6 すね毛の命
宵闇は暗く空気も冷たかったが、LEDのネオン街を歩くその男の気持は明るく、懐の中身も温かった。
――ようやく長い冬も終わりかけの三月末日。
久しく肌を刺すように冷たかった空気も、今日は少しばかり暖かくなったような気がする。
でももしかしたらその感覚は、彼――エス氏だけなのかもしれなかった。なにせ今日の彼は、大層浮かれているのだ。
昨日より外套のボタンをひとつだけ多く外したエス氏が、白くふさふさした“ウサギのしっぽ”の生えたコンパニオンがわんさかといるクラブに意気揚々とした足取りで向かっている。
エレガントな筆記体文字で店の名前が書かれた扉を開けたのと同時にママやウエイター、そして放し飼い状態のウサギちゃんたちの盛大な歓迎の声に包まれると、その後、外套と上着を係に預けた常連客のエス氏は、『VIP席』という名のふかふかすべすべした高級ソファーの席へと案内された。
「いらっしゃいませー」
あっという間に大勢の夜の蝶――ここでは夜のウサギさんだが――に囲まれたエス氏。飲み物の準備をしようと隣の席に座ったママさんに、すかさず耳打ちを始めた。
「まあ! それは是非とも盛大にお祝いしなくちゃね!」
「ああ、頼むよ」
一人だけ黒のシックな洋風ドレスに身を包んだ、そろそろ四十を迎えようかという感じの女が喜び勇んでカウンターへと向かう。長年この街で暮らす彼女が喜び勇む原因はひとつしかない――金の匂いだ。
「エスさん、一日早いけど、支店マネージャーご昇進おめでとうございまーす!」
店中に響いた、上擦った声のママのアナウンス。
見ず知らずの客から送られた拍手の渦が、エス氏を包む。うん万円するドンペリとかいう
高学歴、高収入、高身長――かつて流行ったエリートの条件をいとも簡単に満たす若干二十七歳の男が、我が人生に到来した“春”を実感する。
そして、日付の変わる時間となった。
たくさんのウサギちゃんたちに見送られたエス氏は、その後ビルの出口の前で待ちかまえたタクシーに乗り込み、自宅高級マンションへと帰宅した。
鼻唄混じりで軽くシャワーで汗を流しながら明日の出社時の様子を想像してほくそ笑んだ彼が、ベッドに潜り込んだ直後のことだった。
――エス氏が『悪魔』に出くわしたのは。
「俺は見ての通り、地獄からやって来た悪魔だ。あんたの人生、かなり順調なようだな……。そういう人間を悪魔は見過ごさないものだよ。右足に生えた“すね毛”が毎日一本ずつ抜ける呪いを、お前にかけておいた。やがてその毛がすべて無くなったとき――それが、お前の命の終わるときだ。どうだ恐れ入ったか、わっはっは!」
子どもの絵本に出て来る“虫歯菌”のような黒い体、そして長く先の尖った尻尾が生えた悪魔がそう云って、剥き出しの牙を光らせエス氏に凄んだ。エス氏はベッド上空の空間でふわふわと浮きながら怪しく光る悪魔を、少々酒を飲み過ぎたせいで見ている幻と判断し、悪魔の言葉を無視して目を瞑った。
「おい、こら! これは夢じゃないぜ、本当だ。ほれ!」
悪魔が、手にした槍のような棒の先を意識を失いかけたエス氏の頬に軽く当てる。
急に襲ってきた刺さるような痛みに驚いたエス氏が、ベッドから跳び起きた。
「うわ、痛っ! 突然やって来て槍を頬に突きさすなんて、人間のすることじゃないぞ」
「だから、悪魔なんだって……」
「でもどう見ても虫歯菌――」
「あ、く、ま!」
どうやら『虫歯菌』という言葉、この悪魔にとってのNGワードだったらしい。
プンスカと地団太を踏んで怒り出した悪魔に、エス氏が不満をぶつけた。
「だけどさあ、そんなこといきなり言われても困るんだよね……。それに右足だけ毛が薄いなんて、超カッコ悪いじゃん。もう彼女と一緒に海にも行けないよ」
「うるさい! この期に及んで気にするとこはそこかよ! まあ、いい。とにかくそういうことだから、残りの人生、せいぜい楽しむんだな……」
ニヤリ、口を目一杯広げて笑った悪魔は煙のように姿を消し、何処かへ行ってしまった。暫くの間ベッドの上で立ちすくんだまま放心状態だったエス氏が、不意に意識を取り戻して叫び声を上げる。
「おい、待て! 一体どうして、この俺があんな虫歯菌みたいな悪魔に呪いを掛けられなきゃいけないんだ!」
だが、部屋はしんと静まり返るばかり。誰からの返答もない。
悪魔に毒づいてはみたものの、やっぱり自分の寿命が気になるエス氏は青いナイトガウンを体から剥ぎとって、眠い目を擦り擦り、右足に生えている毛の本数を太ももの辺りから数え始めた。
「いち、にい、さん、しい――おお、けっこう毛が生えてるな。毛深い方で、助かったぜ。あ、やべっ! 一本、抜けちまった! ああ、俺の寿命が一日短く……。まあいい、とにかく今は毛を数えるか――しい、ごお、ろおく――って、こんなたくさんの毛、全部数えられるかぁ!」
最後は、あの有名スポコン野球漫画で鬼のような父が見せた『ちゃぶ台返し』のごとく足を投げ出したエス氏。夜な夜な飲み歩く生活でカルシウム不足になっているのか、エス氏は6本のすね毛を数えただけで短気を起こし、計測作業をギブアップしたのだ。
だがしかし、短気な彼もそのまま諦めることはかった。
気を取り直して考え込むと、すぐに名案とばかり、パンツ一丁の姿で手をパンと打ったのである。
「そうだ! 全数調査が無理なら、サンプル調査ってのがあるじゃん!」
アルコールはまだ完全に血管の中から消え去っていなかったが、何故かこのときばかりは頭が冴えた。こう見えて実は、理系出身のエス氏なのだ。
サンプル調査とは生物の個体数調査などでよく行われているものだった。
全域の調査を行うことが物理的に不可能な場合――もしくはそんなことちっともやる気がない場合――に、部分的に単位面積当たりの調査を行ってその面積比で全体の数量を推定するという、科学的・統計学的ともいえなくもないがやや大雑把という誹りは免れない調査方法である。
机の抽斗から取り出した定規を自分の足に当て、一平方センチメートル当たりのすね毛の本数を3か所だけ数えてみる。
5本、6本、8本……。
「おお、3か所の平均値は1平方センチメートル当たり6.3本だっ!」
もう少しサンプルを増やした方がいい気もするが、そこは眠気も混じったエス氏のやる気の無さ。サンプル調査も3か所を実施しただけであえなく終了となる。
しかし平均値が分かったところで寿命は計算できない。すね毛が生えている、全体の面積が必要なのだ。エス氏はもう一度定規を自分の足に押し当てた。
「ふむふむ……。発毛部は凡そ縦60センチに横20センチ。ならば面積は、1200平方センチメートルになるな。6.3本×1200平方センチだから……合計、7560本! 一年365日で割れば……20.7年。つまり俺の寿命は、あと20年しかない!」
かつて嫌々ながらそろばん塾に通って鍛えた暗算の力を、フル活用。エス氏は遂に“ほろ酔い状態”という逆境を克服し、自分の残り寿命を割り出すことに成功したのである。
――20年という年月が、人生において長いのか短いのか。
一瞬悩んだエス氏だったが、現在27歳のエス氏が47歳で死ぬという想定が頭の中にじわり確実に浸透すると、酷く動揺することになった。何故って、天下統一を目前にして倒れた、人生50年、げてんのうちにくらぶれていたあの織田信長よりも短い人生となるというのだから!
――こうしてはいられない。
エス氏は、この日を境に生き方を改めることにした。
残りの人生を悔いなく生きるため、まずは毎日飲み歩く生活を辞めて何人もいた派手めの彼女たちとは縁を切った。
20年という限られた時間で自己実現を果たすためには何が必要かと日々考え続け、机上では答えは出ないと判断した彼が取った行動は、自分探しの旅だった。数か月の休職を会社から勝ち取った彼は、むさ苦しい髭面と慣れ親しんだデイバッグとともに世界中を旅しながら、自己実現の方法について自問自答を続けた。
休職期間を目一杯使った旅を終え、日本に帰国したエス氏。
その直後に、彼は外資系の会社を辞めてしまう。
――芸術こそ、我が目指す道なり。
悪魔と出会って1年後、それがエス氏の出した結論だった。
自分の短い生涯の後、この世にその形跡が残るとすればそれは芸術のみである――エス氏はその日から寝る間を惜しんで独学で美術を研究し、絵画に彫刻、はたまた陶芸にまで手を出した。
高級マンションを売り払い、エス氏はとある地方の草深い郊外に暮らし始める。
寝食も忘れて没頭した、まさに彼の人生を掛けた作品群に宿った不思議な力――魅力とでも云おうか――は凄まじかった。だがそれを認める人がいなければ、世に認められることは無い。
しかし幸運にも、エス氏はその機会を得ることになる。
隠遁生活も早3年という頃、たまたまその田舎にやって来たという黒ずくめの格好をした自称『美術商』の男が、彼の才能を見い出したのだ。
エス氏の“命”を感じる独特な絵画と彫刻作品は美術雑誌に紹介され、たちまち評判となった。日本で天才芸術家の名を欲しいままにしたエス氏はそれには飽き足らず、まさに命を削るが如く創作を続け、遂には世界的な名声を得ることとなった。
こうして、悪魔が家にやって来てから20年の月日が流れていったのであった。
☆
あの悪夢のような悪魔との出会いから20年、エス氏は47歳となっていた。あの日、エス氏のサンプル調査により判定した自分の寿命が尽きる日は、もう目前に迫っていたのである。
だが今更、エス氏は動揺などしなかった。
何故なら――エス氏は20年という限りある時間の中で命を燃やしながら精一杯に活動し、今や史上最年少の人間国宝として崇められるほどの名声を得ていたからだ。
今のエス氏にとって、死など恐れるに足らない存在だった。
「さあ、俺は俺の人生をやりきったぞ。あの虫歯菌みたいな悪魔がいつ俺を迎えに来たところで、ちっとも怖くもないわ!」
寧ろ悪魔に会うことが楽しみな感じすら、エス氏の心の中には芽生えていた。
それから毎日、20年前に出会ったあの悪魔に会えることを心密かに楽しみにしていたエス氏だが一向にその気配がない。
――まずいぞ。遺作と決めた絵画もとうに完成してしまったというのに!
一向にお迎えに来ない悪魔に、エス氏が痺れを切らす。
どうしてかと考え始めたエス氏が、はっとして目を見開いた。
そして、ここ数年普段着としている
――やや、なんと!
計算上は総ての毛が抜けてつんつるてんになっているはずの右足に、左足に比べれば少し薄い感じはするものの、それなりにしっかりと毛が生えていた。
「しまったああ! すね毛に限らず、抜けた毛の後には新しい毛が生えて来るっていう事をすっかり忘れてたああ!」
日本芸術界の重鎮となったエス氏が、己の浅はかさに落ち込む。
悪魔の戯言に付き合い、人生残り20年と信じてやってきたこの人生とは一体何だったのか。もしかしたら、もっともっと楽しい人生があったかもしれないのに――。
だが一方で、エス氏は人生の充実を感じていた。
人生とはその長さではない。いかに何をやり切ったのか、だ。そう自信をもって呟く心の中のもう一人の自分がいることに、彼は気付いた。
すると、眉間によった深い皺と真一文字につぐんだ口がついと緩み、彼から笑みが漏れた。
――もう、やり残したことはない。悔いもない。
次の日の朝のことだった。
エス氏は、広い自宅の庭にある立派な枝ぶりの松にぶら下るように首を括って彼の人生を終えた。
その日、東の空から昇ったばかりの朝陽は、充実感みなぎる幸せそうな笑みを浮かべながら枝にぶら下るエス氏を、彼の最後の作品とばかりに明るく照らし出していた。
高い年齢に達した老人が、長い間生きていたことを証明する証拠として、年の功以外には何も持っていない例がよくある。(セネカ)
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