17.刺草。その献身のかたちは。





 気怠い朝。フランシスカの目覚めは憂鬱に包まれていた。彼女は枕元の眼鏡を手繰り寄せることもせず、中空に大きな溜め息を吐き出す。両腕に抱えきれないその失意は、果たして誰に向けられたものだろうか。書架の要塞が纏った幾千万の紙の匂いの中で、ルイスとベネッタの顔を交互に思い浮かべては思慮の海に沈み込む彼女だった。


 ベネッタが許されざる恋に落ちた相手は、この世の愚かをすべて集めて煮詰めたような男だ。なんと見る目の無い幼馴染なのだろうと、ベネッタを軽蔑してしまえれば楽になれるかもしれない。盲目にも等しい青紫色の瞳に、生まれ出づる失意を捧げようとフランシスカは試みた。


 だが消えない。フランシスカがベネッタに抱え続けた愛おしさは、ほんの少しさえ揺らいではくれなかった。それどころか、庇護欲を感じて不謹慎にも燃え上がりすらしたのだ。薪を焚べられた暖炉の炎のように強く、彼方の暗闇まですべて照らすほどに明るく。


 それならば、失意の対象はルイスである。背徳の限りを尽くす大神官ルイスにこそ、フランシスカは失意を抱えているに違いなかった。だがこの考えは、逡巡するまでもなく即座に否定されてしまう。


 フランシスカは目を細めた。何を今更、彼の行いに落胆することがあるというのかと。あの男を初めて目にした瞬間から、私はその邪悪を感じ取っていたではないか、と。


「ごめんねベネッタ。自分の弱さが嫌になるよ」


 そう独りごちると、フランシスカの青白い頬に涙が伝い落ちた。心臓を握り潰してしまいそうなほどの無力感が、その自問自答に答えを導き出したのだ。最初から、分かりきっていたはずの答えを。


 フランシスカの失意は、他ならぬ自分自身へと向けられているのだった。それは失意にして失望であり、自らを鼓舞するにはあまりにも昏い感情である。今も左の耳たぶに残った濃密な死の匂いが、向かい合う敵の恐ろしさを告げていた。


「……私は、私が嫌い」


 か細い声は、朝の静寂にすらかき消されそうなほどであった。端的な呟きは空虚そのもので、敗北の余韻は底なし沼となってフランシスカを呑み込んでいく。


 ベネッタの想いがルイスに向けられている以上、フランシスカは孤独な戦いを覚悟していたつもりであった。だが彼女の予想していたは、ここまで直截的なものではない。予測されたそれはもっと抽象的で、更には歪曲的な、ベネッタの心を取り戻すための長い戦いのはずだった。


 良くないものに魂を惹かれてしまった幼馴染を、悪い夢から呼び覚ますための。

 偉大なる主マールスを信じ切れずにいる同胞はらからを、清く正しい道へと連れ戻すための。


 しかし牽制の域を易々と飛び越えた昨晩のルイスの行動は、フランシスカの覚悟と策略の至らなさをありありと曝け出した。牙も闘争心も打ち砕かれた彼女は、あまつさえ敵の前に醜態を晒してしまったのである。


 ルイスの背中が遠ざったあとの記憶は朧気であった。このまま怠惰な朝を過ごして、悪い夢に魘されたのだと自分に言い聞かせてしまいたかった。まだすぐそこにある夢の淵から、惰眠の遣いがフランシスカを呼びつける。もうこのまま何もかもを忘れて、茨の姫君のように眠り続けるが良いと。


「マールス様。愚かな私に、どうか干天の慈雨を」


 このまま怠惰な朝に埋もれることが、熱心なアニファラカ教徒であるフランシスカに許されるはずもない。深雪のように降り積もった憂鬱をすべて跳ね除けて、彼女は祭服に身を包んでいく。


「考えるの。あいつの欲しいものは何?」


 もっともらしい答えの一つはベネッタだ。ルイスが獣じみた欲望を晴らすためではなく、本当に一人の女性としてベネッタを想い慕っている可能性。抱えた想いの大きさから、勢い余ってあの信徒を殺めてしまったのだとしたら。大切な想い人を傷付けた暴徒を、どうしても許すことができなかったのだとしたら。


「違う。少なくとも、あいつが人を殺めたのはこれが初めてじゃない」


 蟲のように背中を這った怖気おぞけが、狂気に染まった暗い声音が、三日月のように微笑むあの目が、フランシスカにそう確信させた。そこに一切の理屈は存在せず、もちろん証明することも叶わない。だがフランシスカには一点の曇りもなく、ルイスの手が多くの血に染まっていると確信できたのだ。


 たった今から、肌身離さずナイフを身に着けよう。木桶に溜めた冷水に顔を浸して、きんとした痛みの中でフランシスカはそう決意した。奇しくもその小刀は、教会に請願を立てた日に与えられたものである。鏡のように光を弾く白銀しろがねの刀身。巨悪に立ち向かうにあたって、これ以上に相応しい護身刀はない。


 ──先走っている。


 自身を咎める声が内側から響いた。このままフランシスカがルイスの邪悪に目を瞑れば、神官としての規律正しい日々は続いていくだろう。ベネッタの盲目な恋心を放置すれば、この先に劇的な出来事など起きないのかもしれない。


 だが。


「ベネッタ、あなたの欲しいものは何?」


 意志の強い眼差しで、フランシスカは虚空に問いかけた。気の抜けた賛美歌を歌う彼女の、揺れ惑うその魂を想いながら。


「私が欲しいものは、あなただから」


 だがこのままでいては、フランシスカがベネッタを失うのは明白であった。気の抜けた賛美歌を歌う彼女が、いつかこの教会堂を去ってしまう日さえも見え隠れする。教会の庇護を失くせば、身寄りのない彼女がこの貧困国家で生きていくのは難しいだろう。娼館にでも身を沈めて、路地裏で手を招く彼女を見たくなどない。


「あいつの目的が、たとえ何であっても」


 弓を引き絞るように狙いを定めて、その首筋を一突きすれば良いのだ。その結果ベネッタと引き離されて、過ちを犯した罪人として裁かれようとも。フランシスカにとってそれは、最悪の結果などではないのだから。


 悲壮なまでの決意が、フランシスカを奮い立たせた。マールスの加護を信じる心が、凛々しい勇ましさを彼女に呼び戻すのであった。




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【神官ベネッタは羊を喰い破る。】 五色ヶ原たしぎ @goshiki-tashigi

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