうしてここに?」

「新年度になったことだし、成績の芳しくない部署を激励しようと思ってな。だが、あまりにも君の挨拶が湿っぽいわ、あからさまに部員たちは仕事を擦り付け合っているわ……本当に情けない」

「いやいや社長、そうではありません。私のモットーは、職員が自由に意見を言い合えるような風通しの良い部署を作る、ということでして……。決していじめとか嫌がらせとか擦り合いとか、そういうことではありません」

「ふうん、ならばいいが……。だがそれより、T君が言ったことは本当かね? それが本当なら、我が社のペット食品事業部の命運をかけたプロジェクトを立ち上げ、新製品の開発を行うべきだと思うが――」

「そのとおりです、社長!」


 自分の怠惰なスピーチの件からなんとか逃れられたK部長が、ほっと安堵の息を吐いた。一方、儲け話に目がないM社長は、顔をほくほくと綻ばせている。


「ならば、この件は北日本支店の特別案件としK君に任せる。皆で改めて話し合い、現地派遣者を決めてくれ。私も進捗具合を訊きに、ちょくちょくここへ顔を出すことにしよう」

「了解です、社長」


 しかし、その翌日――。

 エス氏が出社すると、そこに彼の座るべく椅子はなかった。自分が使っていたものらしき事務机はあったが、その上にあったはずのノートパソコンも消えていた。

 机には、サブール地方行きの飛行機チケットが一枚、ぽつんと置かれているだけだった。

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