4 初恋は鉄の味(後編)

 それから、エス氏にとって夢のような日々が続いた。


 平日は朝晩に、休日は朝から晩まで、エス氏は彼女との時間を大切に過ごした。彼女との時間は会社勤めにより断ち切られるが、といって美紗子に溺れ切って会社を辞めるわけにもいかない。彼女の派遣費用は、会社から支給される給与から支払われているのだから。 そして、派遣費用が給料の半分を占めようと、何とも思わなかった。


 何かにつけて健気に家事をこなす美紗子をそっと抱き寄せ、「好きだよ」と愛の言葉を囁き続ける、エス氏。

 40代男性の好みのモードに合わせた行動なのか、美紗子はその度に頬を赤くした。

 訊けば美紗子は、平日のエス氏不在時、やるべき家事を終えたあとは自らその電源を落とし、電気代節約のスリープモードになっているというのだ。そんな、おじさんにもお財布にも優しい所もある美紗子に、エス氏は増々のめり込んだ。


 エス氏の気持ちが、青い空に浮かぶひとすじの雲へと向かう鳥のように、日に日に高みへと昇っていく。

 それが、ついに最高潮に達した先日。エス氏の口から「もう君しか考えられない。結婚しよう」というプロポーズの言葉が発せられたのだ。

 だが、美紗子は浮かない顔をした。

 エス氏に抱きしめられたまま、目を伏せてこう呟いたのだ。


「エス太郎さん……。そのお気持ちは有り難いのですが、ワタシはアンドロイドです。この国の法律上、結婚はできません」

「そうか、そうだったね。あんまり君のことが好きすぎて、そのことを忘れてたよ。それにしてもLGBTのカップルも認められるこのご時世に、どうしてアンドロイドと人との結婚はダメなんだろう」


 と、エス氏が涙をぽろりとこぼした、そのとき。

 彼の腕の中の美紗子が、上目遣いでエス氏を見つめた。


「このままでは、アナタのことを本当に好きになっちゃいそうで怖いです……。冷たい体のワタシですが、ずっとこれからもワタシだけを愛してくれますか?」

「当たり前だよ、美紗子」

「やった、嬉しい! ……ならばこれからは、“丁寧語モード”を辞めて“親しい間柄モード”の言葉遣いで会話をするわね!」

「うん、俺もそっちの方がいいな」

「アナタはワタシだけのもの。そして、ワタシもアナタだけのもの」

「そうさ。そのとおりだよ、美紗子!」

「その言葉、絶対に忘れないでね」


 強張っていた肩の力をすっと抜いた美紗子は、エス氏の胸の更に奥深くへと飛び込むとふんわりとやわらかいその唇を、エス氏のそれに重ね合わせた。

 エス氏の唇に、ひんやりと冷たい感触が残った。



 そんなことがあった日から、数日後のこと。

 エス氏の勤務する会社に、中途採用の社員が入社した。25歳と若い、澤田さわだ瑠美るみという名の女性だった。

 ふと、背の高さや風貌など、どこか美紗子に似た感じがすると思ったエス氏。幸か不幸か、彼女はエス氏の部署へと配属になった。


 まるでプログラミングされたかのように、いつも明るくはきはきとした性格の瑠美はたちまち社内の男たちのアイドルと化した。

 自分が好みの美紗子に似ているのだから、エス氏にとっても彼女が気にならない訳はない。だが、今のエス氏は“美紗子ひと筋”なのだ。ただの会社同僚として、そして部署の後輩として、彼女と接していた。

 一方、エス氏は美紗子と暮らすようになってからというもの、充実した日々を送れるようになったからであろう、最近の働きぶりには目を見張るものが誰の目から見てもあり、社内で話題になっていた。

 この頃では女性陣から、憧れの眼差しで見られることも多かった。


 そんなある日。

 エス氏の退社時間少し前になり、女性たちの視線を掻い潜るようにして近寄って来た瑠美が、彼に話しかけた。瑠美が入社して、3週間ほど過ぎたときだ。


「すみません、エス木さん。ちょっと仕事のことで相談があるんです。今日の夜、ちょっとお話聞いてくれませんか?」

「ん? まあ、いいよ……」


 傍から見れば“美人に声を掛けられた幸運な独身おじさん”というところだが、エス氏の気持ちは重かった。なにせ最愛の美紗子との時間が削られてしまうのだから。

 だが後輩からの申し出を無下に断る訳にもいかない。

 エス氏は出掛けにトイレに寄り、美紗子に左腕のウエアラブル端末から連絡した。

 「今日は遅くなるのでご飯はいらない」と告げると、エプロン姿の美紗子は少々不満げな表情を浮かべながらも、「分かった」と云ってホログラムのテレビ電話を切った。


「ごめんよ、美紗子……。でも、これも仕事なんだ。許してくれ」


 会社仲間で寄ることもある近所の居酒屋に瑠美を連れていく。

 瑠美に訊くと、ここはまだ初めてとのことだった。

 席に着くとすぐにやって来た汎用型店員ロボットに、ビール二つと適当な料理を注文する。狭い居酒屋の向かいの席に座る瑠美の瞳は、まだ酒が入ってもいないのに早くも悩みの深刻さのせいか潤んでいて、気を取られてしまう。


 彼女の相談は、よくある人間関係の悩みだった。一人の女性ベテラン社員の“当り”がきつく、仕事に集中できないらしい。

 真剣に悩み相談が続き、エス氏はある意味差し障りのないアドバイスをしていった。

 そして、アルコールもある程度入って顔が赤らみかけた頃――。

 瑠美が、感謝の意を示すようにエス氏の手を取った。

 今までの人生の中で感じたことの無い、やわらかな女性の温かみ。美紗子には無いその温もりに、エス氏の心が乱れる。


 ――やっぱり、温もりっていいかも。


 話すうちに、二人の物理的距離がどんどん縮まっていく。

 いつの間にかエス氏の隣に座っている瑠美の肩が、もう彼のそれと触れ合ってしまいそうになるほどだった。エス氏の心は、その距離の変化に呼応するように、いつしか彼女の虜になっていた。


「今夜は、ありがとうございました。おかげで、明日からも頑張れそうです」


 二時間ほど話した後、来た時と比べると随分と明るい表情になった瑠美が云った。

 会計をエス氏が済ませ、最寄り駅に向かう途中――。

 街灯と監視カメラの少ない薄暗い路地で、エス氏は瑠美の体を抱きしめた。

 彼女から伝わって来る温もりに愛しさを感じたエス氏は、そのまま彼女のほんのり温かい唇を奪う。


「こんなときになんだけど、君のことが好きになってしまったようだ。俺と付き合ってくれないか?」


 このときのエス氏の頭の中には、既に美紗子はいなかった。明日、紹介所に電話して彼女を引き取ってもらおうと思っていたくらいだ。

 エス氏の言葉を聞いた、瞬間。

 まるでゼンマイの切れたおもちゃのロボットのようにピタリと動きを止めた瑠美が、くぐもってやや聞き取りにくい声を出した。


「では、美紗子さんではなく、私を愛してくれるのですね?」

「え? 今、何て?」


 エス氏の顔面が、一瞬にして凍り付く。


「君……。何故、美紗子のことを――」

「ならば私は、私に課せられた任務をこなさねばなりません」

「任務を……こなす?」


 暗闇の中、まるで手品のような早業で、彼女の右腕が鋭く尖った細長いナイフへと変わる。

 その鈍く光った刃先を瑠美がエス氏に向けた、約1秒後――。

 エス氏の体が、ナイフによって貫かれていた。

 一度、空に浮かぶ八分咲きの月に向かって手を差し伸べたものの、口の周りを琥珀色の液体で濡らしたまま、エス氏はうつ伏せの状態で身動きしなくなった。


 エス氏を足蹴にして“それ”を確認した瑠美は、すぐさま電波を飛ばし、彼女の“依頼者”に報告する。


「美紗子先輩! 他の女に気のあるところを見せたら始末するというお約束の件、任務完了です。残念ですが、やっぱりこんな男は始末して正解ですよ。ちょっと私が気のあるフリをしたら、先輩のことなど忘れて口説いてきましたからね……。

 あ、それから、もう人間のフリするのはかったるいので、あの会社、明日になったらすぐに辞めますね」

『うん、わかったわ、“瑠美GC-10”。ふうん、そうなの……。やっぱり体が温かい方が良かったって訳ね。最新の有体温型アンドロイドで試してみて良かったわよ、ホント。

 それにしてもあの男、とんだ食わせ物だったわね。もう少しで人間なんていう下等生命体にワタシが恋をしてしまうところだったんだから……。危ない、危ない』


 そう云って、男性用恋人アンドロイド“美紗子TD503”はスパイ・アンドロイド“瑠美GC-10”の掌の上の3Dホログラム映像の中で、声高らかに笑った。






恋愛はほんのわずかの実質に、多くの空虚とのぼせた夢想を混ぜる情熱である。だからこれにはそのつもりで支払い、仕えなければならない。(モンテーニュ)

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