16.密会。高尚は眩く蠢きながら。
宝石の輝きにも劣らぬ上質なテーブルクロスに、アイリスの刺繍が織り込まれている。その卓上に置かれているのは、透き通ったガラス製のティーポットだ。ポットに閉じ込められた琥珀色の海を、色彩豊かな花弁が不規則的に泳いでいた。
遠い異国から来た客人をもてなすかのように恭しい所作で、シリウスは向かい合うルイスのカップに紅茶を注いだ。華やかな薫りをひとしきり楽しんだ後で、ルイスが言う。
「よしておくれよシリウス。第一皇子に茶を振る舞わせたと知れたら、僕の首が飛んでしまう」
「先生こそ、悪い冗談はよしてください。あなたの前の私は、いついつまでも教えを乞い願う純朴な羊なのですから」
伏し目がちに答えるシリウスは、まるで少女のような長い睫毛を震わせる。彼がルイスへと捧げる親愛は、今にもその粋を飛び越えてしまいそうだった。跪くこと以外に知らない家臣たちとは違い、ルイスはいかなる時も鷹揚に彼と接した。その態度は時に尊大であり、父親にさえ抱くことのなかった尊敬の念を、シリウスはルイスに持っているのだ。
「お互いにもう少し身軽であれば、何度だって言葉を交わし合えるのだがね」
「それでも私に王位がなければ、ルイス先生に巡り合うことは叶わなかったかもしれません」
「そんなことはないさ。君の魂が君で在り続ける限り、君はたとえどんな境遇であっても懺悔室へと駆け込んだだろう」
ルイスの口調は決してシリウスの行動を咎めるものではなく、変わることのない昔話を懐かしんでいるかのようであった。シリウスが主マールスよりも深く信仰を捧げる大神官ルイスが、彼の弱さを内包してくれている。そう感じ取ったシリウスの胸に、揺るぎないあたたかさが灯った。
──『さぁ、告解の儀を始めようか』
あの日、道に迷ったシリウスを迎え入れてくれたのが彼でなければ。
シリウスは、きっと知らないままでいただろう。第一皇子の冠を脱ぎ去っても許される場所が、この世界に存在するのだということを。
知らずに生きていただろう。滅多には会えないルイスのために、丹精込めて茶葉やティーカップを選ぶ愉しみも。
「ルイス先生、私は在りし日の奇跡に感謝しています。あなたに出会わなければ、今の私はなかった。あなたが私の罪を共有してくださるからこそ、私は前を向いて歩むことができる」
「はは、何だか大げさだね。でもありがとう。素直に喜んでおくよ」
ルイスに向けられた曇りのない眼差しには、淡い恋心が混ざっている。シリウスが果たしてそれをどこまで自覚しているのか、あるいは隠し通せているつもりでいるのか。突き詰めてみたい欲求がルイスの中で疼いたが、今はそっと眠らせることにした。
「なるべく早い段階で君と公に手を結びたいと考えているのだけどね」
「あの老体が思ったよりもしぶといんだ。そもそも老衰によるものだと錯覚させなくてはならないのが、僕のつらいところだよ。給仕の者には、焦らなくて良いとあらためて釘を刺しておいた」
「大司教グランゼ様は、マールス様のご加護を一身に受けておられるのでしょうね」
「なるほど。やけに皮肉がうまくなったね」
上機嫌に笑うルイスを前に、シリウスは複雑な気分を味わった。そもそも彼には、納得のいっていない出来事がひとつあるのだ。あの舞踏会で、どうしてルイスは大司教グランゼが病床にあることを話題に上げたのか。あのベネッタという少女が口を滑らせて、セルカレイド教会堂で噂が広まってしまったらどうするつもりでいたのか。
「シリウス」
「……はい」
名を呼ばれたシリウスは、おずおずと居住まいを正した。不貞腐れかけた少年の心を、ルイスはもう一度自身へと向けさせたのである。
「僕だってね、百合を踏みつける愉しさに
婉曲した比喩が、シリウスの思考を中断させた。彼の性根がどこまでも素直であるからこそ、ルイスはこうしてシリウスの奥深くに根差すことができているのだ。
「承知しております。このシリウス、ルイス先生の正しさを疑ったことなど、ただの一度もありません」
向かい合うルイスに深く頭を下げながら、シリウスはベネッタの青紫色の瞳とテーブルクロスのアイリスを重ねた。彼が謝罪してもなお胸騒ぎを拭えないのは、ベネッタの境遇に嫉妬を覚えているからなのかもしれない。
密かな歯噛みの中で、シリウスは思う。
羨ましくないと言えば、嘘になる。
私だって、同じ捨て子であるはずなのに、と。
「いいかいシリウス。僕もね、君と同じ気持ちなんだよ。僕は君に巡り会えて本当に良かったと感じているんだ。神官の職務は苦しみの連続だけれど、君が訪れたあの日に、僕には干天の慈雨が降り注いだんだよ」
シリウスがゆっくりと視線を戻すと、ルイスは慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。シリウスは己の心の醜さを恥じ、同時に浅ましさを悔い改める。
不測の事態が重なっても、ルイスに焦りはなかった。王族も、神職も、信徒も、たとえ狂人であっても。救いを求める者の心に入り込むのはいつだって容易いのだ。この春のうららかさのせいで、ベネッタは心に不要な傷を負ってしまった。だがそれさえも追い風にして、事を成す自信がルイスにはあった。
──百合を踏みつける愉しさ、か。
後ろ髪を引かれるような想いが、ルイスの心臓をさわりと撫でつける。狂った信徒に向けた怒りのうちの幾らかは、ルイスの腹の底から湧き出たものであったからだ。
「ルイス先生、また私と会ってくださいますか?」
震える声が、ルイスの意識を引き戻した。見やれば問いかけるシリウスは、わずかに頬を赤らめている。
「もちろんだよ。共に行こう、シリウス」
寄り掛かることでしか生きられない人間の弱さと脆さに、つくづく嫌気を感じながらルイスは答えた。撫でつけられたばかりの心臓は、今もまだ不快な痛みをまとっている。
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