15.夜半。静かなる敵意の園。





「こんな時間に礼拝かい? 相変わらず君は勤勉だね、フランシスカ」


 背後からの声に動じることもなく、フランシスカは緩慢な動作で振り返った。


 真夜中の静まり返った聖堂でならば、彼が秘めた邪悪もよく聴き取れるのではないか。彼女は、そのような淡い期待を持った己を自覚する。


「ルイス様、先ほどはありがとうございました。どこかお怪我はございませんか」

「僕はこの通りぴんぴんしているけれどね。ところで感謝を告げている君の目は、どうしてこんなにも剣呑なのかな」


 向かい合うフランシスカとルイスは、遠目に見れば逢瀬を交わす恋人のようであった。先刻は不本意ながらもルイスに助けを求めるほかなかったフランシスカだが、とある疑念が拭えずにいる。


 気の触れた信徒が、そもそもこの男の差し金だとすればどうだ。どれだけ警戒したところで、警戒しすぎということはないだろう。


 オイルランプの薄明かりの中で、フランシスカはそれとなくルイスを観察した。彼に目立った着衣の乱れはない。頭髪も整っているし、もちろん血痕なんて見当たらなかった。あの信徒の身柄はどうしたのだろう。兵員にでも引き渡したのだろうか。


「いえ、そう見えたのなら謝罪致します。同時に弁明を。私はベネッタと違って、あなたを見る瞳を輝かせていないだけです」

「ふむ、ずいぶんと含みのある物言いだね。まぁいいさ、彼女の様子はどうだい?」


 のりで貼り付けたかのようなルイスの笑顔が、フランシスカの神経を逆撫でる。


「入念に身を清めて、ようやく眠ってくれました。少しだけ、薬の力に頼りましたけれど」

「それは良かった。君がベネッタを介抱してくれて、僕のほうこそ感謝しているんだよ。あんなことの後では、僕は自分の性別を呪うしかなくてね」


 ルイスの発言は、紛れもなく挑発だった。表向きでは気を遣うふりをして、ベネッタとひとつにはなれないフランシスカを、内心で嘲笑っているに違いない。


 深読みするフランシスカに憤りが生まれた。自らの性別を呪いたいのは、他ならぬ私のほうなのにと。


「しかし驚かされるね。まさか君が薬学まで備えているだなんて」

「知識は力ですから、知ってさえいれば誰でもできることです。それに私は、調合術の心得を隠していたつもりはありません」


 これはフランシスカの牽制であった。身近にあるものを混ぜ合わせるだけで、毒も薬も容易に作り出すことができる。そうした能力をあえて晒すことが、この男の毒牙からベネッタを守る抑止力となるのではないかと考えたのだ。


 それは敵意についても同じである。


 フランシスカが久しくベネッタの部屋を訪れたあの日から、彼女はルイスへの敵愾心を剥き出しにしていた。そもそもあのような匂いを嗅がされては──ベネッタの純潔を散らされたと知ってしまっては、フランシスカは目の前で微笑む背信の徒に、もはや敬意の眼差しなど向けられるはずもないのだが。


「フランシスカ。僕は君のことをね、もう少しお利口さんだと誤解していたよ。とても残念だけれど、幾許いくばくかの落胆を禁じ得ない」

「ご期待に沿えられず心苦しく思います。それにしてもルイス様、今宵はなんだか饒舌なのですね」


 交わし合う言葉の一つ一つが、埋められない溝を押し広げていくようであった。だが明言を避け続けた迂遠なやり取りに、ルイスが突如として終止符を打つ。


「僕だって人の子だからね。罪人を殺めた直後には、この気持ちもたかぶろうというものさ」


 まさかの独白に、フランシスカは目をみはった。まるでここが懺悔室であるかのように、ルイスは己の罪を告解したのだ。


 いや、告解などではない。この男の一体何処に、赦しを乞い願う痛悔の念があるだろう。先ほどの信徒より、数倍も狂っている。


 やはり間違いではなかった。遠いあの日、フランシスカとベネッタがこの教会堂に迎え入れられたあの瞬間。フランシスカがこの男に覚えた嫌悪感は、間違いなどではなかったのだ。


「……この私が、あなたの罪を告発します。偉大なる大司教グランゼ様に」

「ふむ、何か証拠はあるのかい? 無知なるこの国家に、真実を暴く知恵はないさ。勤勉な君だからよく知っているだろう?」


 ルイスが放つ圧倒的な威圧感に、フランシスカは気圧けおされた。喉の奥がちりと灼きつき、指先をわずかに動かすことすらできない。


 フランシスカは今更、大きな過ちに気付いたのだった。彼が秘めた邪悪を、聴き取れるのではないかという大前提ですでに見誤っていた。この男は、邪悪を隠してなどいない。少なくともフランシスカに対して、そうするつもりなど毛頭ない。


「それにね──」


 フランシスカの耳朶を、ルイスの唇が這う。


? よく考えてみてくれよフランシスカ。大好きなマールス様に問いかけるがいいさ」


 向かい合うフランシスカとルイスは、遠目に見れば逢瀬を交わす恋人のようであった。だが実際は違う。フランシスカは、蛇に呑まれていく蛙に等しかった。


 ルイスの前歯が、彼女の柔らかな耳たぶをむ。そのあまりの恐怖に、フランシスカの腰が抜けた。膝から崩折れて立ち上がれず、ちょろちょろと失禁してしまう。


 彼女は今、明確な殺意の上で転がされているのだ。濃密な悪意を前に、少女はあまりにも無力だった。偉大なる主マールスを冒涜されてなお、フランシスカは彼の背信を咎めることもできない。がたがたと震え、ただ怯えるしかなかった。


 ──ねぇベネッタ。あなたはどうして、に惹かれてしまったの。


 半ば呆れるように、あるいは嘆くように。

 フランシスカがそう考え、死を覚悟した瞬間だった。


 聞いたこともない冷酷な声が、フランシスカに終わりを告げる。


「今夜はおやすみフランシスカ。君が今ここで一度命を落としたことを、絶対に忘れてはいけないよ」


 くるりと踵を返して、ルイスの大きな背中が遠ざかっていく。

 命の危機が去った安堵の中で、フランシスカは屈辱を噛み締めて泣き崩れた。





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