第一部

01.告解。そして信仰と疑心。





 大陸を二つに分断する一連ひとつらの山脈を隔てて、北の最果てに位置する宗教国家ヴェルニ。一年の大半を『冬』と呼ぶべき季節に占められた小国では、暖を取るための薪やオイルが何よりも重宝されていた。国花には希少な春の花であるアイリスが定められ、虹の女神を意味するその青紫色の花弁は、厳寒の地に生きる人々を励ます希望と幸運の象徴として親しまれている。


 長過ぎる冬のとある祝祭日。その日も例に漏れず、灰色の空には寒風が吹き荒んでいた。低く垂れ下がる雲を刺し殺そうとせんばかりの尖塔の外壁を、無数の雪の礫が懸命に覆い隠そうとしている。白くぼやける雪化粧の所々から覗く幾何学的な紋様は、尖塔を伸ばすその建物が『教会』であることを示していた。


 凍える風が肌を刺す聖堂。豪奢なステンドグラスが取り込む雪空の光は弱々しく、しかし万華鏡にも似た色彩を伴って至聖所を訪れる人々の目に希望を映し出す。先刻まで高らかに鳴り響いていたパイプオルガンの脇に伸びた通路の先を行けば、人目を憚るようにひっそりと懺悔室が設けられていた。


「告解の儀を始めます。迷える子羊よ、さぁ心にあるがままの言葉を」


 深い蒼色の祭服に身を包んだ神官ベネッタは、努めて低い声を発して信徒を促した。どこか憂いを帯びた青紫色の瞳は、アイリスの揺れる春の丘陵を思わせる。その美しさたるや極上の色彩であったが、薄い木製の壁に隔たれている神官と信徒は、向かい合う相手の顔をお互いに窺い知ることができない。


 だが声を通すために開けられたいくつかのあなから伝う息遣いで、ベネッタには察しがついていた。夜が近付くにつれて激しさを増す降雪の中、わざわざ罪の告解に訪れた信徒が年端もゆかぬ女であると。嗅覚に神経を集中させれば、心なしか甘ったるい匂いが混ざっている気もした。信徒はおそらく、ベネッタと同じくらいの年嵩であろう。


 向かい合う信徒がすぅと息を呑む音に続いて、沈黙と静寂が降り注いだ。経験の浅い神官であれば待ち草臥れてしまうほどの長い間を経て、ごくりと生唾を嚥下する生々しい音。


「シスター、どうかお聞きください。私は新しい命を授かりました。赤子は今もこの腹の中で、私と出会うその日を待ち侘びているはずです」


 ベネッタはシスターと呼ばれたことにかすかに歯噛みしつつ、だが短く抑揚のない相槌を返した。告解者には神官の名前はおろか、性別さえも告げられてはいないからだ。ベネッタが女であることを悟られたくないのは、決してくらいの高さを演出したいからではない。


 ──この懺悔室で信徒と向かい合う自分は、主に等しい存在であるべき。


 物心ついた時から教会に身を寄せているベネッタは、常日頃からそう考えていたのだ。偉大なるあるじ『マールス』は、性別などとうに超越した存在である。ならば気を抜けば幼く響く甲高い声も、月経の前になると苦しく張り出す乳房も、信心深いベネッタにとっては不要なものであった。


 ベネッタは目を閉じて心の揺らぎを追いやると、先ほどよりも更に低い声を意識して言う。


「主はすべての赤子を祝福します。続けなさい。あなたはまだ、己の罪を告げていない」


 そう指摘すると再び長い沈黙が流れた。若い信徒が覚悟を決めるためのものであろう。目を開けたベネッタは、ぼんやりと眺める壁の木目にいくつも人の顔を思い浮かべた。そうしている限り、心のざわめきが何処か遠い場所へと流れていくことを知っているのだ。


「告解します。これは愛のない子供です。何処の馬の骨とも分からぬ蛮族が私を弄び、無理矢理に孕まされた子供なのです」


 ──なんだそんなことか。


 ようやく絞り出された信徒の声に、ベネッタは心の中だけでそう答えた。幼い頃からあまたの告解を受け止め続けてきた彼女にとって、望まぬ妊娠や堕胎の告白は星の数ほどに溢れるありふれた悲劇の一つに過ぎない。奪われた彼女の純潔に、彼女自身が考えているほどの価値は無いのだ。


 木目に浮かんだ顔がにやりと嗤う。「救えない娘だ」と幻聴さえもが耳に飛び込んだ。だがよわい十六になったばかりとはいえベネッタは今、畏敬するマールスに等しい神官の役目を担っているのだ。主は迷える子羊に、何の迷いもなく救いの手を差し伸べるだろう。


「純潔を穢した蛮族には、必ずや惨たらしい裁きが下るでしょう。そして──」


 ──全ての罪に裁きが下るのならば、私はどうして此処にいるの?


「そしてあなたは穢れなどしない。愛はこれから生まれるでしょう。あなたと、その身に宿った赤子との間に、穢れなく尊い愛が」


 ベネッタの言葉に、信徒は涙声で感謝の意を告げた。薄壁の向こうの彼女が、愛おしそうに腹部を撫で擦る様子がベネッタの脳裏にありありと浮かぶ。


 一つの役目を終えた神官ベネッタは、一人の信徒へと戻り祝詞のりとを唱えた。高らかで揺るぎのないベネッタの声は、寒空の彼方に座しているはずの偉大なる主へと誓いの言葉を紡ぐのだ。


「偉大なる主マールスよ、ひび割れた世界に干天かんてんの慈雨を」

「マールスよ、ひび割れた世界に干天の慈雨を」


 ベネッタの祈りを復唱する信徒の面立ちは、すでに新しい生命を尊ぶ母親のそれであった。






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