11 眠りの森のおじさん

 酷く鮮明な映像の悪夢だった。

 黒い影のようにしか見えない何者かに連れ去られた自分の母親が、猛獣の牙のように鋭利な刃物で刺され亡き者にされる、というものだ。


 ――まったく、縁起でもない。


 夢にうなされ、声を出し続けていたのだろう。

 エス氏は、自分の喉がまるで何年も雨の降らない砂漠地帯の砂のようにからからに渇いていることに気付いた。

 喉の状況とは反比例するかのように、汗でぐっしょりと濡れたパジャマ。

 エス氏はくたくたの体に鞭打ってベッドから起き出すと、二階の自分の部屋から廊下へ出て、一階に降りるために階段へと向かった。


 ――母さん、今頃どこにいるんだろう。


 階段を降りながらも、気になるのは今年八十歳になる母親の事だった。

 四十五歳で独身、幼い頃に父を病気で亡くしたエス氏は、ずっと母と二人暮らしの生活が続いていた。続いていた――と過去形の表現になっているのは、数日前、母親がまるで神隠しにあったように急に姿を消してしまったからなのだった。

 近頃は、物忘れが酷くなったと嘆いてばかりだった、母。

 日課の散歩が何よりも好きだった、母。

 昼間、彼が生業としている個人配送業で出かけている間に、大好きな散歩に出掛けてそのまま道に迷ってしまったものらしい。

 一昨日の朝、警察に捜索願を出してみたものの母は見つからなかった。

 昨日などは、警察や地域の消防の人々と一緒に母親が行きそうな場所を足を棒にして丸一日探し回ってみたものの、やっぱり見つからない。


「何処かで、無事に居てくれればいいけど……」


 足のふくらはぎに疲労物質の乳酸がまだ残っているのを感じつつ、エス氏が一階の台所へと移動する。水道の蛇口をひねり、じゃあと音を立てながらガラスのコップに水を貯めた。

 と、エス氏がコップの水に口をつけたときだった。

 不意に台所のガラス窓から一筋の明るい光が射し、コップの中の水がキラキラ輝いたのだ。

 何が起こったのかと疑問に思ったエス氏。

 コップを台所に置くと、窓の外の様子を覗き見た。するとその光の正体は、夜空の雲の切れ間から姿を現した見事な満月からの澄んだ光の束だった。約38万キロの距離をものともせずやって来た、photonフォトンたち。

 38万キロに比べれば、現在の母親との距離など大したことないはずだ――そんな風に思ったエス氏の心の中にも、淡い光が射す。


「なんて綺麗なんだ……」


 エス氏の表情は、まるで何かに憑りつかれたかのよう。

 疲労が残って重たいはずの足が無意識に動き出し、エス氏は自宅の小さな庭へと飛び出した。

 月明かりに照らされた庭の美しさに、息を呑む。

 風は静かに庭の花々やを揺らし、草はまるで寝息を立てているかのように穏やかに横たわる。何年も見続け来た自宅の庭とは、凡そ思えない。


 そんなファンタジックな景色に身も心も圧倒されていたエス氏だったが、不意に不思議な光景を目にして、現実の世界に呼び戻されてしまったのである。

 猫や犬、鳥など――町中の動物たちが庭の向こう側の路を同じ方向に向いて歩いていたのだ。町の郊外にほど近いエス氏の家からすれば、どうやら動物たちが向かうその先は、あまり人の立ち入ることの無いような深く暗い森だった。


 ――あの森に、一体何が?


 興味を感じたエス氏は、こっそりと足音の立たないよう動物たちの後を追いかけた。

 やがてエス氏は、鬱蒼とした夜の森へと入った。頼りとなる明かりは、時折樹々の隙間から漏れる月明かりのみだ。

 やがて大勢の動物たちが、ぴたりとその歩みを止めた。

 それを見たエス氏が、彼等に気付かれないように草むらの影へと身を隠す。

 そこが動物たちの集う場所になっているらしく、ちょっとした広場のような空間が広がっている。集まった動物の顔ぶれを見れば、町中の動物たちに加え、クマやキツネにタヌキにリスなど――たくさんの野生動物も集まっていた。


 ――そういえば母さん、「たくさんの動物が森に集まるのを見た」とか言ってたっけ。


 それは一ヶ月ほど前のことだった。

 エス氏の母が、彼が用意したハムエッグの朝食を食みながらそう呟いたことがあったことをエス氏は思い出したのだ。そのときは「もしかして母さん、ボケてしまったのかも……」と悲しい気持になったエス氏だったが、本当のところを知るのが怖くて、母に深く訊ねることができなかったのである。


「あれって本当の事だったんだね。疑ってごめんよ、母さん……」


 その後も、エス氏は草むらから動物たちの様子を眺め続ける。すると始まったのは、動物たちによる大宴会だった。

 満月を見ながらのお月見会――ということなのだろうか。

 広場の中央には大鍋が置かれ、その周りに葉っぱのお皿が並べられている。鍋からは出汁の利いたスープの香しい匂いが漂って来て、昨晩は夕飯を食べる元気のなかったエス氏の鼻の奥を激しくくすぐった。新鮮な野菜やキノコ、そして木の実も実に美味しそうである。

 それら御馳走の周りで楽しそうに踊る動物たち。

 あたかもその様子は、地上に現れた竜宮城のように思えた。


「うわあ、いいなあ……。俺も混ざりたいよ」


 そう言ってよだれを垂らしたエス氏の肩を、トントンと叩く者がいた。

 急いで涎を拭き、振り返る。するとそこにいたのは動物ではなく人間の子どもだった。スカートが短めの青いワンピースを着た、女の子。

 際立つのは、その白い肌だ。

 まるで空に浮かぶ満月から降りてくる光のように、透明に近い白さを伴って輝いている。


「だ、誰だい、キミは?」

「それはねぇ……こっちの台詞セリフなのよ。ニンゲンのおじさん」


 女の子は端正な顔の中にある上下の唇を曲げて、くすりと笑った。


「でも今日は、特別に教えてあげる。アタシは『月の精』のミーナよ」

「ツ、ツキノセイ? ミーナ!?」


 気が動転したエス氏からは、それ以降の言葉が出なかった。

 けれど、そんなことにはお構いなしのミーナが、いたずらっ子のような顔にをして言う。


「これはね、月の精のアタシが主催して行う『満月パーティー』なのよ。でも招いたのは動物たちだけ。あなたみたいなニンゲン――しかも、おっさんを呼んだ覚えなどないわ」

「そ、そうなの?」


 しかし、目の前にいるのが主催者というならば話は早い――エス氏は、年甲斐も無く目の前の妖精に媚びるような目をしてお願いした。


「いいなあ……。じゃあ、俺もうたげに混ぜておくれよ」

「ええーっ!? ダメよ。この催しは昔から、ニンゲン抜きということになってるの。それに――」

「それに?」


 エス氏がそう訊ねると、ミーナが頬を赤らめて恥ずかしそうに言う。


「それに……この集まりは、アタシ、月の精ミーナのファンクラブの集まりなの。どうしてもと言うなら、ファンクラブに入ってもらわなきゃ。ニンゲンでは初めてになるけどね……」

「入ります、入ります! しかも人間で初めてだなんて、光栄です」

「そ、そう……?」


 よく見れば、目の前の妖精は人間でいえばとても可愛らしい部類の少女だった。それに、時折見せる恥じらいの表情も、おじさんの胸にきゅんと突き刺さるものがあった。まさに、小悪魔と言ってもいいくらいに――。

 本気で彼女のファンクラブに入る気になった、エス氏。

 だがそのとき、ミーナの表情が暗転した。


「でも、条件があるのよ」

「条件……?」


 エス氏の胸がドキリと鼓動した。

 まさか『魂を差し出せ』とかじゃないよな――と、ドキドキしながらミーナの言葉を待つ。


「ファンクラブ入会料として、宝物をひとつ、アタシに差し出すこと」

「宝物をひとつ……ですか」


 すぐにエス氏の脳裏に浮かんだのは、ずっと共に暮らして来た母親だった。

 けれど今は行方不明だし、元々差し出せる訳もない。


 ――じゃあ、俺にとっての宝物って何だろう。


 エス氏が他の宝物が思いつかず答えあぐねていると、月の精が何かを思い出したように言った。


「そうね……あなたはこのまま入会してもいいことにするわ」

「ほ、本当に? ありがとう!」

「いいえ、お礼を言われることでもないけどね……。まあ、初めてのニンゲンから迎えるファンクラブ会員だし、特別待遇とでも思ってくれればいいわ。それよりなにより、とっくに宴会は始まってるみたいだし、早速、『満月の宴』を一緒に楽しみましょう」

「はいっ! よろしくお願いします!」


 たくさんの動物たちが楽しそうに飲み、食べ、唄う――そんな宴会に合流したエス氏は、朝までそれを楽しんだ。

 特に美味かったのは、森のサルが作ったという猿酒さるざけと、妖精が自ら作ったという具だくさんの大鍋スープだった。どちらも、エス氏が初めて経験する味だ。

 初回だというのに、動物の友達もできたことに満足した。

 体は大きいが優しい気質の雄熊で、名を“ベア吉”といった。並んで酒を酌み交わすうちに、意気投合したのである。


「ニンゲンて、思ったより良いイキモノだったんだな。知らなかったよ」


 人間界では、子どもの頃からほとんど友達のいないエス氏。

 たとえ相手が猛獣だったとしても、そう言ってくれるイキモノがいてくれることがこの上なく嬉しかった。


「じゃあ、今夜はこれでお開きよ。また、次の満月の夜に会いましょう」


 それは夜も白々と明けた頃だった。

 月の精のミーナはそう言うと、まるで瞬間移動の魔法にかけられたかのように一瞬で姿を消した。「ああ、楽しかった」と口々に言い合いながら、動物たちが蜘蛛の子を散らすように、満足げに自分の居場所へと帰って行く。

 仲良くなったベア吉も、飲み過ぎたのかふらふらと覚束ない足取りで森の奥へと帰って行った。一人取り残されたエス氏も、当然、人間世界に戻らねばならない。


 母親のことも仕事のことも夢のように忘れられる、夢のように楽しい宴。

 でもそれが夢であるのならば、必ずいつかは醒めるものだ。


 ――こんなに酔ったのは久しぶりだな。


 エス氏は、きっと楽しいであろう次の満月の夜の宴をにやついた顔で想像しながら、鮮やかなオレンジ色の朝焼けの下、ふらつく千鳥足で自宅へと戻ったのだった。



  ★



 それから、数ヶ月間。

 満月になる度、森の広場で行われる「月の精ファンクラブの集い」――満月の宴に、エス氏は皆勤賞ものの出席率で参加した。

 今やすっかり秋も深まり、森は辛く長い冬の季節を迎えようとしている。木々もすっかり葉を落とし、開けた視界が秋の森の“もの淋しさ”を演出していた。

 だが、季節は移ろっても宴は続く。

 今や常連客の一人である、エス氏。今日などは、生地の厚いコートを着込み、楽しむ気満々で森にやってきていた。


 月の精がやって来て、宴もたけなわになった頃だった。

 今日の宴会が、どこかいつもと違うことにエス氏が気付く。集まっている動物たちの数がいつもより少ない気がするのだ。親友のベア吉は、待てども待てどもやって来ない。

 仕方なく手にした大鍋のスープに、一人淋しく舌鼓を打つ。

 そんなときだった。エス氏はふと、石の器に入ったスープの中身を見ながら考えたのだ。


 ――この“肉”って、何の肉だろう。


 今まで、宴があまりに楽しくて考えたこともなかった。

 だがその疑問が、急に重たくエス氏にのしかかる。この美味しいスープや並べられた肉料理に使われてる肉の正体って、一体――。


 ――まさかこれって、ベア吉の!?


 もしかしたら自分は親友の肉を――そう思った瞬間、エス氏に襲い掛かる酷い吐き気。

 すっかり葉の落ちた銀杏の木の根元へと駈け寄り、胃の中から内容物を戻していた、そのときだった。エス氏は魔法か何かの力で全身が痺れたようになって、身動きが取れなくなっていることに気付いたのだ。

 辛うじて動いた首を動かすと、目前には妖精のミーナの姿があった。


「今日の御馳走メインディッシュは、あなたなの。ごめんなさいね」


 それがエス氏がこの世で聞いた最後の言葉だった。

 そして最後に彼が見たもの――それは、透き通ったように白かった肌がどす黒く変化し、整った口元がぐにゃりと歪んでゆくミーナの姿だった。



 ――それから、1時間ほどが経った頃。

 動物たちの大歓声の中、森の宴の中心に新たな大鍋が加えられた。


「今日の鍋料理は、滅多に味わえない貴重な“中年男性”ですよ。楽しみましょうね」


 月の精ミーナの、美しく優しい笑顔。

 動物たちは狂喜し、鍋に殺到した。しかし、それを口にした動物たちの反応は、イマイチなものだった。


「この肉、ちょっと筋張すじばってない?」

「内臓、ちょっと脂肪ありすぎだな」

「脳みそスカスカだよ。安いウニみたいだ」

「これなら、いつもの老人の方がいいかも」


 そんな動物たちの評判を聞いたミーナが、溜息混じりに言う。


「なんだ……。美味うまそうだと思ってたのにとんだ期待外れだったわね。そういえばアイツ、自分が食べた料理に冬眠に入ってうたげにたまたま来れなかった動物の肉が入ってると思ったようだけど、この鍋の肉はいつもニンゲンなんだからそんな訳ないのにね……。ま、“宝物”だったお母さんを自分で食べちゃったようなヤツなんですもの、その程度の味なのも仕方がないかも知れないわ」


 メインの鍋料理は少し余り気味。

 それでも満月の宴は、月の沈む翌朝まで盛大に続けられたのだった。






この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起こりつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ。(夏目漱石)

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