02.背信。まるで淫靡な誘惑。





 路地裏の昏く狭い一角に、打ち捨てられた赤子が見つかることはさしてめずらしいことではない。しかしその真新しい命は、すでに事切れている場合がほとんどだ。北の国特有の厳しい気候と乾いた風。その上に石畳の冷たさが加わるのだから、新生児の肉体はわずか半日であっても持ち堪えることが難しいだろう。


 だからこそベネッタは、奇跡を信じることができた。経済状況が悪化の一途を辿るばかりのこのヴェルニで、産みの親に遺棄された彼女自身もまた貧困の被害者であったのだ。だが少なくともベネッタは、『教会』の保護を受けてあの路地裏からの生還を果たしたのである。これが奇跡でなければ、果たして何を奇跡と呼べるだろう。


「浮かない顔だねベネッタ。もしかするとうまくいかなかったのかい?」


 大神官ルイスの問いかけが、物思いに耽るベネッタの意識を引き戻した。彼はベネッタの琥珀色の髪を指で梳きながら、言葉とは裏腹に薄い笑みさえ浮かべている。とてもではないが、ベネッタの表情の翳りを心から案じているようには見えない。


「すみませんルイス様、少し考えごとをしていました」

「君も年頃だものね。僕も君くらいの頃には、色々と思い悩んだものだよ」


 夜半の厳しい冷え込みを、寝室のオイルランプが少しだけ和らげている。ベネッタの左胸に這うように潜り込んだルイスの右手は、その中心を執拗に撫で擦った。自らの意思とは別の場所から沸き上がる快楽にベネッタが身を捩らせると、粗末なベッドのコイルが軋む音が、どこか滑稽に響くのだった。


「思い悩んだ末に、これでしょうか?」


 ベネッタの華奢な手が、ルイスの右手を押し退ける。彼の涼し気な面立ちを思いきりめつけるベネッタだったが、ルイスがこれに臆する様子はない。それどころか、二回りも年の離れた少女が向ける軽蔑と侮蔑の眼差しを楽しむかのように、屈託もなく笑うのだ。


「思い悩んだ末に成長したのさ。今ではこう思っているよ。座っているだけの簡単なお仕事です──ってね」


 先ほどの告解の儀から数時間を経て、ようやく胸の底に沈もうとしていたベネッタの心の澱を、ルイスは意図的に掻き回した。神官たちのそれぞれに割り当てられた部屋に忍び込んでまで、彼は一体どんな嫌がらせをしようというのか。再び浮上した迷いや虚しさが、ベネッタの幼気いたいけな表情を歪めていく。


「ルイス様。大神官にあるまじき不道徳な発言と行動を、どうか恥じてください」


 アイリスを連想させる青紫色の瞳には、明確な苛立ちの炎が燃えていた。自分自身を含めた数十人の神官を束ねる立場にあるルイスを、ベネッタは背信の徒としたくないのだ。しかしルイスは彼女の忠告など何処吹く風で、寝転んだ三日月のような目をして上機嫌に言う。


「いいかいベネッタ。信徒たちはね、神の遣いである僕らに人間性なんて求めていないんだよ」


 ルイスが立ち上がると、ベッドのコイルがもう一度軋んだ。このまま寝室から立ち去ってしまうかもしれない彼の姿に、ベネッタの心の何処かも軋む音を立てる。それこそ滑稽だと、薄ら寒い感情をベネッタは噛み殺した。


 そして問いかける。絞り出した声の震えは、あまりにも情けないものであったが。


「……ルイス様は、どうしてそのように罪深いことを仰るのですか」

「罪深いだって? それは心外だよ。僕は今だってこう願っている。ひび割れた世界に干天の慈雨を。そして君にも、干天の慈雨が降り注がんことを」


 ──ああ、なんと罪深い祝詞だろうか。


 ベネッタはルイスの言葉に、まるで心の奥底を覗き込まれたかのような錯覚を覚えた。あるいはこう換言することもできる。彼女は罪悪感を覚えたのだ。


 ひび割れた世界。そう唱えるたびに、ベネッタの中には呪わしい気持ちが生まれるのだった。主マールスは果たしていつまで、このひび割れた世界を放置なさるのだろうかと。私が路地裏に打ち捨てられたその日から今日に至るまで、干天の慈雨が降り注いだことがただの一度でもあっただろうかと。


「分かりません。私には、何も」


 そう呟いてベネッタは、心を鎖すように項垂れた。ルイスは物言わぬままで、彼女の次の言葉を待っている。その構図はあたかも、懺悔室の中の神官と信徒のようであった。


「分かりません……。ですが、もしかするとそうなのかもしれません」


 俯いたベネッタの視界の外で、ルイスがにまりと口元を上げる。


「何がそうなのかなベネッタ。聞かせておくれよ、君の心にあるがままの言葉を」

「もしかすると民は、私たちが生命の泉マナプールから自然に湧き出たものか何かと勘違いをしているのではないでしょうか」

「確かにそうかもしれないね。けれど、君が今言いたい言葉はそれじゃないだろう?」


 ルイスの片膝がベネッタの視界に入った。彼はいつの間にか、主君にかしずく従者のようにこうべを垂れている。


「ルイス様。フランシスカならば、信徒をもっと正しく導くことができるのでしょうか」


 ベネッタは主マールスへの不信感を、すんでのところで旧友への羨望に挿げ替えた。神々が生まれるとされる生命の泉マナプールではなく、同じ路地裏に生まれ落ちた赤髪の彼女。旧友であり幼馴染でもあるフランシスカの名は、口にするだけでベネッタの心を支えてくれる。


 フランシスカの存在は、ベネッタが奇跡を信じることのできるもう一つの理由だった。


 ──たいしたものだ。


 感服にさえ等しい言葉を口の中でだけ転がして、ルイスはこう答えた。


「フランシスカならば、そうだね。獄の地から這い出た大罪人でさえも、導くかもしれないね」




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