19 Cover
――今日、俺は生まれ変わるのだ。そう、飛行機に乗った瞬間に。
とある国際空港の出発口。
そこへと向かう長い列に並びながら、エス氏はそう思った。
いや、それは至極堅牢なもので、『確信』と云ってもよかった。なにせ、この世に生まれてからの四十年、人生のすべてを過ごした日本を捨て去り、二度と再び戻るつもりはなど、これっぽっちもなかったのだから――。
エス氏の搭乗する飛行機が向かうその先は、とある東南アジアの国だった。
その国の南方のはずれに位置する
――なんて素敵な人生なんだ!
エス氏の顔面に、恍惚ともいえる表情が浮かびあがる。
とはいっても、列の前後左右に位置する人間たちに気付かれないほどのささやかなものだったが……。
エス氏のプランによれば、その場所にはエス氏を知るものもいなければ、エス氏の感情をかき乱すような美女もいない。
彼以外のすべての人間が存在しないのだ。
この世に溢れる種々雑多なものによって汚され、淀み沈み切った挙句、強烈に弾けてしまった彼にとって、生まれ変わるのに丁度良い場なのである。
車輪は、素晴らしい。
人類の発明したもの中でもきっと、最大級の発明品である。
でなければ、エス氏という一人の人間の人生のすべてが詰まったひどく重いスーツケースを、軽々と運ぶことなどできるはずもない。
床の上をスムーズに転がるスーツケースの感触を手の中に感じながら、エス氏は夢見心地で微笑んだ。
そのときだった。
エス氏の前に並ぶ男の履くデニムパンツのポケットから、一枚のプラスチックカードがはみ出し、ひらひらとリノリウムの床に舞い降りたのだ。
そのことに気づかない目前の男は、そのまま前へ進もうとする。
エス氏が、慌ててそれを床から拾い上げる。
見ればそれは、その男の所有物らしき『運転免許証』だった。
「ちょっと、あんた! 免許証を落としたよ」
もう誰とも関わらないと決めていたはずのエス氏が、思わず、声を掛けてしまう。
エス氏の呼びかけに気付いたその男は、迷惑そうに舌打ちをして振り向いた。
黒いサングラスに、もさもさとした褐色のあごひげ。下手な変装でもしているかのような怪しい゛いで立ち゛をした男が、面倒くさそうに云う。
「免許証……? そんなものは要らん。拾ってくれたお礼にあんたにあげるよ」
「はあ? どういうことですか」
「つまりだな……これから生まれ変わるのに、そんな過去のものは要らんちゅうことさ。俺はこれから海外に渡り、二度と日本には戻ってくる気はない」
「なるほど……ね」
エス氏は、男の全身を上から下にスキャンするように眺めた。
身長や肉付き、エス氏と概ね背格好が似通っているではないか――。
エス氏の脳裏に浮かんだ、とある閃き。
――それなら、海外に行かなくたっていいじゃん。
拾った免許証をおずおずとスラックスのポケットに入れたエス氏は、きっぱりとした調子で云った。
「もしよろしければ、少し私にお時間をくださいませんか? あなたの人生について、教えていただきたいのです」
「俺の人生を――だと!?」
怪訝な目つきで、今度は男が舐めるようにエス氏の全身を眺めまわす。
一瞬の時の狭間を乗り越えた男は、不気味な笑みを浮かべながらエス氏の言葉にゆっくりと頷いた。
☆
その数十分後。
屋上の展望デッキに立つエス氏は今、轟音とともに海外へと向かって飛び立つ飛行機を見送っていた。まるで、『過去の自分』という名の親しい友人を見送るかのように、穏やかな笑顔とともに。
何かを失えば、何かを得る。
人生とは、そんなものである。
もともと所持していた重いスーツケースのほかに、エス氏の肩には先ほどの男が背負っていた黒いバックパックがあった。
――さて始めようか、新しい人生を。今日から俺はエスではなく、
短い時間ではあったものの、エス氏は男から彼の生い立ちや兄弟構成、好みの食べ物、結婚歴――未婚だったが――などを訊き出していた。
『彼』の人生をコピペして、自分の体に張り付ける――。
そんな作業が、本当に可能な気もしてくる。
尻のポケットから、再びあの男の『運転免許証』を取り出したエス氏。
『
プラスチック製の、人生の重要情報が書かれている割に軽いカードには、そう記されている。
男を乗せた飛行機が、轟音だけを残し、白雲に飲み込まれた。
それを見届けたエス氏は、展望デッキから静かに立ち去った。
☆☆
エス氏は、別の人生を謳歌していた。
あの空港での出来事から、3か月が過ぎていた。
アンダーグラウンド世界での整形――。
運転免許証の写真のG氏の姿にそっくりとなったエス氏は、後藤貢治として賃貸マンションの部屋を借り、入居していた。近隣には引っ越しの挨拶など、当然していなかった。だが、たまたま廊下ですれ違った、隣の部屋に住むエス氏よりひと回りほど若い独身女性に、ひとめぼれしてしまったのだ。
また悪い癖が出たな――と思いつつ、彼女に積極的に声を掛けるようになった。
今では、たまに互いの玄関前で『よもやま話』までできる関係になっている。
男なんてものは、至極単純なイキモノなのだ。
好きな女性ができた途端に人生に前向きになり、張り切って受けた幾つかの面接のひとつをクリアして、新たな仕事も決まったのである。
G氏の所持する大型免許を生かした、運送業だった。
――トラックなんて運転したことないけど、まあ、何とかなるさ。
恋の力とは、大したものである。
運転したこともない大型車が、運転できるような気持になってしまうのだから。
そんな矢先、だった。
初出勤のために、G氏となったエス氏が朝から念入りに歯磨きしていると、玄関のインターホンが鳴ったのである。
「……どちらさん?」
歯磨き粉の
二人連れのスーツ姿の男を画面に内包したインターホンが、答える。
「警視庁です。開けてください」
――警視庁? そんなばかな!?
震える右手でタオルを持つと、それで一気に口の周りの泡を拭った。
俺はエスではない、Gなのだ――。
自分に暗示をかけるように何度も口に中でそう呟いたエス氏は、何かを振り払うかのように勢いよく、玄関扉の鍵をがちゃりと開けた。すると、待ってましたとばかりにエス氏の目前に躍り出た私服警官が、一枚の紙きれをエス氏の前に突き付けた。
「後藤貢治、お前を殺人容疑で逮捕する。ちゃんと令状もあるぞ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それは何かの間違いでしょう? よく見てください。私は、後藤ですよ。誰かと勘違いしてるんじゃありません?」
「あん? 何を云ってるんだ……。我々は、紛れもなく後藤貢治を逮捕に来たんだよ」
「……」
訳も分からず手錠を掛けられたエス氏が、マンションを出た先に停めてあった警察車両に押し込められた。
――生まれ変わったはずなのに! 生まれ変わったはずなのに!!
エス氏は警視庁の取調室へと向かう道のりで、車窓に流れる街の景色をぼんやりと眺めながら、脳内でその言葉を繰り返し繰り返し、再生していた。
☆☆☆
それから数時間後。
窓の外は気持ちの良い夕暮れを迎えていたが、取調室の中はまるで冬の日本海のように重く沈んだ空気に包まれていた。
その空気に負けないくらいの重い調子で、中年の刑事が云う。
「こんなことがあるか? 犯人のものと指紋が一致しないなんて……」
「だからさっきから云ってるでしょう? 俺はそんなことをした憶えはないって」
「おかしい……状況証拠はすべてお前――後藤がやったことを示しているのに」
「知りませんよ、そんなこと。さあ、もういいでしょう? 帰っていいですか?」
「仕方ないな……帰ってよし」
苦々しくそう云い放った刑事を前にして、エス氏――いや、G氏が取調室の席を立ったそのとき。
部屋の入り口ドアが開き、若手捜査員が颯爽とした身のこなしで入ってきた。
「主任! ちょっといいですか」
取り調べ担当のベテラン刑事に近づいた彼が、主任の耳元に何やらささやく。
部屋に訪れた、一瞬の沈黙。
しばらくの後、目を見開いた捜査主任が、席から立ち上がった状態のエス氏を見上げるようにして睨みつけた。
「後藤……お前いったい何者なんだ? 女子大生連続暴行殺人事件の犯人と思われるDNA型と、あんたのDNA型が一致したぞ」
「そ、それは……」
――完璧に証拠を消したはずだったのに。違う人間に、
がっくりと項垂れ、G氏から元のエス氏に舞い戻ったエス氏が、椅子に座りなおす。
その一分後。
エス氏は、水のたまったビニル袋にピンを刺したときに漏れだす水のように、その体から言葉を漏らしたのである。
「ひとつ聞かせてくれ。そのDNAはどこに?」
「亡くなった女子大生の一人、
――DNAまではメタモルフォーゼできなかった、か。
「お前の
エス氏の腕に再び手錠がかけられる。
結局のところ――。
どう転んでも、エス氏は捕まる運命にあったのだ。
水の中でおならをしたとて、いつまでもくさい。(カンボジアのことわざ)
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