23 森のトレッキング

 思ったより険しい――。

 それが、エス氏の感じた第一印象の、正直なところだった。

 自分に課されたミッションなど簡単にこなせるはずだとたかくくっていたエス氏は、かなり面食らっていた。


 ――ここでやめれば、男がすたる。


 自分に喝を入れたエス氏は、歯を食いしばって両足を動かした。

 彼は、とある森へトレッキングに来ていたのだ。


 季節は、秋も近い晩夏。

 真新しい黄緑色のジャケットと灰色のカーゴパンツという、防寒を兼ねた服装に身を包んだ彼の背中には、何が中に入っているのか、パンパンに膨らんだ黒いバックパックがあった。


 ――休憩するとしよう。コーヒーでも飲むか。


 エス氏は、バッグから折り畳みの小さな椅子を取り出すと、そこに腰を下ろした。

 続けて、ぴかぴか光る金属製のポットとガスコンロをバッグから取り出し、不慣れな手つきでそれらを地面の上にセットすると、それらを使って湯を沸かし始めたのである。



 ――エス氏は、四十歳。

 小さな町工場を親から受け継いだ彼にとって、こんな優雅な休日は初めてのことだった。事実はそうでないのかもしれないが、少なくとも彼の記憶の中にそれはなかった。工場を存続させるため、まさに命を削って働いてきた彼にとって休日は敵なのである。

 しかし、こんな休日も、今日が最初で最後になる予定だった。

 なぜなら彼は、にっちもさっちもいかなくなった工場経営を立て直すため、自らの命を今日、犠牲にする覚悟であったからだ。具体的には、保険金であった。この日のために、1年前から家族に内緒でかけてきた、高額な生命保険である。

 保険金を満額で家族に譲り渡すためには、自殺と認定されてはならないのだ。あくまで、『不慮の事故』でなければならなかった。

 そう――それこそが、今日の彼にとってのミッションなのである。

 2歳年下の妻と、10歳になる娘。それに町工場。

 それらが今や彼にとってのすべてであり、彼はそれらを守らねばならない。

 カセットコンロから放たれる赤い炎が風に揺らめくさまを眺めながら、エス氏は家族と工場で働く数名の社員のことを想った――。



 そんなときだった。

 背後から、エス氏に声をかける者がいた。


「おひとり……ですか?」


 20代半ばであろう、若い女性だった。

 彼女もエス氏と同じ、トレッキングでこちらに来ているのだろうか。快活そうな笑顔を振りまきながら、軽登山用らしき、オレンジ色のバックパックを背負っている。


「ええ……。もしかして、あなたも?」

「そうなんです。それで寂しくなって……。つい、声をかけちゃいました」

「ああ、そうですか。そうだ、今、コーヒーを淹れてるんで、一緒に飲みませんか?」

「いいんですか? ありがとうございます。私、ナイフとか簡単な調理道具も持ってきてるんで、自分のカップもあります」


 エス氏は、内心、ほくそ笑んでいた。

 もちろん、若い女友達ができたから――ではない。保険金をもらうためには、自分の死体を誰かに見つけてもらう必要があり、彼女は事故の目撃者と死体発見者の二つの役割を果たしてくれそうだと思ったからである。


「家で飲むコーヒーの方が、おいしいな」


 コーヒーを啜りながら、思わず本音が出る。

 それを聞いて、彼女が云った。


「え、そうですか? 私は外の方が断然おいしいけれど……。あ、でも、よく見れば、服とか道具とか、新しいですね。もしかしてトレッキングの初心者さん?」

「あ、ばれちゃいましたか。実は、そうなんですよ。今まで仕事ばかりの人生だったんで、アウトドア的なことも今後はやってみたいなあ、と……。つい最近、一念発起したんです」

「なぁるほど」


 リラックスした、雰囲気。

 しばらく、エス氏の淹れたコーヒーを啜りながらの四方山よもやま話が続いた。

 そんな折だった。

 極力自然な感じを意識しながら、エス氏が、こう切り出した。


「どうでしょう……お互いひとりですし、しばらく一緒に歩きませんか?」

「いいですね。そうしましょう」


 二人は、早速ポットやコップを片付けると、森の奥の方へ向かって歩き始めた。

 しばらくの間、和気合い合いとして森を探索した二人。


 ――もうそろそろかな。


 そう思いたったエス氏が、立ち止まる。

 都合のいいことに、今いる場所は道幅が狭く、右側は川底へと向かう深い谷地形となっていた。上手に頭を岩などにぶつけて転がり落ちれば、死ねるかもしれない。じっと崖下を見つめていると、エス氏の足音が消えたことに気付いたらしく、彼の前を歩いていた女が振り返った。


「あなた……自殺をしに、ここに来たのよね? さっきから自分の名前を語らないし、私の名前も聞こうとはしなかった。あなたにとって、『未来』が意味のない証拠よ。それに……時折見せる、その思いつめた表情でもわかるわ。ならば、お願い――」


 そこで言葉を一度切った彼女は、大きく潤んだ瞳で、じっとエス氏を見据えた。


「ならば、私にあなたを殺させてくれないかしら? 私、一度、人を殺してみたいと思っていたのよ」


 ぎらぎらと光る、彼女の目。


「実はね……ここに来たのも、その目的なの。ここに来れば、あなたみたいに自殺願望の人がきっといて、私に殺させてくれると思ったから!」

「……」

「あ、そうだ。あなたの自殺の原因は何? 借金地獄? それとも人間関係?」

「……借金」


 それを聞いた彼女が、喜び勇んでバッグを背中から降ろした。

 中から取り出したのは、厚さ1センチくらいの札束だった。


「どう? ここに百万ある。あなたが死んだら、これが必ず遺族に届くようにするから、これで殺させてくれない?」


 渡りに船じゃないか――と、エス氏は思った。

 しかし百万程度の金額では、エス氏の会社の負債に対しては、ただの『焼け石に水』である。エス氏は首を振った。


「百万ではだめだ」

「じゃあ、一千万! 殺させてくれたら、あなたのバッグにそのお金を入れるわ。そうしたら、あなたの持ち物ということで処理されるでしょう?」


 エス氏の心は動いた。

 それを感じ取ったらしい女は、自分のバッグから同じ厚さの札束を更に九つ取り出すと、先ほどのひとつと合わせ、十の札束をエス氏の目の前の地面へと放り投げた。

 ついに、エス氏がうなずく。


「いいだろう、わかった。一千万で手を打とう。しかし、俺の命には、たくさんの保険金が掛かっている。事故のように見せかけ、第一発見者の゛ふり゛をして家族にその旨を伝えてもらう――というのが条件だ」

「……わかった。そうする」


 取引が成立した。

 エス氏は、目の前に落ちていた札束を自分のデイバッグの中に押し込むと、晴れやかな笑顔となって、こう云った。


「すまないが、もうひとつだけ我がままを聞いて欲しい。ここで死ぬのもいいのだけれど、できればもう少し『いい景色』の場所で死にたい」

「ああ、そう。仕方ない……いいわよ」


 再び、森の奥へと歩きだした二人。

 しばらくすると、やや高台に位置し、樹木が疎らに生えているせいで遠くまで見渡せる、恐らくはこの森で一番見晴らしの良い場所に出た。

 死ぬのにふさわしい場所はここだと考えたエス氏が、足を止める。


「……ここなら、死に甲斐があるってもんだ。よし、ってくれ!」


 女は、ゆっくりと、そして大きくうなずくと、近くに落ちていた自分の顔ほどの大きさの、殺人には『手頃な』サイズの石を両手で抱えた。トレッキングに慣れていないエス氏が木の根か何かにつまずき、その拍子で頭を石にぶつけて死んでしまったかのように見せかけるためだ。

 大きな石を振りかぶり、エス氏に殴りかかった女。

 その瞬間だった。


「いてっ、何すんだよ!」


 死ぬ覚悟はできていたはずのエス氏が、あまりの痛さに逆上し、女を力いっぱい突き飛ばしてしまったのだ。


「きゃあッ」


 彼女の腕力では、エス氏を一撃で絶命させることはできなかったらしい。

 頭から血を流したエス氏が突き出した腕によって弾け飛ばされた女は、エス氏の足元に広がる崖の数メートル下あたりまで転げ落ち、「ううッ」と呻いたまま動かなくなった。彼女の頭の近くには、先ほどエス氏を殴った石が転がっている。

 持っていた石に自分の頭をぶつけ、彼女は絶命してしまった――と考えたエス氏は、慌てふためいた。


「うわ、このままでは俺が殺人者になっちまう。誰か助けてくれ!」


 エス氏がそう叫んだときだった。

 背後から、今度は若い男の声がした。


「しょーがねーな……。助けてやるよ」


 その瞬間だった。

 エス氏は、自分の首筋にナイフの如く鋭利な物体が動脈のある首に食い込みつつそこを通り過ぎていったときのような、そんな痛みを感じた。

 噴水のように吹き出す血しぶきとともに、大量の血液と意識が失われていく。

 前のめりに倒れたエス氏が最後に横目で確認できたのは、背の高い、若い男だった。彼もエス氏や女と同様にトレッキングウエアを着用し、青色の大きなバッグを背負っていた。


「おいおい、脅かせるなよ。相変わらず、死んだふりがうまいな」

「あれ、ばれちゃった? 死んだふりするのも、結構テクニックがいるのよ」


 あはは、という明るい笑いとともに、女が崖の斜面から起き上がる。

 それを見た男が、動かなくなったエス氏を足で転がしながら、彼が息をしていないことを確かめる。


「まったく……。結局、いつも俺が最後のとどめを打たなきゃならないんだから。いい加減にしろよな」

「だって……アンタと違って人を殺すの、好きじゃないんだもん」

「嘘つけ、ホントは好きなくせによ」


 崖を軽い足取りで上ってきた女とともに、男は今日の『獲物』を見て満足そうな笑みを浮かべる。


「さて、こいつの臓器をさっさと収穫だ。高値で売るには、何といっても『新鮮さ』が大事だからな」


 男のバッグから出てきたのは、やや大きめのクーラーボックスだった。


「ふん。わかってるって」


 目をギラつかせた女が、エス氏の体に意気揚々とナイフを入れ始める。

 それを見た男は、まるでクリスマスにあげたプレゼントに彼女が喜ぶさまを見ているかのような、そんなな満足気な表情を浮かべると、ポケットから取り出した煙草にオイルライターで火を点けた。


「残念だったな、おっさん。あんたの命は、オレたちが有効に使わせてもらうからよ」


 咥え煙草をくゆらしながらエス氏の荷物から札束を抜き出した男は、急に価値の低くなったエス氏の荷物を、ひょいと崖下に投げ捨てたのであった。






自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ。

(堀辰雄)

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災難続きのエス氏 ~エス氏だって幸せになりたい~ 鈴木りん @rin-suzuki

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