12.相違。いつの間にか置き去りにされたのは。





「お帰りベネッタ。ずいぶんと遅かったわね」


 朦朧としたままで幌馬車に揺られ、夜半過ぎにセルカレイド教会堂へと辿り着いたベネッタ。しんと静まり返った廊下を行けば、彼女の部屋の前に佇む人影があった。草木も眠る時間だというのに、険しい表情をしたフランシスカが待ち構えていたのだ。


 麻の寝衣に身を包み、あとは寝るだけといった装いのフランシスカだったが、ベネッタに向ける視線は剣呑ですらある。


「フラン……。もしかしてずっと待っていてくれたの?」


 ベネッタはフランシスカにそう尋ねつつ、先にルイスと別れていたことを安堵した。それにこうも考える。あの彼であっても、長旅を終えたばかりの今晩に自室を訪ねてくることはないだろうと。


「たまには長話も良いかなと思ったのだけれどね。流石にここまで待たされるとは思ってなかった」

「ごめんねフラン。道中で私が体調を崩して、ルイス様が快復を待っていてくださったの」


 真実の中に小さな隠しごと。旧友へと抱えた後ろめたさが、ちくりとベネッタの心を突いた。


「そっか、何はともあれ巡礼お疲れさま。あなたが無事なら、私はそれで良いの」


 刺々しさの陰から、慈しみが覗いている。ベネッタが思っていた以上に、フランシスカに心配をかけてしまったようだった。そっけない態度で立ち去ろうとするフランシスカの後ろ姿を、ベネッタは思わず引き止めて言った。


「せっかくだから、入って。ね? それにフランにお土産もあるの」

「ううん、全部明日にしましょう。だってあなた、とても酷い顔色をしてる」


 フランシスカは傍らのオイルランプの灯でベネッタの顔を照らすと、盛大に溜め息を吐き出した。気遣うからこそ休ませてあげたいという想いと、ここで放ってはおけないという想いとがせめぎ合っているのだ。


 やがて逡巡を振り払って、フランシスカが言う。


「ん。やっぱり入ってもいい? 少しだけ、長居はしない」

「うん、フランだったらいつでも大歓迎なんだから」


 快諾するベネッタの部屋へ一歩を踏み入れて、フランシスカはすぐに後悔を覚えることとなった。しかしそれとは裏腹に、非常識を顧みず入室させてもらって正解だったと思わざるを得ない。


 久しく訪れたベネッタの部屋には、初めて嗅ぐ不思議な匂いが満ちていたのだ。名状しがたい重い匂いと、饐えたような生臭さが混じっている。まだ生娘のフランシスカには想像するほかなかったが、おそらくこれは雄の匂いである。


 純潔ではなくなってしまった幼馴染の不道徳を嘆くべきか、それとも無垢を唆した大神官ルイスを呪うべきか。決して小さくはない失意を胸の内に隠して、フランシスカはベネッタの様子を窺う。


「どうかしたの? フラン」

「いいえ、相も変わらず殺風景な部屋だなと思って」


 知らないとでも思っているのか。気付かないとでも侮っているのか。ベネッタの窶れた微笑みに、フランシスカは無感情を装うのが精一杯だった。


 ベネッタの嗅覚がこの匂いに慣れてしまったのなら、不潔を責めたところで虚しさが残るだけである。張り裂けそうな感情の高ぶりのままに、みっともなく喚き散らすことができたらどれだけ幸福だっただろう。


 残念ながらフランシスカは、彼女の前で本心を晒すことに慣れていなかった。それどころか、失望されてしまうのではと恐怖を感じている。フランシスカのこじれた不器用さは、いつしかベネッタの憧れや羨望の対象になっているのだ。


 知識のみのへと隠れ続けた結果がこのざまかと、自嘲気味になることもしばしばであった。いつものように悠々たる自分であれと、今は強く己を律するしかない。


「ほら、お土産だよフラン。受け取ってくれる?」


 不意打ち気味に手渡された本を、フランシスカはしげしげと眺めた。重厚な表紙を捲り、ぱらぱらと内容を読み解けば、どうやら異国の思想書のようである。あるいは哲学書と言い換えても差し支えないだろう。哲学は、教会の検閲の中を生きるヴェルニの民にとって不可侵の学問であった。


「……どうしたの、これ。洋書にも色々あるけれど、この本は完全に禁書。所持しているだけで大罪よ」

「さらりと中身が読めるのね? すごい。やっぱりフランは、すごいよ」


 戸惑いを隠せないフランシスカに、ベネッタは真っ直ぐな尊敬の眼差しを向けている。フランシスカが困惑から抜け出せずにいると、「もしかして嬉しくなかった?」とベネッタが不安げに尋ねた。


「そんなわけないじゃない。大切に読むわ、ありがとうベネッタ」


 フランシスカは慌てて口角を上げて答えた。同時にいくつかの質問が頭をよぎったが、鼻先を掠める匂いが思考を鈍らせる。やはり出直すべきかもしれない。少なくとも、ルイスとの関係を問い質すのならばフランシスカの部屋にするべきだろう。


「実はね、私も買ってみたの。フランと違って、まったく読めないんだけどね」


 照れ笑いを浮かべながら、ベネッタは書物をもう一冊取り出した。古ぼけた赤茶色をした表紙は、かつて鮮やかな桃色を放っていたに違いない。


「そう、勤勉なのね。少し見せてもらっても良い?」

「駄目なわけないじゃない。でも内容は言わないでね。どうしても解読に行き詰まったら……その、やっぱり私はフランを頼っちゃうと思うけど」


 フランシスカの知るベネッタとは、根本的に何かが違ってしまっていた。彼女が知っている少女は、勤勉という言葉から最も遠い存在であったはず。


 少し前のベネッタは、アニファラカ教そのものに疑心を抱きながらも、自らの力で真実を手繰り寄せようとはしなかった。言ってしまえば彼女は、懺悔室に縋りつく信徒たちと何一つ変わらない怠惰な羊だったのだ。だからこそベネッタの懊悩を見兼ねたフランシスカは、冬の終わりに一粒のきっかけを蒔き与えたのである。


 知識の種が花開くには、春はまだ浅い。それとも大神官ルイスの存在は──ひいては色恋というものは、これほど劇的に人を変えてしまうものなのだろうか。


 複雑な心中のままで、フランシスカはベネッタの書物に目を通した。するとそこには、言葉にするのも憚られる痴態の数々が綴られている。悪気はないとはいえ、よりにもよってベネッタは官能小説を選び取ってしまったらしい。


「あなたのこと、嫌いになってしまいたい気分よ」


 フランシスカが、努めて冷たい声音で呟いた。目を丸くするベネッタは、また迂遠な物言いをされたのかとフランシスカの顔を覗き込むのだった。




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