18 鼻をかんだら
花粉症にでもなってしまったのだろうか。
朝の通勤時間、明るい春の陽射しに気持ちよくなっていた俺を突然襲った、違和感。さっきから、鼻がムズムズして仕方がない。30代も半ばになり、都会でのサラリーマン生活にも慣れた今になって、花粉症になってしまうとは……。
昨年までは、美しい景色に見えた街角に咲くソメイヨシノの花。
今となってはアレルゲンとしての花粉をばらまく植物の仲間――敵としか思えなくなる。
――ぶえっくしょいッ!
盛大な、くしゃみが出た。
それとともに、だらんと鼻腔から垂れるほど鼻水もめっちゃ出た。
本格的に花粉症になったということを認めざるを得ないようだ……。
諦めの気持ちとともにスーツのポケットからティッシュを取り出した俺は、鼻をかんだ。すると――くるりと丸めたティッシュの中で、何やらもぞもぞとうごめくものがあるではないか。
――もしかして、花粉症ではなく鼻の中に虫が入ったせい?
ちょっと得した気分になる。
もぞもぞの正体を見るべく、ティッシュの中身を開けようとした途端――。
俺の横で、中年女性の困惑気味の声がした。
「ちょ、ちょっとあんた……」
隣で電車を待つおばさんが、驚愕の表情で俺を見ている。
見渡せば、周りの他の通勤客までもが、俺を奇異な目で眺めているのがわかった。電車を待つ駅のホームでくしゃみをして鼻水を垂らすのが、そんなに不謹慎な世の中になってしまったのだろうか……。
「あんた、
「うわっ、やっべ! こいつ、ミュータントだってよ」
「ミュータントぉ!?」
にわかに騒然となった、朝の駅ホーム。
と同時に、蜘蛛の子を散らすように俺の周りから誰もいなくなった。
――どういうこと? 俺が何をしたというのだ!?
何がなんだかわからない。
茫然とする俺にはお構いなしに、もぞもぞと動き続けるティッシュの塊。はらりとティッシュを広げてみると、中から出てきたのは、
☆
確か、会社に出勤する途中だったはずだ。
けれど、衝撃があまりに大きかったせいだろう――気づけば自宅に戻ってきてしまっていた。
気になるのは、その帰宅途中にも感じた背後の視線だ。
どう考えても――後をつけられていた!
――いったい、どうなっちまったんだ。
手元のティッシュペーパーに包まれた、生物らしきゲル状の塊を見遣る。
俺の手の中でもぞもぞと動き回るその様は、まるで「ここは自分のいる゛ステージ゛じゃない」といわんばかりに、そこからの脱出を試みているかのように見えた。
とりあえず俺は、それを適当な大きさの箱に中に入れることにして、深呼吸した。
――落ち着け、落ち着け。
机の
すると、今の俺におあつらえ向きな番組を放送しているではないか。なんでも、人類の――いや、地球の未来を救う救世主が最近現れたという。
【CO2を固定化する生物と共生する、地球温暖化対策の切り札】
番組は、その存在がまだ『噂』の段階であると締めくくった。
二酸化炭素を固定する生物って、さっきの虫みたいなイキモノのこと……? じゃあ、『あれ』と俺が、俺の知らぬ間に今まで共生関係にあったということなのか!?
と、そのとき部屋のドアホンの呼び出し音がした。
カラーモニターを覗く。
するとそこには、宅配業者らしき制服に身を包んだ二人の男の姿が映っていた。
「エスさんですね。お荷物、お届けに上がりました」
二人は左右に分かれ、大きな段ボール箱を半分づつ重そうに持っている。
だが、洗濯機とか冷蔵庫とか、二人がかりで運ばねばならないようなそんな重いものを買った覚えはない。
――俺は直感した。
段ボール箱の中身は『空』なのだ、ということを。
そして、あの大きな箱には入るべき荷物は、この『俺自身』であろうということも。何せ俺は、人類や地球を救う切り札となる貴重な存在なのだから!
「はーい、ちょっとお待ちくださいね」
なるべく明るい声でそう云い放ったものの、俺はドアの鍵を開けはしなかった。
そして、窓から脱出するべく、準備に取り掛かる。
ここはマンション2階の部屋なのだ。
机の抽斗から例の『生物』が収まった箱を取り出し、ジャケットのポケットに入れる。それから、猛然とベランダ窓へとダッシュした。
窓のクレセント錠をなるべく音の出ないような動きで外した、そのときだった。玄関ドアをダンダンと叩く音がした。痺れを切らした二人が、勢いよく叩いているのだろう。
――フン、誰が捕まるか!
ベランダに躍り出た俺は、そのまま真下の駐車場へと飛び降りた。
まるで映画のワンシーンだ。じん、とくる足への痛み。そう若くもない俺だが、やってみればできるものである。
とそのとき、駐車場の先の道路の方から、男の叫び声が聞こえた。
「あ、窓から逃げたぞ!
黒ずくめの服装をした男が二人、こっちを向いて何やらわめいている。先ほどの宅配業者を装った奴らの仲間なのだろう。
「待て、こら!」
待つわけない。
だって、お前らきちんと俺に名乗ってないだろ?
俺は子どもの頃からずっと、「自分の名前を名乗らない人を信じちゃだめ」と母ちゃんから教えられてるんだからな!
と、突然辺りに轟いた、どぎゅんという銃声。
ほぼ同時に、俺の頬を掠めた弾丸。
生ぬるい汗のようなものが、つらつらと下に向かって伝っていく。駐車場のアスファルトにこぼれた琥珀色の液体――俺の血だった。
「今、弾が当たりそうだったぞ。生け捕りしろと云っているだろうが!」
「す、すんません」
これが、一介のサラリーマンにある日突然訪れる出来事なのだろうか!?
もう、訳が分からない。とにかく無我夢中で走った。
何十年ぶりかに、超真剣に走った。
そして辿り着いたのは、初めて見る光景。郊外の廃屋だった。
なんとか俺は、謎の男どもから逃げのびたらしい。
廃屋建物の板の間の床にだらりと伸びた俺は、考えた。
そういえば、番組では「共生」という言葉を使っていたのである。
ということは、この生物が俺の体内にいなければ、俺もこいつも、いずれ命を失うことになる、ということなのだ。
箱から取り出したもぞもぞと動く生物を指先で摘まんだ俺は、鼻の中へと押し込んだ。
気のせいだろうか――その芋虫のような落花生のような謎の生物は、まるで「我が地を得たり」とばかりに喜び、小躍りしているかのように激しく動いている。
――なんとかして、この命を守らねば。
これからの身の振り方をよく考えねばならない。
何せお俺は、この世界を救う救世主なのだから!
☆
しかし、俺の逃亡生活は長く続かなかった。
あれから一週間後、奴らが俺の居場所を突き止めたのである。
荒れた山小屋などを転々とした俺だったが、今朝、その小屋の周りで複数人の気配を感じた。とっさに小屋から抜け出し、背後の茂みに隠れようとするも、追手はすでに先回り。拳銃を突き付けられ、ついに御用となったのだ。
「お前らはいったい何者だ!? 俺をどうする気だ!!」
世界の救世主の俺をまるで荷物のように紐で縛り、車の後部座席に転がした黒ずくめの奴らは、俺の問いには何も答えなかった。
至極、腹が立った。ホント、名前ぐらいきちんと教えて欲しい。
そのとき、俺の鼻の奥に潜むあの゛生物゛がもぞもぞと動いた。
俺と同じく、抗議の姿勢を示したようだ。
「着いた。降りろ」
「降りろったって……手足を縛られてて無理だよ」
「……そうだったな。降ろしてやれ」
「へい」
黒ずくめの服にサングラス――。
どう見たって正義の味方とは思えない連中のうちガタイのデカいのが、俺を御姫様抱っこして車外に連れ出した。
しかし、普通こういうときって場所がばれないように眼とかをマスクで普通隠すものだろ? そうやらないってのは、やっぱり俺がVIP待遇だからなのか?
そうこうしている間に、結局俺が連れていかれたのは、今朝俺がいたのよりは立派な山小屋風の建物だった。
山奥の山小屋から更に人気のない山奥の山小屋に辿り着くなんて、なんだか皮肉だ。
と思って中に入ってみたところが、意外と近代的――というよりは、超未来的な建物だった。科学の粋を集めたかのような最新鋭の電子機器に、小奇麗な居室スペース。どう考えても、国家的秘密組織のための研究施設、といったところだ。
「エスさんだったか? 名前はもう必要ないが……風呂に入って体を洗え」
奴らのボスらしき男が、俺に拳銃を向けながら命令した。
国家組織が一国民である自分を拳銃で脅すことは、大いに気に入らない。が、久しぶりに体や髪を洗ってさっぱりした心地になる。
部屋に戻ると、彼らから服を一枚、渡された。
それは、巨大な春巻きの皮のような、天女の着る羽衣のような半透明の薄い生地でできた『つなぎ』だった。
「CO2固定生物と共生する遺伝子を持ったお前は、ただの
俺の気持ちを見透かしたかのような言葉を吐いたその男は、口元をにやつかせながら部屋の奥の方を指さした。
それは高さ10メートル以上はある、大きな壁だった。
よく見れば、人間――いや、かつて人間の形をしていたと思われる、細胞化されたブロック状のイキモノ――が、壁一面に゛はめ込まれて゛いるではないか!
「まさに、地球にやさしい温暖化防止システムだよ。増えすぎて今では地球にとって有害となってしまった人間も減ることだし、一石二鳥さ」
声高らかに笑った、ボスらしき男。
「こいつを処置室に連れていけ!」
「はっ!」
命令を受けた下っ端四人が、俺を羽交い絞めにする。
――お笑いだよ。すごい人間だと思ってたら、実はただの部品だっただなんて!
成型マシンのある『処置室』へと運ばれた俺は、鼻の中の共生生物とともに四角い塊となった。
半透明の薄い生地の服は、どうやら『細胞膜』の役割を果たすものらしい。
壁の一部となった俺は、こうして地球という巨大な生命体における、ひとつの細胞と化したのだ。
人間のすることでなにひとつえらいことが ありうるものか。人間そのものがすでにえらくも たっとくも ないのだ。(石川啄木)
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