10.倒錯。とある出会いとやわらかな欲望。





「せっかくだから、少し歩いて回ろうか」


 極めて自然な素振りで、ルイスはベネッタの片手を自らの腕に絡ませた。寄り添い腕を組みながら歩く二人は、豪華絢爛を絵に描いたような広間に完全に溶け込んでいる。


 そうした中でベネッタは、自らの火照った頬を覆い隠す、青い蝶の仮面を頼りに覚悟を決めた。招かれた客人たちと当たり障りのない挨拶を交わしていく彼女は、れた匿名の場でルイスのパートナーとして見事な振る舞いをしてみせたのだ。


「このような感じで良いのでしょうか。何か失礼がありましたらいつでも仰ってください」


 ベネッタが小声でルイスに尋ねた。この期に及んでも彼を敬う態度を崩さない彼女を、ルイスはほんの刹那だけ愛らしいと思った。先ほど口にした蒸留酒が、脳をそう錯覚させているだけであることを彼は願う。


「いいや、君はとても立派にやってくれているよ。文句のつけようもない。許されるならば、この場でたっぷりと愛でてあげたいほどだ」


 甘く囁くルイスの底には、愛情と相反する耐えがたい破壊願望があった。彼がよく慣れ親しんだこちらの感情は、高熱を孕んだ鉄のように赤々と煌めいている。触れればたちまちのうちに灼け爛れてしまうであろう醜い欲求は、うら若きベネッタの心と躰をもっと深く欲していた。


 ルイスは知っている。主マールスがこの上なく無能であると。なぜならばマールスは、罪深き彼を獄の地へ導くことはないのだから。


「今晩はなんだか夢のようです。新しい私になれる気さえします」

「はは、それは困ったな。僕は今の君だからこそ熱を上げているのだけれど」


 人目を憚ることなく、ベネッタのくちびるに短い口づけが落とされた。それは掠めるほどのぬくもりであったはずのに、お互いの全身に隅々まで行き渡る。情交を結ぶよりもずっと甘美な時間は、ルイスが思わず本来の目的を忘れそうになるほどだった。


 彼は「さてそろそろ」と仕切り直して続ける。

 布石のひとつに躓くわけにはいかないのだ。


「火の鳥のように燃え盛る仮面。彼は手紙でそう言っていたかな」


 つまりルイスを招いた友人は、そのような仮装をしているらしい。催しの主催者が用意した仮面を利用するのはおよそ半数ほどで、残る半分はこだわりを持って自前の仮装をしているのだ。ルイスは華やかな人の流れに、燦爛さんらんたる装いの彼を探す。


「ルイス様。もしかするとあのお方ではありませんか」


 ベネッタが控えめに促す先には、金属箔の散りばめられた光輝な出で立ちをした男が立っていた。白よりも白いシルク生地に、ぶち撒けたのではと疑わしいほどに大量のスパンコールが煌めいて眩しい。その顔は燃ゆる不死鳥を象った真っ赤なマスクで覆われており、鳥の尾を意識したのか白銀の耳飾りが左右の耳朶から細長く垂れ下がっている。


「これはこれは。言葉を失うほどに派手だね」


 間違いなく正装ではあるのだが、少々行き過ぎている感が否めない。貴族の社交場でなければ、万人から奇異の眼差しを誘うであろう。ルイスは仮面の下に複雑な表情を押し込め、その肩を優しく叩いた。振り向いた彼に、一瞬だけ自らの仮面をずらして見せる。


「ルイス先生!」

「やあ、しばらくだねシリウス。だけどあまり大声で人の名を呼ぶものじゃないよ」


 まるで少年のように感激の声を上げる男を、ルイスはシリウスと呼んだ。ルイスに窘められたシリウスは、ここが仮装の場であるということを思い出して声量を改める。


「失礼しました。先生にお会いできた喜びのあまり、つい……」

「いや、いくつになっても純粋さを失くさない君の感性を、僕は素直に尊敬している」

「ありがとうございます。して先生、こちらの女性は?」


 今の今まで気がつかなかったと言わんばかりの様子で、シリウスがベネッタについて尋ねた。シリウスの知る限りルイスはひとりものであったから、つまりは恋仲と見て間違いないだろう。社交場において、あえてそれを訊くのも礼儀のひとつと言えなくもないが、まずは自らが名乗るのが一流の礼儀というものである。


 しかし彼に、この場で至らなさを指摘するのも酷というもの。


「こちらはベネッタ。僕が任されているセルカレイド教会堂で、勤勉なる神の使徒として純朴な毎日を送っている。我が教会の誇るとても優秀な神官だよ」

「よろしくベネッタ。仮面の下で初対面の挨拶を交わし合うのは、なんだか滑稽だけどね」


 友好の握手を求めるシリウスの右手をそのままに、ベネッタは仰々しくこうべを垂れた。蝶の仮面の下の彼女は、夢心地から一転して顔面蒼白となっている。ルイスに褒め讃えられた気恥ずかしさも、恋い慕う相手として紹介してもらえなかった寂しさも、今ばかりは二の次であった。


 それもそのはずだ。


 ベネッタの聞き違いでなければ、ルイスは燃え盛る仮面の彼を「シリウス」と呼んだのだ。このヴェルニに、その名を持つ者は二人といない。


 次期国王にあたる第一皇子シリウス、その人を除いては。


「紹介するよ、こちらはシリウス。僕の古き良き友だ。とはいえ僕はこの年齢だからね。歳の近い君には、是非ともシリウスと良い付き合いをしてやってほしい」


 なおもベネッタは、下を向いて青褪めたままである。たとえここが宗教国家であろうとも、王族の権威と権限は絶対なのだ。面と向かって「友人」などとのたまうことが、決して許されるはずがない。


 ルイスは、おそらく口の中が乾ききってしまったベネッタを慮るように、その背を撫でさすった。更には慈愛に満ちた声で、けれども凛とした口調で、こう続けたのである。


「ベネッタ、これだけは覚えておいてくれ。彼は特別扱いが大嫌いなんだ。そうだったよね? シリウス」

「はい、ルイス先生の仰る通りです。顔を上げてくださいベネッタ。私はシリウス、ただの未熟者ですよ。せめてこの仮面を身に着けているあいだくらいは、自らの宿命を忘れていたいと願う弱き者です」


 ベネッタが恐々こわごわと顔を上げると、差し出されたシリウスの手は行き場を失くしたまま中空にあった。彼女は華奢な手のひらで、シリウスのその手を握り返す。血豆のひとつも知らない柔らかな皇子の手には、ベネッタよりも少しだけあたたかな体温が宿っていた。




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