17 コピー機のおっさん

 気づけば、オレは暗闇の支配する部屋でひとり、立っていた。

 ねっとりとしたインクの匂いと、鼻をつく油の焦げたような匂い――その二つが融合した場所は、まるで昔の印刷工場のよう。


 ――どうして、こんなところに?


 夢の途中かもしれない。

 なぜって、昼休みにコンビニ弁当を平らげた後、机に突っ伏して昼寝をしたまでは覚えているからだ。

 しかし、いつまでたっても夢が醒める気配がない。

 少しずつ現実感が増す中、両手で何かを握っていることに気づいた。暗くてよくわからないが、その感触から何本かの筆記用具――サインペンのようである。


「小山君、それを二十枚コピーしてくれるか」

「了解っす」


 突然、天から声が降ってきた。

 それがオレにとって聞き慣れた声だったので、内心ほっとする。販売部の第一販売課・課長である自分にとっては部下に当たる今田係長が、同じ課の主任の小山に指示をしたのだ。


 不意に明るくなった天井。

 まるでどこからか現れた巨人が、この建物の屋根を取り外したかのように思えた。

 と同時に、オレの目前に浮かび上がったのは、「20」というデジタルメーターの赤い文字と自分の体と同じくらいの大きさの白い紙が一枚。


 ――も、もしかしてオレ、コピー機の中にいる!?


 ようやく事情が飲み込めた。

 どうやら昼休みの睡眠中に体がひと回りかふた回り小さくなり、その状態でコピー機の中に閉じ込められてしまったらしいのだ。そしてそのまま【コピー機の中のおっさん】として、手にしたサインペンらしき筆記用具で書類の『コピー』を作成する、そんな羽目に陥っているらしい。


 ――まずは、目の前の仕事をこなさねばなるまい。


 それが謂わずと知れた、サラリーマンの宿命なのだ。

 頭上のガラス越しに浮かび上がる『お手本』をもとに、両手の黒サインペンを巧みに動かして何枚もの白黒コピーを作り上げた。


 ――白黒でよかったぁ。


 全身から吹き出す、汗。

 二十枚のコピーを機械の外へと送り出した途端、思わず尻もちをついてへたり込んでしまった。

 考えてみれば、普段、自分の事務机の真横に設置されたコピー機の抱える『思い』など考えたこともなかったのである。が、今回の経験でコピーとはつくづく大変な作業だと思い知った。オレは改めて心からコピー機に感謝した。そして、もしかしたら普段の『コピー機への感謝の気持ち』が足りなかったことが、今の状況を作りだしているのかもしれない――とも思った。


 そんなとき。

 コピー機の外側から、部下の小山の声が再び聞こえてきたのである。


「なんだよ……。このコピー機、調子悪いんじゃない? たかが二十枚のコピーでこんなに時間がかかるもんかな、普通」


 ――オマエ、少しはコピー機に感謝しろよ。中の人の気持ちになってみろ。


 怒鳴ってやりたかったが、今はただのコピー機の中のちっさいおじさんと化したオレなのだ。ぐっと堪える。


 その数分後だった。

 白黒コピー三十五枚というそれなりにキツイ仕事を終え、ひと息ついていたオレに新たな試練が舞い降りた。

 目の前のインジケータが「100」を示し、その横に「カラー」という青い文字が浮かび上がったのである。


 ――カ、カラーでひゃくまいだとぁ!?


 絶望的な思いとともに、恐る恐る見上げてみる。

 するとそこには、かなり複雑な円グラフと、まるで南国のジャングルを思わせるカラフルな風景写真が載った一枚の原稿があった。これを手持ちの数本のカラーペンでコピーするとなったら――。オレの背中に、ひんやりと冷たい汗が何本も流れた。

 だが、そこはプロのサラリーマンなのだ。

 覚悟を決めねばなるまい。


「はああああッ!」


 今までの人生で、これほど集中はしたことないほどの仕事っぷり――。

 自分で言うのもなんだが、『鬼神の如し』とはまさにこのことである。

 己の意識をはるかに超えた、千手観音のような手の動きが、オレのサラリーマン的自尊心をくすぐった。


「これで、どうだッ!」


 100枚目のカラーコピーを機外に送り出した瞬間の、オレの達成感といったらなかった。サラリーマン人生二十年で初めての感覚、と言ってもよい。

 だがしかし――。

 そのあと聞いた言葉――コピーを実行した社員の独り言――が聞こえて来た時には、正直、オレはがっくりしてしまった。

 それは今年入社したばかりの新入社員、後藤の声だった。


「なんか、色ムラがあるけど……。ま、いっか」


 ――じゃあ、お前がやってみろ。コピー機の中のおっさんだって大変なんだから!


 胸にこみ上げる怒りを抑えながら、オレは過労で熱を帯びた両手の筋肉を休めることに専念した。

 だって、そうだろう?

 いつなんどき、大量のコピーの注文が入るのかわからないのだから!

 企業戦士にも休息が必要なのだ。



 そしてしばらくの後――。

 100枚のコピー作業の疲れがようやく癒えてきた頃のことだった。再び、オレの目前のデジタルメーターが点滅したのである。

 数字は、1。種別は、カラー。


 ――楽勝じゃん!


 しかし、それは全くの誤解だった。

 原稿の内容を見た瞬間、あまりの衝撃に愕然となってしまったオレ。その衝撃の度合いは、両手から仕事道具のペンを落としてしまったほどである。

 その原稿は、見覚えのある中年男性とこれまた見覚えのある二十代女性が、白昼堂々、とあるホテル街で腕を組みながら歩いている構図の写真だった。


 ――オレと裕子の、不倫の現場写真じゃないか!


 子供はいないものの、オレは歴とした既婚者である。

 一方、相手の裕子は総務課の入社三年目の事務員。つい半年ほど前からこんな関係になったのだが、まさか、社内でこのことが気づかれていようとは……。


「裕子さん……目を覚ましてくれ。エス課長にこの写真を見せて脅せば、きっと別れると言い出すはず。それでもだめなら……エス課長の奥さんや会社上層部にこれを送りつけるまで」


 何とも物騒なことをぼそぼそ声で話すその声は、以前から裕子に惚れているという噂の中尾という若手社員だった。どうやら彼はオレたち二人を尾行し、証拠をつかんだようなのだ。そして今、その『証拠写真』で、オレを破滅に追い込もうとしている。


 ――これが世間の明るみに出たら身の破滅だ。こんなもん、誰がコピーするか!


 オレは、機器不良という現象にかこつけてコピー作業を拒否しようと思った。もしくは、紙詰まりを装って紙をくしゃくしゃにし、彼の企みを阻む――なんてことも考えた。

 が、そこはやっぱりオレなのだ。

 何度も言うが、オレはプロのサラリーマン。

 目の前のタスクを知らんぷりすることなどできやしないのだ。増してや、今となっては【コピー機の中のおっさん】としての意地もある。


 ――くそっ! もう、どうにでもなれッ!


 オレは、震える手でコピーを始めた。

 再び暗がりで躍動する、カラーサインペン。

 しかし、その作業も半ばの事だった。腕の震えが仇となり、オレは指先を怪我してしまったのである。コピー機の中のおっさんとしては、致命傷だ。よく見れば、あちこちの指で血豆ができていた。


 ――しまった!


 しかし、既に『後の祭り』だった。

 オレの口から洩れた奇妙な唸り声と共に送り出したコピーの精度は粗く、どうみてもミスプリントのレベルである。


「おいおい、このコピー機大丈夫かよ。全然、コピーできてないぜ」

「どれどれ……ああ、本当だ。ダメだ、使えないわ、このコピー機」

「どうしてこんなときにエス課長はいないのかしら? コピー機の管理ぐらいしか仕事ないのに、ホント、使えないわね!」

「部長にお願いして、エスさんをお払い箱にしてもらいましょう」


 不倫現場の写真を見ても、課員の誰も驚かないことに心底驚く。

 どうやら、少なくとも課内では公然の秘密となっていることは明らかだった。

 だが、最もオレにとってショックだったのは、自分の部下たちの自分への評価だった。部下たちの負担軽減のためにと、自分が率先してコピー機を管理してきたというのに……。


 オレの気持ちは――やさぐれた。

 そして、コピー機のおっさんの『命』ともいえる指の怪我という現実もあって、すべてを捨ててどこかに消えてしまいたい気持ちになった。

 そのときだ。

 新人の後藤が、こう叫んだのだ。


「仕方ない……エス課長の代わりに自分が業者呼んどきますわ。修理してもらいましょう」



 それから、しばらくの時間が経過した。

 一向に治る気配のない血豆だらけの指を忸怩たる思いで見つめながら、確かに今が【コピー機の中のおっさん】としての潮時かもしれぬ――と思い始めた頃になり、ようやく業者が会社へと駆けつけたのである。


 ――でも、業者がこの指を治してくれるかもしれないじゃないか。なにせ彼らは『コピー機の修理のプロ』なんだもの……。そしたら、これからも思う存分、コピー機の中のおっさんとして活躍できる!


 そう思い直した矢先。

 業者のお兄さんは、オレの思いとは裏腹に、事もなげにこう言い放ったのだ。


「じゃあ、部品交換しときますね」


 ――ぶ、部品交換だと?


 気づけばオレのすぐ横に、見慣れた顔の男が立っていた。

 部下の、小山だった。


「ああ、中にいたのは課長でしたか。どおりで……。あ、いや、とにかくまあ、後は僕がやっときますんで、お疲れっす」


 オレは業者の大きな手によってコピー機の外に引き摺り出され、そのままくしゃくしゃと丸められた。そしてそのまま、業者が持参した段ボール箱の中に無造作に突っ込まれた。


 オレは、まさに『お払い箱』となったのだ。






人間は遅疑しながら何かするときは、その行為の動機を有り合わせの物に帰する。(森鴎外)

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