5 ベランダの彼女

 アパート住まいのエス氏は、まだ日中の暑さ冷めやらぬベランダに出て涼んでいた。片手には、気温とほぼ同じ感じの、冷えていないビール。それをちびりちびりとやりながら、かつて大人になる前には眺めていたことも多い沈みかけの赤い夕陽を見遣る。


「こんなにのんびりとした気分になったのは、久しぶりだな」


 サラリーマン生活、二十余年。

 酸いも甘いも体験してきた。経済のいい時も、悪い時も。

 そして、人間のいい部分も悪い部分も余すところなく経験してきたエス氏。

 喉を通る缶ビールの中の液体が人肌の温かさで苦みも少ないことににやや不満を感じながらも、エス氏はすぐに気を取り直した。

 なぜってそれが、今の自分にはそれがお似合いな気がしたからだ。

 最近ずっと「やることがまだたくさんあるのに、もう一日が終わってしまうのか」と、高層ビルの窓から苛立ちの気持ちでしか眺められなかった血のように赤く染まった夕陽も、今となっては人生の希望の象徴のように思えてくるから不思議だった。


「ああ、これが本当の平穏だったんだ」


 中肉中背、無精髭でどう見てもモテない中年男性の典型的な姿をしたエス氏は、今にも昇天しそうなほど澄んだ気持ちと淀みひとつない天使のような瞳で、茜空を見上げた。

 と、隣の部屋のベランダで人の気配がする。


(泥棒でもいるのかな)


 よれよれの薄汚れたワイシャツからぶら下った皺だらけのネクタイを揺らし、そろりそろり、ベランダの仕切り板からひょいと首を突き出して隣のベランダに視線を送った。するとそこにあったのは人相の悪い空き巣の姿ではなく、まだ年端もいかない幼稚園児くらいの少女がベランダの床に体育座りして佇んでいる姿だった。

 見るからに、みすぼらしい格好――。

 丈の短い、ところどころ破れたピンクのワンピースからは、服のサイズをはるかにオーバーした長さの手足がにょきりと突き出している。頭の毛も、前回は何時床屋に行ったのか分からないくらいぼさぼさに伸びていた。

 普段そういう身の回りの出来事に無関心なたちだが、さすがのエス氏も声を掛ける。


「こんにちは……。いや、こんばんは、かな」

「……おはよう」

「おはよう?」

「うん。おはよう、なの。さっきおきたばかりだから――」

「まあ、時間なんて人それぞれだから、“おはよう”もありかな。っていうか、ベランダで寝てしまったの? 風邪ひいちゃうよ……」

「なれてるからひかないよ」


 もう、いつが朝でいつが夜とか細かいことは気にしない。気にならない。

 ただそれよりも、今まで仕事に忙しく、隣にちいさな子どもが住んでいることすら気付かなかったことにエス氏は愕然とする。人間なんて、堕ちるとこまで堕ちないと気付かないこともあるらしい……。

 おはようと言うために一瞬エス氏に向けた顔は年齢相応に可愛らしい瞳をしていたが、その口元には世界中の不幸が集中してじんわりと皮膚の下に浸透してしまったかのような、何とも言えない悲壮感が滲んでいた。


「ごめんな、おじさん……仕事ばかりしてたから、お隣の子の名前もなんにも知らなくてね。君のお名前は?」

沙也さやだよ」

「歳はいくつ?」

「5さい」

「お父さんとお母さんは? 今、いないの?」


 それは一番聞きたくなかった言葉――。

 とでも言いたげにがっくりと肩を落とした沙也は、キンと冷えきった灰色のベランダ床を睨みつけた。まるでコンクリートでできたその床が、彼女の敵であるかのように。


「きょうね、つれていかれたの。あおいふくをきた、おおぜいのおとこのひとたちに」

「青い服?」

「うん、あおいふく」

「お父さんとお母さん、二人とも?」

「うん、ふたりとも」


 どう考えても、隣の家には複雑な事情がある。隣人とはいえ、家庭内事情に無暗に首を突っ込み過ぎるのはいけないことだ――。

 自戒の念で一杯になったエス氏が、「じゃあ、またね」と挨拶をして引っ込もうと考えた矢先だった。沙也の両腕、両足、そして頬――体中のいたるところに無数の青黒い痣があることに気付いた。


「沙也ちゃん……だいぶ、手や足が痛そうだけど」

「ああ……これはなんでもないの」

「何でもないことはないと思うよ。痛くないのかい?」


 少女は右手で左腕の痣を覆い隠しながら、下を向いた。


「いたくなんかないわ、いまとなっては」

「今となっては?」

「うん、だってパパもママも、どっかにいっちゃったし」

「でも……病院に行った方がいいよ。おじさんが――」

「もう、いいのっ!」


 沙也が、今度はエス氏をじっと睨む。彼女の敵が、ベランダの床から自分に変わってしまったかのように感じたのはエス氏だった。


「もとはといえば、あたしがわるいんだから……。パパもママもだめだといったのにあほみたいにあそんじゃうし、おぼえなきゃいけないひらがなもあさの4じからノートにかいてみたけどおぼえられないし、もでるたいけいにしてくれるってせっかくごはんをへらしてくれたのについついたくさんたべちゃうし――だから、あたしは『ばつ』としてこのベランダでいちにちずっとすごさなくちゃいけないの」


 もう二度と出ることはないと思っていた涙が、エス氏の頬を伝った。

 それは液体ではなく、湿度0%の乾いた涙ではあったけれど。


「沙也ちゃん……。それは君のパパとママが悪いよ。君は、何にも悪くない」

「そんなことはないわ。わるいのはあたし。そして、このベランダはあたしのたったひとつのいばしょなの。だから、もうほっといて!」


 エス氏は、彼女の両親に対して尖った感情が沸々と湧き上がっていくのを感じた。

 今なら、やれる――。

 今なら、ひょいと両親のいる場所まで飛んで行って、天に変わってお仕置きができる。この子の力になれるはず――。

 そう思った瞬間だった。

 不意に沙也の足からすうっと色が消え失せて、透明になったのだ。


(そうだったのか)


 エス氏は、隣人として結局何も手を差し伸べられなかったこと、そして今となっては手遅れだったことを悟った。


「ごめんな、気付いてあげられなくて……。おじさんも、そんな余裕なかったんだ」

「ううん、おじさんはわるくない。それに、きづかなかったのはあたしもだから……」

「あたしも……?」


 沙也の表情が、まるで天使のような朗らかさを帯びた。そんな思いもしなかった笑顔にエス氏の肩の力がふっと抜け、それと同時に足の力までどっと抜けてしまった気がする。

 左右の頬の筋肉もふんわりと緩んだらしい――。

 彼の口から出てきた言葉は、思ったより柔らかい言葉だった。


「沙也ちゃんは、お星さまが好きかい?」

「……すきだよ」

「おじさんも、そうさ。昔から、夜空に輝くお星さまになれたらいいな、なんて思ってた」

「そうなの? でも……あたしは、できればこっちにいるほうがいいな」

「そうだよね……。ごめん」

「ううん、いいの。でもおじさん、いまならきっとすきなおほしさまになれるとおもうよ」

「うん、おじさんもね、そんな気がしてるんだ――」


 エス氏の足元が、すっと透明になる。それは、沙也のそれと同じだった。

 エス氏が会社での過労を理由にベランダから飛び降り自殺してから、3日目の出来事だった。






わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。(ルソー)

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