9 帰宅したら時限爆弾の音がした
高層ビル群の谷間に覗く、猫の額ほどの広さの真夏の夜空。
その夜空の一角に息も絶え絶えな様相で浮かぶ星々――それらを自ら吐き出した溜息でじっとりと湿らせたのは、三十八歳で未だ独身のエス氏だった。
勤務先は、とあるIT企業のプログラム開発部だ。
そこで主任を務める彼にとって、ほろ酔いで帰宅するのは彼の人生のなかでもかなりの珍事だった。
(それにしても
会社では、強面で希代稀な堅物として通っているエス氏が、まるで焼きたてメロンパンのような艶と香りを伴った柔和な笑顔でもう一度空を見上げた。そんな彼がこんな風に顔をとろかせたのには
それを説明するのには、今朝の9時半頃にまで時間は遡らねばならないが――。
それは、エス氏にとって毎朝のルーティーン、お気に入りの市販品ドリップコーヒーを淹れにマイカップを持って会社の廊下を給湯室へと向かっているときだった。小走りで廊下の向こう側からやって来た、少し前から社内で見かけるようになった中途入社らしき若い女子社員の右半身に、彼の右肩が勢いよくぶつかってしまったのだ。
「キャッ」
お尻で眼鏡を踏んでしまったかのような声を上げたその女子社員は、手にしていた紙の資料を廊下にぶちまけ、廊下の端に弾き飛ばされてしまった。歳は二十代前半くらいだろうか。やや茶色掛かった肩くらいまでの長さの髪が、彼女の横顔を覆う。
三十八歳の独身男性の空虚な心をくすぐるのには、十分な儚げさがそこには溢れていた。
「ああ、ごめん。大丈夫?」
そんなに大柄ではないエス氏だが、何か武術でも心得ているのか、意外と筋肉の付いた腕で廊下の壁にしな垂れるように倒れた事務員、
「ええ……。こちらこそ、ぼーっとしてたようですみません」
余程のショックなのか、気もそぞろに返事して呆然と立ち尽くす彼女。
薄く紅を注したようにほんのりと赤らんだ彼女の頬の可憐さに、内心はドキリとした彼だったが、それを見破られてはなるのものかとマイカップをスラックスのポケットに突っ込むと、手当たり次第に廊下に散乱した書類を彼女の代わりに拾い上げ、それを彼女に手渡した。
「これで書類、全部? 確かキミ……総務部の長谷川クンだったよね。今度、お詫びに夕飯でも御馳走するから許してよ」
それは、エス氏にとっては軽いジョークだった。
第一、イケメンでもなくとっくに中年の仲間入りを果たしている年頃の彼がそんな言葉を吐いたところで、ひょいひょいと若い女性が付いて来ることなど普通ではあり得ないのだ。エス氏は、自分の立ち位置を充分理解している積りだった。
だが若い彼女の口から出た言葉は、エス氏にとってかなり意外なものだった。
「それなら……今晩、お願いできますか?」
「えっ?」
両手で書類を抱えながら、益々のその頬を赤くした彼女。
更なる激しい心臓の動悸に襲われた彼だったが、そんな気持ちなどおくびにも出さないようぴくぴくと動きそうになる頬の筋肉を固め、ポーカーフェースを維持する。
なにせ人生百戦錬磨の彼だ。こういう条件下での表情の操作には、慣れている。
「うん、わかった……。落ち合う時間と場所を社内メールで送るから後で見ておいて」
「はいっ。よろしくお願いします!」
はにかみながら斜めに頭を下げ、彼女が小走りで執務室へと戻ってゆく。
白いブラウスに包まれたその細い背中に見惚れてしまったエス氏だったが、ふと我に返った。
(えっと俺、一体何をしにこっちに来たんだっけ?)
意識しないと勝手に広がってしまいそうになる口角を必死に押しとどめ、珈琲を淹れるために再び給湯室へと向かう。だが今、エス氏の頭の中は珈琲よりも“今夜の食事場所”を考えることで精いっぱいだった。
――その日の夕方、十八時半。
エス氏は会社帰りに時々一人で訪れる、最近お気に入りの店になったスペインバルの店に居た。勿論、その向かいの席にはエス氏とは大変不釣り合いなほどに綺麗な女性の姿がある。
深い赤みを呈した液体が注がれたロングのワイングラスが、エス氏の右手の中で揺れている。
「いやあ、正直びっくりしたよ。キミみたいに若くて美しい女性に、こんな冴えない僕が声を掛けられるなんてね」
「声を掛けただなんて……。私はただ、自分がご迷惑をかけたお詫びが云いたかっただけで――というのは嘘ですね。本当は、前から気になってました。主任のこと」
「ほ、ホントに?」
「ええ……ホントに」
少し前に二人の間を分かつテーブルの上に運ばれた、メインの
普段はほとんど表情を変えることのないエス氏。だがこの時ばかりは微かに微笑んだ。
「あ、そういえば――」
思い出したように、パンと手を一度叩いてから、高いトーンの声を出した愛美。
そして、手元にあったハンドバッグの口を開き、その中からじゃらじゃらと音の鳴る鍵束を持ち出した。
「これ、主任の持ち物じゃありませんか?」
「えっ!? 僕の持ち物だって?」
確かに、その鍵束にエス氏は見覚えがある。
驚いた表情を見せたエス氏に愛美は小さく微笑んで、その鍵束をゆっくりと手渡した。
見た目や手触り――どれを取っても彼女から手渡された鍵束は、エス氏が普段スラックスのポケットに入れて肌身離さず持ち歩いているものと同一の物体だった。ポケットに急いで手を突っ込み探ってみたが、やはりそこにない。
エス氏はそれが正真正銘、自分のものであると確信した。
いつもはぼんやりとしたエス氏の目が少しだけ細くなり、鋭さを湛えてゆく。
「うん、これは僕の物だよ。でもどうしてこれを……キミが?」
「ごめんなさい、どうやら朝にぶつかったとき、私の荷物に紛れてしまったみたいで……」
「なるほど。そうだったのか」
「ええ、すみませんでした……。でも良かったです、お返しできて」
「とにかく、ありがとう。これが無かったら自宅には入れないしね……助かったよ」
そんなお礼の言葉とは裏腹、エス氏の目付きがやたらと険しいものとなる。
受け取った鍵をあちこちの角度から観察していた彼だったが、やがてそれをスラックスの右ポケットに音もなく戻した。その険しい目付きも、普段のぼんやりに戻る。
実を云えばこの時の彼は、少なからず動転していた。
なにせこの百戦錬磨のはずの自分が、相手は可愛らしい女性とはいえ、一声を掛けられた程度で鍵を無くしたことに気付かなかったのだから――。
(恋は盲目)
そんな言葉を、嫌が応にも脳髄の片隅で思い出したエス氏だった。
「……まあ、今はとにかく、食事を楽しもう」
「ええ。そうしましょう、主任」
店のガラス窓から見える小さな星空の下、初デート特有の初々しさを含んだ会話や何杯かのワインを楽しみ、近い将来の再会を約束して二人は別れた。
☆
(今日は楽しかったな……。でも、自分の身分をわきまえなきゃ)
マンションの自宅玄関ドアの前に立ったエス氏が、自分のだらしなく緩んだ頬をパンパンと叩きながら思った。
それでもやはり、今日のエス氏は気分がいい。
珍しく鼻唄混じりに玄関ドアを開けたエス氏が、ドアを閉めると直ぐに玄関でしゃがみ込んだ。ほろ酔い気分もついと消え失せた顔になり、その両眼を頻りに動かしながら耳を澄ます。
「何だ、このカチカチと響く音は――もしかして爆弾か!?」
確かに、誰にも聞こえないような小声でエス氏が呟いた通りだった。
無人のはずの部屋の奥から、夜の静けさに紛れるほど微かなものではあったが、まるでひと昔前の時限爆弾のタイマーが作動しているかのようなカチカチ音が聴こえて来たのだ。胸の動悸が治まらないのか、エス氏はスーツ上着の左胸辺りを右手で押さえつつ、自宅の奥へと進んで行った。
音の立たぬようスリッパも履かず、抜き足差し足、フローリングの廊下を歩く。
やがてリビングまでたどり着いた彼が目にしたもの――それは、彼の代わりに部屋の掃除を一手に引き受けるロボット掃除機が、リビングの隅に置かれた充電ドックの所でカチカチコチコチ、異様な音を発している姿だった。
「おお、ルン坊だったか。どうした!」
家族もなく天涯孤独の身のエス氏にとって、そのロボット掃除機は家族同様の存在だった。ロボット掃除機に「ルン坊」という名前まで付け、部品交換やら細部に詰まった埃の清掃など、普段からマメに手入れをするほどにエス氏はその掃除機が気に入っていた。
その「ルン坊」が、まるで高熱を出した子どもが歯をカチカチといわせているかのような、妙な音を出しているのだ。彼にとってそれは、まさに家族からのSOS以外の何物でもなかった。
すぐに充電器から掃除機を取り上げ、掃除機の状態を確認する。
「うわっ、熱ッ!」
バッテリーが格納されている辺りの底面が熱を持ち、酷く熱い。
よく見ると、充電するための接点金具が外れかかっている。どうやら接点不良により、聴き慣れない音がしていたようだ。
「まあこれなら、金具とバッテリーを取り換えれば“治り”そうだね。カチカチなんて爆弾みたいな音がしてたから、俺はてっきりKGBかCIAにでも命を狙われたのかと思ったよ。ははは……」
ほっとひと安心、胸を撫で下ろしたエス氏。
だがエス氏にとっては、何度も云うが掃除機は大事な家族なのだ。ある意味この状態は、CIAなどに命を狙われることよりも由々しき事態である。
電気的知識があまりないエス氏だったが、とりあえず応急処置を試みてみる。
タンスにしまってあった工具箱の中からドライバーセットを取り出したエス氏は、マイナスドライバーで外れかかった金具の不具合を整え、充電ドックに戻した。すると、カチカチという不穏な音はしなくなった。
「よし。とりあえず……これでいいかな」
満足そうに頷いたエス氏が、そう思った矢先。
満月のようにまん丸のルン坊の躯体から白い煙がシュワシュワと噴き出してきて、鼻を衝くキナクサイ
(やばっ!)
慣れた身のこなしでテーブルの位置までダッシュし、目にもとまらぬ速さでそれを横倒しにした。爆発物対策用のバリケード、といった具合。
ぼんっ。
聞こえてきたのは、小さな爆発音だった。
恐る恐るテーブルの向こうを覗いたエス氏が見たのは、
ほっとしたエス氏が、安堵の溜息を吐く。
「やっぱり俺の命が狙われた……? いやいや、そんなことないよな。ただの電池のオーバーヒートだ、きっと。うん」
しかし、ただひとつ明らかなことは、ここ数年彼のために身を粉にして掃除してくれたルン坊が、もう動いてくれそうもないということだった。大事な家族を亡くし、巨大な喪失感に見舞われたエス氏が、がっくりと肩を落とした。
そんなときだった。
久しぶりにエス氏宅の固定電話機――
(電話だって? こんな時間に……)
やっぱりエス氏は、少しばかり酔っていたのだろう。
普段ならナンバーディスプレイや留守電機能で相手を確かめてから電話に出る彼が、今日はそのまま無防備に受話器を取り、応対してしまったのだ。
「もしもし?」
だが、無数に開いた受話器の穴から相手の声が流れて来ることはなかった。
「なんだよ、無言電話かよ。お前、何処の誰だ!」
と、そのとき感じた違和感。
確かにその電話機はエス氏の使っている機種だったが、何かいつもと違う手触りを感じる。使い込まれていないというか、新品そのものというか――。
その瞬間、エス氏の目の前で電話機のディスプレイが点滅しだした。それに呼応するかのように、ぐにゃり、大きく歪んだのはエス氏の表情。
『ターゲット音声、S国諜報員のものと一致。自爆します』
受話器から流れてきたのは、人間の声ではなくシンセサイザ的な人工音声だった。と同時に、鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟き、すぐに強烈な爆風がエス氏を襲う。
先ほど感じた喪失感による心の穴と同じくらい大きな穴――。
それが、住居の壁とエス氏の肉体の真ん中にぽっかりと空いた。
この世の何処かに消え失せた爆音に代わり、夜の静寂の中、蒼く冷めた月が壁穴の向こう側でひっそりと浮かんでいた。
ラクダの唇は垂れているが落ちはしない。(セネガルのことわざ)
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