04.凍傷。あるいはもう手遅れの。
迂遠な物言いに覚えた苛立ちを悟られまいと、ベネッタは努めて柔らかな眼差しで話の続きを促した。ベネッタとフランシスカの存在がこの国の貧困の元凶であるだなんて、既知の中であれど戯れ言が過ぎるというものである。
とはいえ、ベネッタはこうも理解している。書物の海を愛する神官フランシスカが、知恵と知識の申し子であると。そもそも彼女は、本質として冗談を好まない。時に冗長が過ぎるものの、駄弁だと思われていたフランシスカの話の多くは、予め決められた着地点へと収束する。
「勘違いしないでベネッタ。私たち、というのは何も、あなたと私に限った話ではないの。私が言っているのは、この教会に籍を置くみんなのこと。それからね、この国に点在する六つの教会に籍を置く、すべての神職者たちのこと」
「……よく分からないけれどね。フラン、これってもしかして、我らが
フランシスカが醸し出す言いようのない不気味さが、ベネッタの肺を押し潰そうとする。思わず訥々となってしまった自らの問いかけは、猛獣を目の前にした小動物のようでさえあった。
「そう、そういうところよ。あなたのその思考回路こそが、貧困の根源。何一つ生産性の無い不毛な毎日を送りながら、マールス様の高尚さと経済のお話を分けて考えることもできない」
ベネッタを挑発するような言葉を吐きながらも、フランシスカは胸の前で小さく両手を合わせた。見えざる主マールスへの忠誠と信仰を表したままで、フランシスカは続ける。
「薄暗い教会の中を隅々まで洗い清めて、発育の悪いお花のお世話をして、そうね、素敵な賛美歌を毎日歌うわ。わずかばかりの畑を耕して空腹の足しにして、懺悔室では出口の見えない独白を聞く。時には学び舎に赴いて、聖書や絵本の読み聞かせもするわね」
どこか上の空で語られたそれは、ベネッタたちの揺るがない日常だった。粛々と繰り返されてきた神職者たちの暮らし。憐れみと達観とが綯い交ぜになったフランシスカの表情が、ベネッタの瞳に芝居がかって映る。
「何が、言いたいの。まさかあなたは、すでに堕落してしまったの?」
「冗談はよしてよ。私は私の信心深さを誇っているの。どこかの誰かさんみたいに、気の抜けた賛美歌を歌ったりしないわ」
いつの間にか握りしめていたベネッタの拳に、さらに力が込められた。激昂して怒りをぶつけることができないのは、ベネッタが後ろめたさを強く自覚しているからだ。
「……許さない。マールス様を冒涜するのは」
──違う。主を冒涜しているのは、決してフランじゃない。
「論点をすり替えるのは、愚か者がすることよベネッタ」
ベネッタは以前に、賢者と愚者は紙一重なのだと聞かされたことがあった。そう語って聞かせたのは、他ならぬフランシスカだ。ここまできてベネッタは、ようやく真実に思い至る。
──ああ、フランの迂遠なお話は、とっくの昔から始まっていたのね。
「フラン、やっぱりあなたはすごい。私は……愚かな私は、あなたを素直に称賛してあげられないけれど」
「いいえ、私が普通なだけ。多くの国ではね、私みたいなのが当たり前なの」
異国の暮らしを、そこで暮らす少年や少女たちを、ベネッタは思い浮かべることができなかった。それもそのはずである。ヴェルニに流通している書物には、教会による厳しい検閲がなされているのだから。
生まれて初めて、ベネッタは尋ねてみたいと思った。流れ者や行商人たちから買い集めたフランシスカの蔵書には、果たして何が書かれているのかと。
フランシスカの細い指先がゆっくりと伸びて、ベネッタの頭を撫でた。レンズを隔てた彼女の瞳は、ベネッタへの慈しみに満ちている。
「ねぇベネッタ。あんまり見られると気が散るんだけど、あなたが知りたいのはこの本の値段かしら? それとも中身?」
少し前の問いかけを、一字一句違わずにフランシスカは繰り返した。悪びれることもなく微笑む旧友に、ベネッタは薄ら寒ささえも覚える。一体どれほどの頭脳を持っていれば、このような芸当ができるのだろうと。
「……私が知りたいのはね、フラン」
大神官ルイスの言葉は、あながち間違いではなかったのだ。確かにフランシスカならば、獄の地から這い出た大罪人でさえ導くであろう。しかし少しだけ訂正せねばなるまい。彼女はきっと、聖人を獄の地へと導く者なのだから。
「その本の中身よ。本当はずっと、ずっとずっと知りたかったの」
そう告げると、ベネッタは一気に泣き崩れた。何故ならその言葉が、罪の告解に等しかったからだ。干天の慈雨を待ち望むベネッタの心は、とうの昔にひび割れて砕け散っていた。懺悔室で信徒と向かい合い茶番を繰り返す度に、ベネッタの信仰はとうに揺らいでいたのだった。
やわらかな薫りがベネッタを包み込む。いつの間にか傍に立つフランシスカが、幼子をあやすようにベネッタの身体を抱きすくめていた。
「ねぇベネッタ」
耳朶をそよぐ優しい声に、ベネッタは縋るような想いで顔を上げた。抱擁を続けるフランシスカは、ベネッタの中で今、主マールスにも等しい。
「この国の時間はね、教会の手によって氷漬けにされているの」
ベネッタの心に、ひとしずくの慈雨が落ちた。
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