21 憧れのねんきん生活(後編)

 「ねんきん」が我が家に届いてから、半年が経った。

 あれから、丁寧な飼育の成果もあってすぐに変形体となった粘菌は、僕に素晴らしい異性との出会いをもたらしてくれていたのである。

 それは、三ケ月ほど前の、ある日のことだった。

 粘菌の導きどおりに「朝」の「喫茶店」の「窓際の席」で食事をとっていた僕の目の前に、その彼女ひとは現れた。里美さとみさんという名の、僕よりひと回り下の年齢の独身女性だった。


「粘菌の導きで、エスさんと私はお会いできたんですね……。粘菌の能力って半信半疑だったけど、ホントだったんだ」


 そう言って、彼女はころころと笑った。

 聞けば、彼女も仕事一筋に人生を過ごし、気づいてみれば目立った恋愛のひとつもなかったのだという。僕とは話も合うし、趣味がないというのが趣味というのも同じで、僕らの関係はすぐに恋愛に及んだ。彼女と過ごす時間は、実に楽しかった。

 けれど、何かが違った。違うのだ。

 楽しければ楽しいほど、虚しさが募ってくるばかり。

 結局はそれが理由で、僕は彼女と別れることにした。昨日のことだった。

 涙を流し、別れを惜しんでくれた彼女。「私に何が足りないのか」と。

 彼女は気付いていたのだ。僕が、彼女自身ではない、何か過去の亡霊のようなものを彼女に求めていたのだということを――。

 僕は、そんな利発な彼女に後ろ髪を引かれつつも、その場を強引に押し切った。そして、お別れした。

 人生、頭で思い描くような理想の生活など、そんな簡単に手に入れることはできないようにできている、ということなのだろう。


 こうなると当然、これからの人生プランを練り直すことになる。つまりは「ねんきんプラン」を変える、という意味だ。我が家に「粘菌」が届いてから、約半年――まだ間に合うはずだ。

 そこで、改めて気づく。プラン4番の「粘菌生活」というものに。

 今まで興味がなかったから、よくその内容を読んではいなかった。

 が、このプランは他のものとは少し毛色が違うらしいのだ。自分自身が粘菌になるというか、粘菌と融合し、残りの人生を過ごすというものだった。


 ――粘菌として生きるのも、楽しそうじゃないか。


 決して、自棄ヤケになった訳ではない。

 逆に、前向きな気持ちといえた。心の底から、不思議なワクワク感が沸き上がって来たのである。

 僕は、瞬時に心を決めた。

 そして、僕のように独り者で、粘菌となった後の面倒を見てくれる人がいない人専用のサービスである「粘菌引き取りサービス」への申し込み書の記入とともに、ねんきん機構に対してプラン変更を連絡したのだった。



 それから、数週間後。

 申し込みから数日後にねんきん機構から送られてきた、やや黄色味を帯びたバクテリアの餌をしばらく粘菌に与えた。すると、僕の愛しい粘菌が、今までの淡いピンク色から目の覚めるような黄色に変化したのだ。

 取扱説明書によれば、これが人間との融合しどき――であるらしい。

 もう一度説明書を読み返し、その使用法で間違いないことを確認した僕は、口に当てたアメーバ状の粘菌が入った小瓶をゆっくりと傾けると、ごくり、一息にそれを飲み込んだ。

 刹那、今までの人生が、僕の脳内でフラッシュバックする。


 ――さらば、人間!


 自分の体が、みるみる黄色に変化していく。

 かと思えば、皮膚が透けて、まるでクラゲのような体になった。

 と同時に我が身を襲ったのは、地球の重力だった。体がそれに耐えきれない形で平べったくなり、床に押し付けられてしまったのである。

 気付けば、もうすっかり単細胞生物になっているではないか!

 床の上で、もぞもぞと這いつくばってみる。すると沸き上がってきたのは、不思議と柔らかな気持ちだった。なんだか、ほっとしたのだ。


 正直に言えば、今までの僕は人間に生まれてきたことに感謝し、他の生き物たちのことを、ある意味、憐れむとともにさげすんできたのだ。

 しかし、今こうして「粘菌」となってみると、なんだかそんな自分こそが、他の生き物から見れば憐みの対象だったのかもしれない――と思えてきた。

 そんなときだった。

 同じ細胞内に、他人の気配を感じたのである。

 温もり、といった方が適格な表現なのかもしれない。

 妙に懐かしくて温かい、気配だった。


「あなた……エスさんね」


 不意に、僕の名前が呼ばれた。

 もしかして、その声は――。そして、憶えのある、この温もりは――。


「美佐子さん!?」

「ええ、そうよ。お久しぶり。まさか、同じ細胞の中で再会できるとはね……。運命ってわからないものだわ」


 僕のひとつ上の年齢の彼女は、僕よりひと足先に定年を迎え、僕よりひと足先に粘菌になっていたのだ。


「美佐子さんも、粘菌になったのですね?」

「ええ……そう。エスさんとお別れした後、私、親に勧められた相手と結婚したの。子どもはできなかったけど、それなりに幸せな結婚生活でしたよ。でも、その夫に数年前に先立たれてね……。家族もいないし、粘菌になってみるのもいいかな、って」

「そうでしたか。僕は……あれからずっと独り者でした。結局、あなた以外の女性を心から好きにはなれなかったんです」

「んまあ! お上手ね」

「いえ、本当です。僕らの出会いは、まさに運命だったんですよ。ひとつ屋根ではなかったけど、ひとつ細胞の中で一緒に暮らすという――」

「そうかも……ね。これからはずっと一緒よ。よろしくね」

「こちらこそ、よろしくです!」


 こうして僕は、人生最愛の彼女ひととひとつになれたのだ。

 ねんきん生活、最高!






人生最上の幸福は、愛せられているという確信にある。(ユーゴー)

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