2 夢のお告げにも理由がある
いつもと同じ――そんな朝だった。
敬意を込めて、或いは軽蔑の念から会社の同僚たちに「エス氏」と呼ばれる俺は、40代にもなってもまだ独身の身だった。
柔らかな唇の間から発せられるスイートボイスで辛い朝を起こしてもらう――などという夢のような出来事は、間違っても起こらない。もう20年は使っている置時計型の目覚し時計が、俺の妻代わりだ。
しかしよくよく考えてみれば、今どき妻が耳元で甘い声で囁くようにして夫を優しく起こすなんてこと自体が、ただの古臭い幻想のような気もしてくる。
とにかく、スマホの電子的な目覚し音が癪に触って好きになれない俺は、昔ながらの目覚し時計を愛用し続けていた。
カーテンの隙間から零れる日射しを忌々しく思いながら上半身を懸命に持ち上げ、ベッドから起き上がろうとした、その時だった。
何か奇妙な感覚が、起きた瞬間から頭の奥にこびり付いていることに俺は気付いた。
記憶の残滓ともいうべき、その感覚を。
――どうやら、夢を見たらしい。
いつもなら夢を見たとしてもすぐにその内容を忘れてしまう俺にとって、それは珍しいことだった。何を見たのか、鮮明に記憶が残っているのだ。
といってもすごく短い夢だし、別に不思議でも何でもないのかもしれないが。
『とある晩、会社から戻った俺が自宅賃貸マンションの風呂にゆっくりと浸かっている。すると突然、火災報知機がけたたましく鳴り出し、大いに慌ててしまう。けれど自分は裸の格好であり、すぐには逃げられない。「とにかく逃げよう!」そう叫んだ俺は、ざばりと音を立てながら湯船から飛び出した』
とまあ、こんな感じの夢なのだが、言ってしまえば特になんてことはない夢だ。
けれど、いつまでもそんなとりとめのない夢に付き合っている暇はない。今日だって明日だって、そしていつだって、会社はあるのだ。それに最近、管理職になったばかりでもあるし、遅刻などもってのほかである。
やっとのことで決意してベッドから跳ね起きた俺は、パジャマ姿のままリビングへと移動した。
ポチリ――。
テーブルの椅子に座りながらリモコンの赤いボタンを押し、テレビの電源を入れる。
『さて、次のニュースです。昨夜11時ごろ、
――ん? 札川市ってここだろ。
急に、ニュースが身近なものとして自分の側に擦り寄って来た。
普段は別世界の出来事としてニュースを見ているくせに、知っている地名や身近な人が出てきた途端に急に現実世界と変わるのだから、人間なんて勝手なものだ。
テレビ画面が、既に現地に乗り込んでいる若い女性リポーターの画面に切り替わる。
――この場所、見覚えがあるな。
火事の現場は10年前に今のマンションに引っ越してくる前まで住んでいた場所にほど近く、何回か行ったことのある焼き鳥屋やパチンコ屋など、映像の2次元世界と自分の脳内世界が一致することに妙な感動を憶える。
この時点でニュースは“身近”を通り越し、まるで自分のための報道と化した。
朝飯の支度も忘れ、増々テレビに見入る。
朝から表情をキリリとさせたリポーターが、この建物は古い元旅館で現在は民間が運営する身寄りのない低収入なお年寄りが集まる施設らしい、と告げた。多分、スプリンクラーなどの消火設備も不十分だったのであろう。
――この世は弱い者に皺寄せが来るシステムになってるな。
溜息混じりにテーブルの席を立とうとした、その時だった。
テレビ画面に、俺をその場所に釘付けにさせてしまうほどの見覚えのあるものが映ったのだ。
それは、とある人物の名前だった。
『
犠牲者のうち、既に身元が確認された人物。
「まさか、佐々木のおじさん……なのか?」
社会人になって間もなくの頃、まだ給料の安かった俺は、その頃知り合った友達と二人で賃貸マンションの一つの部屋をシェアしていた。
その部屋の隣に住んでいたおじさんの名前が、『佐々木 裕一郎』なのだ。歳の頃もぴったりである。
脳裏に、10数年前の快活なおじさんの姿が浮かんだ。
「たまに夕飯でも御馳走してやるぞ」と言われ、すぐに友達と二人で訪ねたおじさんの部屋。ローテーブルに載せたおじさんの振舞い鍋を男三人で囲み、酒を酌み交わしながら、しょうもない話に破顔して楽しそうに笑う、おじさん。
若い時に離婚して子どものいなかったおじさんは、隣人である若い二人の男にいつもやさしく接してくれた。それはまるで、自分たちを本当の息子とでも思ってくれているかのようだった。
テレビに、写真情報はなかった。
そんなありふれた名前は世の中にたくさんあるだろうし、できることなら人違いであって欲しい――そんな思いが募って来る。
けれど、昨日の夢の内容が気になった。
普段あまり夢を見ない俺が、たまたま火事の夢を見たとでもいうのか。しかも、夢を見たであろう時間と火事の起きた時間は、ほぼ同じなのだ。
――おじさんが、あの世に行く前に俺に最後の挨拶をしに来たのかも。
背筋に、ビリリとした冷たいものが走る。
普段、そういうことは信じないタイプの人間だが、おじさんの安否と夢の関係が気になって何も手に付かない。
居た堪れなくなってテーブルの上に置かれた携帯電話を手に取った俺は、20年来の親友、そしてかつてルームメイトでもあった同い年の
何回かのコールの後、織田が電話に出た。
「ああ、織田君? 朝からすまん。ところで、朝のニュース見たかい? 俺たちが一緒に住んでた場所のすぐ近くで火事があったみたいだぞ」
『ん? 何だよ、いきなり。申し訳ないが僕は今、テレビを見られる状況にないんだよ』
「そうなの? ああ、それより大変なんだよ。その火事でさ、俺たちがお世話になったあの佐々木のおじさんが――もちろん憶えてるよな?――亡くなったみたいなんだ」
『本当に? でもそれって、まだ確定情報とかじゃないんでしょ?』
「ああ、確かにそうなんだけど……。実は俺、昨晩、変な夢を見てさ」
『変な夢? 一体それが、佐々木さんと何の関係があるんだ?』
織田が、電話の向こうで怪訝そうな声を出した。
その調子につられたのか、俺の声が秘密を打ち明けるているかのような、ぼそぼそ声になる。
「いや、それがさ……。昨日、ちょっと疲れてて寝るの早かったんだよね。それで11時前に床に就いたんだけど、まだ浅い眠りの時あたりに夢を見たらしいんだ。それがちょうど、火事の起きた時刻なんだ」
『それで?』
「その夢の内容がね、“風呂に浸かっていたら、突然マンションの火災報知機が鳴ってすごく慌てたけど、とにかく逃げようと裸のまま風呂場から外へと飛び出した――”っていう感じの夢なんだ。どう考えても、昨晩の火事と無関係とは思えないんだよ。だから、おじさんが亡くなる時に魂だけ俺の所にやって来て、そんな夢を見させたんじゃないかと――」
『あはははは! 本気でそんなこと言ってるのか?』
電話の向こうで、織田が音が割れんばかりの大声で笑う。
声の調子には出さないよう苦労したが、俺はかなり不機嫌な気持ちになった。
「何がおかしい? 俺は真剣に言ってるんだぞ」
『ああ、すまんすまん。だが、相変わらず君は思慮が足らないな。そこだけは、全然変わってない。物事には必ず理由があるものだよ』
「理由? まさか、消火活動をする消防車の音が聞こえたからそんな夢を見たとでも言いたいのかい? それなら、あり得ないよ。だって、このマンションは結構防音がしっかりしてるし、ここから現場まで軽く1キロ以上の距離があるんだよ。そんな音なんか、聞こえる訳がない」
それを聞いて、再び大声で笑い出した親友。
全身の血が頭に昇って行くのを感じる。
何がおかしいともう一度訊くと、ひとたび息を整えてから、彼は言った。
『あのな、そんなに多くの犠牲者を出してしまった大きな火事だってことは、市内からかなりの数の消防車をかき集めたはずなんだよ。だから、そこが現場から距離があったとしても、駆けつける消防車が君の家の近くを通る確率は結構ある訳だ。僕は良く知ってるけど、消防車のサイレンの音ってかなり大きいからね』
「ん? てことは、つまり……」
『そう――論理的に考えれば、君は現場での消化活動時の音ではなくて、移動中の消防車のサイレンを眠りに就く前の薄れる意識の中で聴き取ったんだ。それが契機となって、夢を見たんだろう。そして翌朝、テレビのニュースを見てその偶然性に驚いた君は、慌てて僕に電話をかけてきた、ということだな』
「ふむう……」
言葉に詰まる。
電話の向こうで得意げに踏ん反り返る織田の姿を想像すると腹も立ったが、今まで自分を覆っていた灰色の靄みたいなものが消えて行くのを感じ、何だか穏やかな気持ちになった。
彼の言葉にはかなりの説得力があったからだ。
やっぱり、一見不思議に思えても、物事にはきちんとした“理由”があるのだろう。
「そうか、なるほどな。それならば確かにすべての説明がつく」
『だろ? 落ち着いて考えればどうってことはないさ。それよりさっきの話だけど、亡くなった人が僕たちの知る佐々木のおじさんでないことを祈るよ。亡くなった方には悪いけど』
「ああ。それはきっと、これからの報道でわかるだろう……。すまんな、朝から妙な電話に付き合わせちゃって」
『いや、どうってことはないさ。近々、君とは会える気がするから、そのことはそのときゆっくりと話すとしよう。それじゃあな』
「おう。それじゃあ、またな!」
心が落ち着いた俺は、旧友に礼を言ってから電話を切った。
時計を見ると、知らぬ間に結構な時間が過ぎていたのに気付く。
「うわッ、早く支度して会社行かなきゃ」
急いで歯を磨いた。
そして、いつもの朝食代わりのコーヒーを諦めた俺は、慣れた手つきで純白のワイシャツの上に紺のスーツを着込んだ。
「さて、行くかな」
姿見の大きな鏡の前で、身だしなみの最終チェックをする。
玄関に行き、靴を履こうと屈んだ時だった。
胸ポケットの中のあった黒い革製の名刺入れが、ぽたりと床に落ちた。床の上で、名刺入れがばさりと開く。
その衝撃で、自分の名前と役職の書かれたたくさんの名刺と、名刺入れの中に忍ばせてあった一枚の写真が玄関に散らばったのだった。
「こ、これは……」
写真に向かった視線が、凍りついてしまって動かない。
それは、俺にとって忘れられない写真だった。10数年前に撮ったもので、それ以来、肌身離さず、名刺入れに入れて常に持ち歩いていた。
大切な、我が青春の思い出だ。
写真には、ソファーに座る佐々木さんとの頭上で、アルコールで頬を赤らめながら肩を組み、にこやかに笑う俺と織田の姿があった。いつかの鍋のとき、タイマー撮りして撮ったものだったと思う。
「こんなときにこんな写真が出てくるのにも理由があるんだよな、織田君」
床に落ちた写真を手に取った途端、背中に再びの寒気を感じた。こんなにも偶然とは重なるものなのだろうか?
親友にもう一度電話を掛けてみようと、携帯電話を手に取った。
『お客様がお掛けになりました電話番号は、現在使われておりません』
小さなスピーカーから耳に届いた台詞に思わずびっくりし、端末を見遣る。
メモリーされている電話帳を開いて織田に掛けたはずが、なぜか俺の耳元で繰り返されたのはそんな機械音声だった。
――おかしいな。手元が震えて操作を誤ったのかも。
今度は、携帯の通話履歴から掛け直すことにする。
が――見つからない。
つい先ほど掛けたばかりの通話履歴が、きれいさっぱりと消えているのだ。
「一体、どういうこと――」
と言いかけた口が、突然閉じた。
そうなのだ。
俺は重要なことを忘れていたのである。最も、重要なことを。
織田はちょうど3年前、彼の住んでいたアパートの火事で亡くなっていた。入浴中の出火で、逃げ遅れたのが原因だったと聴いている。
たった一人の親友であった彼の死は、あまりに衝撃が大きかった。
だから今の今まで、その現実を認めずに生きてきた。
当時は彼の葬式にも出向かず、携帯番号もそのまま消さずに残した。彼はまだこの世にいる――そんな気持ちで日々過ごし続けたのだ。
「織田君、今日は君の命日だったね。もしかして俺が夢を見た理由って……」
黒の革靴を履いたまま、玄関にへたり込む。
握力を失った右手から携帯電話がすり抜けて床に落ち、カーンという甲高い音を立ててその画面から明かりが消え去った。
「会社辞めて霊媒師にでもなろうかな。ははは……」
天井を見上げたまま放心状態だった俺の耳に、空耳とも思えるほどの微かな火災報知機の警報音が届いたのはそのときだ。
――ああ、これも夢に違いない。
今日は会社を休み、亡き親友のことを思いながら一日のんびりと家で過ごそうと心に誓った俺なのだった。
災難は音を立てずにやってくる(エストニアのことわざ)
だが、サイレンを伴って訪れる災難もある(鈴木りん)
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