10 インターホンは答える(前編)

 猛暑の続いた夏も過ぎ去り、ようやく秋らしい風が吹き始めた頃。

 くっきりと丸い、都会にしては綺麗な宵の月が夜空に浮かんだのに対し、腐海の如くよどんだ空気の飲み屋街で酔いに酔ったエス氏には、まるでツキがなかった。

 会社を出るまでは良かったのだ。

 顧客の接待場所に向かおうと会社ビルを出たときに正面に見た満月は、その完全な丸さといい艶のある色といい大きさといい、日常の雑務で疲れたエス氏の心と体を深い幸福感で包んでくれた。思わず立ち止まって見惚れてしまうほど、エス氏の人生の中でも一、二を争うくらいの美しさ。

 その夜、彼にツキが無かったのは寧ろ当然なことなのかもしれない。

 なにせ、そんな一生に一度見るか見ないかの月を見ることにすべてのツキを使い切ってしまったのだろうから。


 営業畑一筋の勤続二十年、今年四十三歳のエス氏。

 慣れた調子で、毎週の接待をこなし続ける。この日も、いつもと変わらず調子よく進んでいた接待だったが、今日の体調が良すぎたのが返って悪かった。

 二次会で入ったスナックで、既にエス氏は酩酊状態。カラオケのマイクを独り占めにしてしまったエス氏に、客先の部長は顔を真っ赤にして激怒した。十八番おはこの「すばる」も唄わないまま帰宅してしまう、という始末だったのだ。


「ふん。あんな奴、客じゃねえや」


 酒の勢いで気の大きくなったエス氏が、捨て台詞を残して店を去る。

 明日、客先からクレームを受けた上司から小言を喰らうのは必定だが、今はそれに気付かない振りをしたエス氏は、別の行きつけのスナックでたった一人の三次会を開くことにした。

 そこでも、エス氏は下手なカラオケをヤケクソ気味にがなり続けた。

 だが、エス氏得意のミスチルの曲を歌った後のことだった。境にテンションが急降下したエス氏は、泣き上戸へと変化した。三か月前に成立した離婚のことを思い出したのだ。

 今年中学にあがったばかりのひとり娘の親権は、元妻のもの――。

 娘の顔を毎日見れないのが淋しいと、十ばかり年齢が上のママに散々泣きついた。


 だがそんな彼にも、他のサラリーマンと平等に最終電車の時間が近づく。

 ママに促されて渋々店を出たエス氏は、よたつく足でアルコール臭い息を吐くサラリーマンたちで溢れる駅へと向かい、間一髪、最終電車に滑り込んだ。すると、一駅も経たないうちに寝入ってしまい、気付いたときには後の祭り、彼が辿り着いたのは自宅最寄り駅から何駅も通り越した、終着駅だった。

 結局、家に帰るのに一万円ほどのタクシー料金を支払うことになる。


「あーあ、今日はツイてない」


 ようやく酔いの醒め始めたエス氏が、タクシーを降りるなり、そう呟いた。

 タクシーを降りてから、自宅玄関まで数メートル。

 その間、エス氏は次の休日ではベッドの中で一日中過ごすことを夢見ながら、疲れ果てた心身を引き摺るようにしてようやく玄関前に辿り着いた。会社のある都会から電車に揺られること約一時間、ごく普通の住宅地にあるごく普通の四角い形の一軒家だった。

 かつては、妻と娘と三人住まいだった家。だが今では、彼専用の住まいとなっていた。今更ながら、一人では広すぎるこの場所を彼女らに渡し、自分が外へと出て行くべきだったと後悔する。


「いや、俺にはクンネがいる。一人暮らしなんかじゃない!」


 そうなのだ。

 細かいことを云えば、そこは彼専用の住まいではなかった。最近、同居することになった黒猫のクンネも一緒なのだ。

 いつの間にやら庭に住み着くようになった猫を、一ヶ月ほど前、エス氏はクンネと名前を付けるとともに自分の飼い猫とした。そういう経緯だから、どんな素性の猫かはわからない。が、毛並みの色つやと普段の動く動作の機敏さなどから、一歳程度の若い雄猫とエス氏は考えていた。


 家の中でお腹を空かせて彼を待っているであろう、愛猫のことを思い出したエス氏は、急にクンネが愛おしくなった。

 仕事とはいえ、こんな遅い時間まで飲み歩き、彼を放っておいた自分に嫌悪する。

 エス氏は「ごめんよ、クンネ」と呟きながら、自分が帰宅したことを知らせようと、つい、インターホンの呼び鈴を押してしまった。

 実はこのエス氏、以前から酔って帰って来ると妻や子に自分の帰宅を知らせるために呼び鈴を鳴らし、就寝済みの妻や子にひんしゅくを買うという癖――謂わば悪癖を持っていたのである。それが離婚の原因の一つと成ったかどうかまでは、解らないが。


「ああ、そうか! クンネじゃインターホンに出られないよな。失敬、失敬」


 エス氏は、最近やや生え際の淋しくなった頭の毛をぼりぼりと掻きながら、返事の来るはずのないインターホンに詫びた。

 だが、そのときだった。


『はい?』


 インターホンのスピーカーから、イラついた若い男性の声がしたのだ。

 一気に酔いが醒めた、エス氏。

 提げていた黒のショルダーバッグを肩から落としてしまうほど動揺し、慌ててインターホンに向かって返事する。


「す、すみません! 家を間違えてしまいました。夜遅くに、ごめんなさい!」


 ピンポンダッシュする小学生の気持ちで、その場から走って逃げ去る。

 暫くの後、息を切らせつつ後ろを振り返ったエス氏は、酔っていたとはいえ自宅を間違えた自分に猛反省した。確かにこの辺りは建売住宅が多く、似たような形や色の建物が多いのではあるが――。


「や、やっちまった……今の、どこの家だったんだろ。高校生の息子さんのいるお隣の山田さんちかもな。明日、謝りにいかなきゃ」


 エス氏は暗い夜道の中、元いた場所へゆっくりと歩いて戻った。

 先程の反省から、今度は表札もよく確かめ、そこが自宅であることを確認する。

 しかし、エス氏は不意に気になった。

 家の佇まいや玄関前の雰囲気――どう考えても・・・・・・さっきもここでインターホンのボタンを押したような気がしてならない。


 ――もしそうなら、今この家で何かとんでもないことが起きているはずだ。


 急に寒気がエス氏を襲った。

 いや、実際に身震いして背中が震えていた。

 普通ならここで、警察への連絡を思いつくだろう。だがエス氏はテンパっていた。そういった意味でもエス氏はツイていなかったのだ。日付が変わっても、それは変わらなかった。


 そんなツイていない彼が次に移した行動は、再びのインターホン鳴らしだった。

 何かの間違いであってくれ――そう願いながら押したインターホンのボタン横のスピーカーが、再び男の声を吐き出した。


『はい?』

「……」


 エス氏は、もう一度表札を見てここが自分の家であることを確認すると、真夜中の住宅街ということも忘れ、絶叫した。


「おい、お前一体誰なんだ? どうして俺の家にいる?」

『へ? こんな夜中にインターホンを鳴らしといて人を泥棒呼ばわりするとは失礼な……。ここがアンタの家だって? そんな訳ないだろ、だってここは俺の家なんだから』

「はあ? お前がエスだと? ふざけるな、エスは俺だ!」


 エス氏の絶叫が、ご近所の人達の目を覚まさせた。ちらほらと周りの家の明かりが点いてゆく。しかし、自宅の窓は暗いまま。見た目、どの部屋の電気も点いていなく、誰の気配も感じない。

 だが、インターホンは答えた。

 この家にエス氏以外の誰かがいることは間違いないのだ!

 切羽詰まったエス氏は、髪の毛をバリバリと掻きむしった。

 そして、腹の煮えたぎる思いでガチャガチャと玄関の鍵を開け、自宅の中へと飛び込んだ。


「おい、出て来いコノヤロー! 誰だよ俺のフリしてこの家にいる奴は! 見つけたら、ただじゃおかねえからな!」


 だが、エス氏の問いかけに返事をする者はいなかった。

 廊下をずかずかと歩いてゆき、インターホンのあるリビングへ突入。電気をパチリと点けたが、誰の人影も見当たらない。部屋を荒らされた形跡もない。


 ――遊び半分の嫌がらせなのか?


 一人暮らしで備品も少ない部屋では、隠れられる場所も少ない。

 リビングには潜伏していないと判断したエス氏は、猛然と他の部屋に移動して、不届きな侵入者を捜し始める。


「おい、どこ行った。今すぐ姿を現せ! 警察に突き出してやるッ」


 今は使わなくなった型の古いゴルフセットの6番アイアンを振りかざしたエス氏が、猛然と寝室のクローゼットの扉を開けたときだった。エス氏は、その足先にふわりとした柔らかい感触を感じたのである。

 それは、愛しのクンネだった。

 吊り上がったエス氏の目尻が、ふっと緩んだ。


「ああ、クンネか……。ところで、変なヤツがここに来なかったかい? 今、捜してるんだけど……」


 クンネは首輪に着いた鈴をちゃらりと鳴らしながら、ただ首を傾げただけだった。


「まさか……。クンネ、お前がインターホンに答えたなんてことは……」


 その質問にクンネは何も答えなかった。

 その代わりに、お腹が空いたとばかりにエス氏の足元に擦りつくと、瞳を潤ませて「にゃあ」と鳴いた。


「……うん、そんなことある訳ないよね。変なこと云ったな、ごめんごめん。お腹空いてるだろ? 今、ご飯あげるから」


 結局、家の中に不審者は見当たらなかった。家も荒らされた形跡はなく、愛猫も健在だ。

 はてな、と首を傾げたエス氏。

 急に、今の自分がバカらしくなってくる。


「きっと夢か何かを見てたんだ……。もしかしたら、『猫になりたい』とかいつも口癖のように云ってるから、変な幻聴を聴いちゃったのかも……」


 ため息混じりでそう嘆いたエス氏に、クンネは励ますように優しく「にゃあ」と鳴いた。

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