第二部

14.妄言。ありふれた悲劇と幻想。





 鼻が曲がるほど濃密な悪臭が、狭苦しい懺悔室の中を満たしていた。生暖かい春の気候が、冬場には表層化しない衛生上の問題を炙り出している。集落で身を寄せ合うほかない年老いた信徒たちの多くは、満足に沐浴を済ませることもままならない者ばかりであった。


 大神官ルイスであれば、「死の匂いが移ってしまうね」などと乾いた冗談を言い放つに違いない。しかし彼をい慕うベネッタには、その声すらも愛おしく響くのだろう。


 壁の木目を意識的に見つめることで、ベネッタは余計な雑念を振り払った。


 そして低く重く、更には冷たい声音で告げる。


「告解の儀を始めます。さぁ、心にあるがままの言葉を」


 事情を聞けば向かい合う信徒は、不義の子として生を受けたようだ。その存在自体を隠匿された幼少期は、陽の光さえ知らぬ凄惨なものであったらしい。彼は獣と同じように檻の中で過ごし、与えられた残飯を貪って育った。地下室に匿われた彼の身体は、全身が雪のように真っ白であったという。


 聞くに堪えない独白であったが、ベネッタの心はわずかに毛羽立つのみであった。慣れとは斯くも恐ろしく、神官たちの心に不感症を根付かせる。


 信徒は熱心に話を続けた。彼が言うには、彼は自身が男性であるということも教わらぬままに育てられたとのことだ。ベネッタはぼんやりと思った。せめて書物の一冊でも与えられれば、少なからず学べるものもあっただろうに、と。


 願わくばその一冊が、聖典でなければ重畳である。聖典にえがかれた根拠に乏しい福音に、彼を救う力があるとはどうしても思えないベネッタであった。


「あれは、そうだ。まさに今日みたいに穏やかな日だった。上の方がやけに騒がしいなって思った矢先に、首が転がってきたんだ。いつもメシを運んでくる女の首が、階段の上からごろごろと転がってきやがった!」


 彼のしわがれた声には、未だ冷めやらぬ興奮が宿っていた。その精神は今まさに、幼少期の自分自身と邂逅しているのかもしれない。


 だがベネッタにとって、これは退屈な時間以外のなにものでもなかった。


 要するにその女が、彼の母親なのであろう。彼女を殺したのは蛮族の一味か、それとも真実を知って怒り狂った亭主か。


 そのいずれにしても、話の顛末が見えはじめていた。彼は何らかのきっかけで人並みの自由を得たにも関わらず、自由の翼をはためかせることもできないまま、町外れの集落で燃え滓のような余生を送っているのではないか。


 配給の麻袋に縋るしかない哀れな信徒を、ベネッタは促した。


「告解を続けなさい。あなたはまだ、犯した罪を告げていない」


 凛とした言葉の裏側で、ベネッタはとある感情に晒されようとしていた。このようなやからこそが、ルイスの脇腹に刺し傷を刻んだのではないかと思い至ってしまったのだ。


 ──配給の際に、暴徒と化してしまった信徒がいてね。


 どこか懐かしむように、それでも慈愛に満ちた笑みで語って聞かせたルイス。彼が受けた肉体の痛みと、心に負った深手を想うとベネッタはやりきれなかった。


 対峙する信徒を、理不尽にも責め立てたい衝動に駆られて、しかし彼女は踏み留まった。ベネッタは自らの心理状態が乱脈を極めていることを、かろうじて自覚できている。


「俺は……あいつを殺したんだ。やっと広い世界に出られたと思ったら、俺を待っていたのは奴隷みたいな毎日だった。知ってるかい神官様。ああいうのを『馬車馬のように』って言うんだぜ」


 知識をひけらかすような物言いだった。声の印象こそ老人であるのに、彼の喋り方はやはり子供じみている。精神的な成熟を得る機会を、ことごとく逃してきたのだろう。要点を欠いた信徒の告白に、ベネッタの中で青々しい好奇の芽が息吹いた。


「殺人とは、なんと嘆かわしいことでしょう。して純朴なる信徒よ、お聞かせ願いたい。あなたが一体、誰を殺めてしまったというのか」

「そんなもん、手当たり次第だよ。俺を扱き使う男も、男に跨ったまま俺を嘲笑っていた女も、手当たり次第に殺してやった。それからついでに、俺のことを知っている奴らも全員だ。俺は町中を駆け回って、見覚えのある奴を手当たり次第に殺しまくったのさ」


 嬉々として語る彼は、時折自らの手を叩いては奇声を上げた。あまりに甚だしい妄言に、ベネッタは鼻白む。そのように壮絶な事件が実際にあったのならば、国中に知れ渡っていないはずがないからだ。ましてや彼の首は、とうの昔に刎ねられているだろう。主マールスさえも見放した大罪人として。


「信徒よ。虚偽の告解は万死に値します」

「あ゛っ?」


 彼の凄む声は、恫喝に等しかった。それから間髪入れずに、薄壁の向こうから鈍い衝撃が走る。神官と信徒を隔てる薄壁を、殴るか蹴るかしたのであろう。


「己の言葉を恥じなさい。ここは神聖なる祈りの場、忘れ得ぬ罪を悔い改める場所」


 信徒の非礼を咎める声は、どこか弱々しい。瓦解寸前の信仰心を抱えたベネッタは、心の奥底で嘆いていたのだ。これは一体、なんという茶番か。私のどの口が、くだらない戯言を吐かせるのかと──。


 だん、だんっ、と、壁の衝撃が続く。その音は次第に激しさを増し、静まり返った教会堂の一角を震わせていた。男は何度も執拗に、自らの頭部を壁に打ち付けていたのだ。


「黙れよクソ野郎。どうせ救えねぇくせに。俺を救えねぇくせにっ!」


 荒ぶる怒号のあとで、ぎぃ、と一風変わった音。男が懺悔室を飛び出たとベネッタが理解するのとほぼ同時に、バキン、と芯の抜けた金属音が続いた。ベネッタの背筋に悪寒が走る。それはであったのだ。


「えっ?」


 力任せにこじ開けられた出入り口から男の腕が伸び、ベネッタは祭服の襟首を掴まれ引きずり出された。そして彼女はそのまま、聖堂の片隅へと放り投げられたのである。


 受け身も取れぬまま背中から落ち、殴られたような背部の痛みに、苦悶の表情を浮かべるベネッタであった。呼吸が苦しい、全身が痛い。何よりもただ、恐ろしい。


「なんだお前、もしかして女か?」


 耳に張り付くような男の声に、ベネッタは総毛立った。とにかく助けを呼ばなくては、だが恐怖のあまり声が出ない。身体が竦んで男をまともに直視できずにいると、その股間が膨張してそそり勃っていることに気付いた。


 ベネッタはようやく悟った。

 自分の身に、これから何が起ころうとしているのか。


 犯される? なぶり殺される?

 あるいはその両方──。


 ベネッタには分からなかった。

 こんな時、誰に祈りを捧げれば良いのかさえも。





「さて見慣れぬ信徒よ。こちらの神官が何か非礼を働きましたかね?」





 ルイスは男の背後からそう問いかけると、振り返った彼の脇腹に足蹴りをめり込ませた。渾身の力を乗せた一撃に、男は胃液をぶち撒けて悶絶する。目の前の光景に唖然とするベネッタは、反射的に自らの身体を抱き竦めた。胎児のように丸くうずくまる彼女に、ルイスはいつもの調子で飄々と言う。


「間に合って良かった。妙な様子の信徒がいるってね、フランシスカが教えてくれたんだよ。まったく、春先になるとおかしな奴が多くていけないね」


 微笑むルイスの顎先に促されて、ベネッタは視線を信徒へと移した。するとその男の見目は、想像していたよりも幾分か若々しい。


 今しがたの独白は、すべてが作り話だったのだろうか。彼は最初から難癖をつけるつもりで、この教会堂を訪れていたのだろうか。真相を尋ねるすべを、ベネッタは持たなかった。


 窮地を救ったルイスにお礼の言葉を告げようとして、ベネッタは自らの身体の異変を自覚した。何かを話そうとしても、歯と歯が合わさってかちかちと鳴るばかりなのだ。


「無理に喋らなくていいから。ね、ベネッタ、今はゆっくりと休んでいなさい? 僕はこれから、この男に説教を垂れなくてはならないからね」


 ルイスは、ベネッタの背を優しく撫でさすりながら微笑んだ。


 この時の彼が放っていた禍々しいほどの殺気に、半ば放心状態のベネッタが気付けるはずもない。ルイスの愛玩する少女を蹂躙しようとしてしまったがために、愚かな男はこの日の晩に生涯を閉じることとなる。





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