03.駄弁。その啓発は警鐘か。





 希少価値の高い洋書に綴られた文字を、ベネッタは解読することができない。しかし彼女の真向かいに腰掛けているフランシスカは、大きく躓くこともなくこれを読み進めていた。フランシスカは線の細い眼鏡のつるに指を掛け、ぐいと押し上げるついでとばかりに、眼球の動きだけでベネッタを窺う。


 フランシスカは威圧の意味を込めて、そのような仕草を何度か繰り返してみたのだが、対するベネッタは特に気にする素振りもなく、読書する旧友の様子を観察していた。フランシスカに牽制されるどころか、ベネッタの胸の内には名状しがたい誇らしさがあった。聡明な面持ちで遠い異国の書物を読み解いていく幼馴染の姿に、羨望にも似た想いを抱かずにはいられないのだ。


「ねぇベネッタ。あんまり見られると気が散るんだけど、あなたが知りたいのはこの本の値段かしら? それとも中身?」


 端の欠けたページに行き当たったフランシスカは、小さな嘆息たんそくと共にそう問いかけた。彼女の溜め息のおおよそ半分は、傷んだ書物に向けられたものだ。この不自然な破れ方は、露店商の男が雑に取り扱ったに違いないと考えたのである。


「フランのお給金が、本に溶けていくのはいつものことだものね」

「あなたが質問に答えないのもいつものことよ」


 フランシスカの色素の薄い瞳が、咎めるようにベネッタを見つめた。そう言われてしまうと、ベネッタには返す言葉がない。意図的な時も無意識の時もあれど、指摘された通りベネッタには答えを先延ばしにする傾向があるのだ。昨晩の大神官ルイスとの会話を思い返しながら、心当たりだらけのベネッタはやはり反駁の言葉を見つけられずにいる。


 視線に堪えられなくなってフランシスカの部屋を見渡せば、給金の大半をつぎ込んで得た書物の数々があった。それらは決して乱雑に積み上げられているわけではなく、その一冊一冊が収めるべき棚にきちんと収められている。


 だが、寝食をこなすためだけの狭い部屋に本棚はなんと六本。蒐集癖が過ぎるのではないかと心配になるほどであるが、濫読家である彼女から書物を取り上げれば、生気そのものを失ってしまうことだろう。


「気の抜けた賛美歌」

「え?」


 フランシスカの唐突な言葉に、ベネッタは本棚を彷徨っていた目線を戻した。


「今朝のあなたよ。とても気の抜けた賛美歌だった。思い詰めた信徒から、罵詈雑言でも浴びせられたのかしらね」

「違うのフラン。そう、少し風邪気味で、喉の調子がね」


 聖堂を吹き抜ける冷たい風の厳しさを、フランシスカも知らないわけではない。だが必要以上に慌てふためくベネッタの態度は、たとえ相手が彼女でなくとも訝しさを感じるには充分だった。


「そう、違うの。だったらあなたは昨日の懺悔室で、おそらくこう考えてしまったのね。『テメーのくだらない悩みなんて、わざわざ聞く価値もねぇよ』って」


 卑俗な言葉遣いであっても、フランシスカの表情は変わらなかった。その半面、向かい合うベネッタの表情は青褪めている。フランシスカの頭の回転の早さは、教会の誰もが一目置くところであったが、更に読心のすべまで心得ているとなれば、ベネッタが自分のタイミングで悩みを切り出すこともできない。


「……どうして分かるの?」

「ベネッタが私に気を許しているからよ」


 気恥ずかしくなるような台詞を吐いても、フランシスカは相変わらず無表情だった。ベネッタは彼女の掌の上で転がされているような気がして、なんとも居た堪れない心地を味わう。


「フランだったら、本当に導いてしまいそうね。それこそ、獄の地から這い出た大罪人でも」

「何それ。ルイス様が言いそうな気障な喩えね」


 何もかもを言い当てられたベネッタは、今度こそ心の中で白旗を上げた。自らの胸の内で澱み続けるこの不信心を、果たしてどう切り出そうかと考えていた自分が馬鹿らしくなる。


「ねぇベネッタ、どうしてこの国がこうも貧しいのか知ってる?」


 ベネッタが平常心を取り戻すよりも早く、フランシスカがそう問いかけた。まるで今思いついたと言わんばかりの軽い口調であったが、薄いレンズの向こうでは意味ありげに瞳を細めている。


「それは気候のせいでしょ? あまりにも厳しすぎるもの」


 この分かりきった質問に、一体何の意味があるのだろうか。そう思いつつもベネッタは答えた。何しろヴェルニは、世界最大の大陸サガンの北の最果てに位置するのだ。すべての生命の繁栄を拒む強烈な気候は、農作物の発育だけではなく建築や流通の分野においても多大な障害を齎している。


 ぱたんと音を立てて、机の上に開かれていた洋書がこれ見よがしに閉じられた。正解の二文字を期待していたベネッタに、フランシスカは本日初めての笑顔を見せて言う。


「ふふ、これは問題が簡単過ぎたわね。答えはもちろん、よ。私たちがいる限り、このヴェルニが発展することはないわ」


 真意の見えないフランシスカの言葉に、ベネッタの心はざらついた。そして身構える。同じ路地裏に生まれ落ちた幼馴染は、私を果たして何処へ導こうというのだろうと。




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