8 グラスヒールは冷たく光る
まるで、やんちゃ小学生男子が図工の授業の時間切れ直前になり、パレットにひねり出した絵の具を使って一気に塗りたくったかのような、青一辺倒の空――。
そんな青空が、朝からずっと広がっていた清々しい初夏の一日が終わろうとしていた頃のことだ。食品会社のルート営業を生業としているエス氏は、一日の仕事を終え、帰宅の途にあった。
「ふうぅ……今日もよく働いたな。風呂上りの後のビールが楽しみだよ」
通勤電車の車窓から見える、パノラマ模型のような夕焼けの街並みを見ながらエス氏が満足そうに呟く。
自宅最寄りの駅まで、あともう一駅。
このエコ全盛な時代に、スイッチを常に「強」に設定している自宅冷蔵庫の姿を思い浮かべたエス氏は、その中でキンキンに冷えた状態の缶ビールを冷凍庫で凍らせたグラスに注いだ最初の一杯目――その美味さを想像して、咽喉をゴクリと鳴らした。
三十五歳で独身、ここ一年ほどは彼女もいない彼にとっては、熱めの風呂に入った後に呑む冷たいグラスビールだけが人生の楽しみなのである。
そんなエス氏を乗せた電車が、最寄り駅に到着。
ビールの来訪を待ちきれない咽喉のために、普通なら駅から歩いて八分の距離をいつもより早歩きして六分ほどで完結させる。
細い路地の階段を上り切ったところにある、やや小高い位置に建った新しめの三階建てアパート、その二階部分の一室がエス氏の住居なのだが、一階はカーポートとなっているために実質は二階建ての建物なのだ。
実はその構造こそが、彼にとってのアパートへの不満だった。一階が空洞状態なので、冬になるとフローリングの床が冷えて仕方がないのである。
もう、すっかり日も落ちた。
自室の玄関扉の前に立ったエス氏は、暗がりの中、鍵をドアノブの下の鍵穴に挿しこんでドアを開けようとした。
が、鍵が開いていることに気付き、愕然とする。
今朝、鍵を掛け忘れて会社に出勤してしまったらしい。
「ただいまあ……」
当然、誰からの返事もない。ないはずだ。
そんなことなど織り込み済みとばかり、表情も変えることなく玄関に入ったエス氏が照明のスイッチを入れた瞬間だった。
エス氏の目が大きく見開かれ、その顔がぐにゃりと歪んだのだ。
(こ、これは……)
エス氏の視線の先にあったモノ――。
それは、玄関の靴脱ぎ場に置かれた片方のガラス靴だった。まるで王子さまとの再会を果たしたシンデレラが「もう用は無い」とばかりに、わざと置き忘れたかのようなガラス製のハイヒール。
グラスヒール、とでもいうのであろうか。右足用のものだけだった。
「俺の欲しいものはグラスヒールじゃなくて、グラスビールなんだけど……。て、ダジャレでもあるまいし、なんでこんなところに!?」
今朝の出勤時にまで記憶を辿ってみたものの、こんな靴が玄関にあったなどという記憶に辿り着かなかったことに、エス氏は背筋を凍らせた。
怯えた表情で、とりあえずは玄関からその奥に進むことに決める。
ヒールを大股で跨いで飛び越え、玄関に置かれた玄関マットに着地。そのまま振り向きもせずに一目散でリビングへ進む。すると、ダイニングテーブルの上に何やら一枚の紙が置かれていることに、エス氏は気付いた。
それは、置手紙だった。
手紙の横には、鍵も添えられている。この部屋の、玄関の鍵だった。
(ま、まさか……)
エス氏の脳裏に、一年前の酷く苦い記憶が甦った。
それは、かつての恋人、
「若菜、君の右足ってさあ、よく見ると左足よりほんの少しだけ短いよね」
部屋の鍵も渡して半同棲生活だった五歳年下の若菜が、西向き窓の傍に置かれた鉢植え植物に鼻唄混じりで水やりをしているときにエス氏から発せられた言葉だ。
「……」
手に持っていた小型のプラスチックじょうろをはらりと床に落とした彼女が、エス氏の方にゆっくりと振り返る。
その目は、まるで親の仇でも見ているかのような鋭い眼光を湛えていた。
両手の震えに合わせるように、部屋着のゆったりとしたシルエットのスウェットパンツもわなわなと震えている。
じょうろから零れた水が、じわじわと波紋のように、フローリングの床に広がっていった。
「あ、でもそんなに気になるほどじゃないし、厳密にいえば左右の長さが全く同じなんて人はいないって聞くしね……。それに、適切な治療院に行けば骨盤矯正とかでけっこう治せるらしいよ」
「…………」
エス氏のフォローの言葉も、全く効果はなかった。
若菜は、エス氏をじっと睨んで黙ったままだった。そんな彼女のまさかの反応に、ようやく事の重大さに気付いたエス氏が、寝そべっていたソファーから立ち上がって若菜の傍に寄ろうとした。
が、彼女はそれを拒絶し、突然外着に着替えだしたのだ。
「ちょ、ちょっと若菜……。ごめんよ、君を傷つけるつもりじゃ――」
「酷い……。それ、私が一番気にしてることなのに……ものすごいコンプレックスに感じてることなのに……。あんな云い方するなんて!」
「いや、ごめん。君がそんな風に思ってたなんて、知らなかったんだ」
「言い訳はやめて。聞きたくもない」
昨晩この部屋にやって来た時と同じ白ブラウスと長めのベージュのスカートに着替え終わった彼女が、一直線に玄関へと向かう。
「さようなら」
冷ややかにエス氏に別れの言葉を告げた彼女は、あの日、朝から広がっていた爽やかな青空に溶けてしまったかの如く、何処かへ消えてしまった。
――それっきり一年間、何も音沙汰がなかった若菜。
最初の頃は何度かエス氏から連絡をしてはみたものの、何も反応はなかった。一ヶ月も経った頃には、エス氏も完全に彼女のことを諦めた。
すっかり彼も忘れていたのだが、確かに彼女はエス氏の部屋の合い鍵を持ったままだった。鍵を渡したことのある相手は彼の人生で彼女しかいない訳だから、このテーブルの上に置かれたものは必然的に若菜から返されたものとなる。
「……」
手に取ってみると、それは間違いなくこの部屋の鍵だった。
恐る恐る飾り気のない白い便箋を手に取ったエス氏は、彼女の手により書かれたらしい手紙を、震える声で読み始めた。
『おひさしぶりですね、若菜です。お別れして一年たちましたが、この部屋の鍵を持っていたことに気付いたので、こっそり返しに来ました。あ、誤解しないで。元の関係に戻りたいとかそんなことを思っている訳ではありません。こんな女、もうまっぴらでしょう?
郵便受けに鍵を入れて帰ろう――とも思ったのですが、迷惑をかけてしまったお詫びの品も持って来ていて、それが郵便受けに入らなかったものですから、厚かましいとは思いつつも部屋の中に入らせていただきました。ごめんなさい。
その品物は、玄関ですでに見たと思いますがグラスヒールです。
見た目も綺麗だし、眺めているだけでもいい感じでしょう? ちょっと前に、とある貴品店で見かけ、気に入ったので購入しました。なんでもこのヒールは淋しがり屋らしく、片方だけにしておくと不思議なことが起きるとか起きないとか……。まあ、それは迷信とか都市伝説だと思うけど、よかったら部屋の片隅にでも飾ってやってくださいな。
それでは、本当にさようなら』
手紙の意味が飲み込めない、エス氏。
明るい文体ではあるけれども、何だか妙な感じがする。第一、いくら綺麗なガラスの靴だからと言って、片方だけを、しかも玄関に置いて去っていくのはやはり変だと思う。もう片方は彼女が持っていて、二人が「寄り」を戻すとか、妙な
(もしかして、手紙に毒が塗ってあるとか?)
しかし、そういう訳でもなさそうだ。
エス氏は、気もそぞろに夕飯を済ませると風呂に入り、帰宅前に想像した味とは程遠い鉛のような味がするビールをグイッとやって、早々に寝てしまったのだった。
★
次の朝。
充分な睡眠時間を取ったはずのエス氏だったが、眠りが浅かったせいか、何だか頭が重かった。体もぐったりして、だるい気がする。会社を休もうかとも考えたが、今日は大事な取引先との打ち合わせがあったことを思い出し、のそのそと出勤準備を始めた。
「さて、出かけるとするか……」
体のだるさもあって朝食をコーヒーだけで済ましたエス氏が、忌まわしき玄関へと向かう。
当然、彼の目に入ったのはきらりと冷たく光るグラスヒールだ。
その氷のような質感に背筋がカチンと凍りついた気がして、エス氏はシャーベットみたいな汗が自分の背中を流れていくのを感じた。
「これって当然、女性用だよな」
彼の素朴な疑問に答える者はいなかったが、何処からどう見てもそれは女性用だった。
というか考えてみれば、ガラス製の靴など魔法世界でもない限りそれは実用品ではなくて装飾品なのだ。とても男のごつい足が入るような代物ではないことだけは明らかだ。
なのに、気になって仕方がない。
いつもの黒い革靴に足を通し、そのまま玄関を出てしまえば何の問題も生じない。けれどエス氏は、玄関スペースで立ち止まったまま思案を重ねていた。
「俺の足が入るか入らないか、試してみるだけならいいかも……」
思い切って、震える右足をガラスの靴の空洞部分へぐいと押し込んだ。
ここらへんで止まるはず――そう思ったのに、足はそのままするすると奥まで入って行った。そして驚いたことに、エス氏の右足は踵まですっぽりと靴に嵌り込んだ。
男性としては小さめの足のエス氏だが、まさかのジャストフィットに恐怖心まで芽生えてくる。
「そ、そんな馬鹿な」
朝のとびきり忙しい時間に何をやっているのだろうと、自分で自分を疑ってしまう。
そんなとき彼の脳裏に浮かんできたのは、昨晩目にした、若菜からの置き手紙の言葉だった。
『淋しがり屋で、片方だけにしておくと不思議なことが起きるとか起きないとか』
淋しがり屋? 不思議なこと?
そんな曖昧な言葉からは想像もできないこの状態に、顔面が蒼白になる。
とにかく今は捕らわれの右足を何とかガラスの靴から外そうと、エス氏は懸命に足を揺すったり振ったりした。
が、右足が靴から抜ける気配はなかった。
ならば最後の手段――とばかり、力いっぱい靴を引っ張ってみる。
でもやっぱり、脱げる気配はない。
まるで、地獄の入り口に片足を突っ込んでしまったかのような、そんな感触を足の裏に感じた。
「やばい、どうしよう……これでは会社にも行けないぞ」
それから五分ほど玄関に座りこんでもがいてみたものの、時間の無駄だった。
気が動転したエス氏。それも、激しく。
だがそんな時ほど、頭はくるくるとよく回転するものらしい。エス氏は、このままガラスの靴を履いて会社に行く方法を考え付いた。
「そうか、靴を黒マジックで塗ってしまえばいいじゃん!」
そのままの格好で一度リビングに戻ったエス氏は、黒い油性ペンを小物入れから取り出して、グラスヒールを外側から黒く塗り潰していった。
「ふん……まあまあ、それらしく見えるな」
ものの数分で急に老け込んでしまったのかも――そう疑いたくなるほどに、急にエス氏の髪が白髪になった。そして隈と皺ばかりが目立つその顔から、引き攣ったような、奇妙な笑みが零れた。
とにかく会社に行かなくてはならない。
とにかくかいしゃにいかなくてはならない……。
トニカクカイシャニイカナクテハナラナイ――。
残りの左足をいつもの黒い革靴に収めたエス氏が、鍵も閉めずに玄関を飛び出した。
玄関で費やしてしまった無駄な時間を取り戻す――。
そんな思いで満たされたエス氏が、最寄り駅に向かって全力疾走を始める。右足と左足、交互に動かす度に靴は交互に違う音を立てた。
ガラス靴は高い音、革靴は低い音。
周りの人間が向ける奇異な視線など気にしている場合ではない。何故なら今の彼は、会社の始業時間に間に合うか否かの瀬戸際に立たされているのだから――。
「マダ、マニアウゾ!」
エス氏が、いつもの駅ホームに降り立つ。
一心不乱、髪を振り乱して走って来たお陰だ。幸い、電車待ちの列の先頭にも立てた。これなら次の電車に乗って会社の始業時間に間に合うだろう。
激しく動いたせいか、折角グラスヒールを塗り潰した黒い色が既にほとんど落ちかけている。でも今のエス氏にとって、そんなことなど微塵も気にならない。
とにかく、始業時間に間に合いそうなことにほっとする。
エス氏が獣の吠えたような安堵の溜息を漏らした、そのときだった。
線路二本を挟んだ向こう側のホームに、見覚えのあるひとりの女性が立っているのにエス氏が気付く。
白ブラウスにベージュのスカートというシンプルな装いの、その女の姿を――。
「ワ、ワカナ……」
エス氏が履いているグラスヒールの、もう片方のものと思われる透明な靴を左足に履いたその女は、ピクリともせずにこちらをじっと見据え、立ち尽くしている。
エス氏の隈だらけの眼が、まるで
女の右足に履かれた真っ赤なヒールが見た人に鮮血を想起させるせいか、恐ろし気な雰囲気を持つ女の周りに、誰も寄り付く様子はない。
エス氏の口元から、くぐもったような、多分人の声と思しき低い音がごろりと漏れた。
『もうすぐ電車が参ります。危ないので白線より後ろにお下がりください』
エス氏側のホームに、アナウンスが流れた。
その音に紛れるように、女はエス氏の右足――恐らく本当は、その先にある透明な靴――に向かって何やら呟く。
「最愛の相手の許に、戻りなさい」
電車の走行音に紛れて、当然、彼女の声は聞こえない。
だが、彼女の唇がそう動いたようにエス氏には思えてならなかった。
と、不意に見えない強力な磁石か何かで引っ張られたような、そんな不思議な感覚を右足に覚えたエス氏。
「ウワッ」
その力に対抗しようと、エス氏が踏ん張る。
が、その力は強く、耐えきれそうになかった。這いつくばるようにしてホームの床を移動し、そこにあった柱にすがりつく。けれど一向に、その力が弱まる気配はない。
右足の膝から下が、妙な熱を帯びて来たのを感じる。
と、次の瞬間。
ぶちり――。
なんの音だったのだろう……。
ホームに、電車の車輪音とは明らかに違う、生命体の一部が引きちぎられたかのような鈍い音が響いたのだ。
「ギャアア」
エス氏の悲鳴とともに、冷めた光沢を伴った小型飛行船の如き透明な物体が、真っ赤な箒星の如き「尾」を引き連れ、反対側のホームに向かって線路上空を飛行した。
辺りをのた打ち回る、エス氏。
ホームの何処かで、「救急車を呼べ!」という叫び声がした。
「これで、あなたの足も私のとおんなじ……ね」
そんな動きを、女の唇がしたときだった。
まるで右と左の足の長さが違うかのような動きをしながら、エス氏がよろよろと前に歩き出した。
あと数秒で、電車はホームに到着――。
それを見計らったかのように、エス氏が覚束ない足取りで更に前へと進み出る。
かつての最愛の
何かが爆ぜるような鈍い音とともに、電車がホームに到着した。
それと同時のことだった。エス氏の姿が、電車のホームから――いや、この地上から永久に消え去ったのは。
後には、両足にグラスヒールを履いたひとりの女の怪しい笑顔だけが残った。
愛は与える本能である代わりに奪う本能であり、放射するエネルギーである代わりに吸引するエネルギーである(有島武郎)
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