09.酔狂。かりそめにあやかれば誰もが等しく。
街路に戻れば日はすでに暮れ果て、真冬と変わらぬ凛とした
彼はお世辞にも清潔とは呼びがたい身なりであり、意識して観察すればそこはかとなく異国の薫りがする出で立ちだった。王兵に素性を尋ねられれば、「異国かぶれなもので」と白々しく頭を下げることだろう。
「フランシスカ!」
ここにいない彼女の名を呼びながら、ベネッタは露店の元へと駆け寄った。この行動に思わず面食らうルイスだったが、今にも片付けられようとしていた売り物を見て得心する。草臥れた洋書の数々はなるほど、知識を愛するフランシスカに相応しい土産物である。
「あいにくだけど新品はねえよ。嬢ちゃんに売るような品物はひとつもねぇ」
煙たがるような男の口調は、ベネッタを冷やかしだと決めつけているに違いなかった。上流階級の娘が興味本位で覗きに来たところで、お互いに嫌な思いをするだけだとこれまでの経験から知っているのだ。
「すまないが少しだけ見せてやってくれないか。彼女の友人は大層な濫読家でね」
「あん? 本の虫ってやつか。一冊でも買ってくれるんならそれで構わねえが、だけどよ」
ルイスにそう答えたものの、男はもごもごと先を濁した。つまりここに並んでいる売り物の多くが教会の検閲を免れた洋書であり、無遠慮な言い方をしてしまえば禁書と呼ばれている品々だということだ。しかしなればこそ、フランシスカが最も興味を示すであろう異国の文化をふんだんに記しているはず。
「ベネッタ、好きなものを選びなさい。けれど沢山は駄目だよ。大荷物はこの後の行程に差し支える」
ルイスの厚意を喜びつつも、ベネッタは自らの手持ちから二冊の書籍を購入した。重々しい装丁をした一冊はフランシスカに。そして赤茶けたもう一冊は自分用に。そのどちらにも異国の文字がずらり並んでいて、彼女に内容を理解することはできなかったが。
「毎度。物好きなお友達にも礼を言っといてくれ」
そう告げて退散する男は、稀有な趣味趣向を持った客人たちがまさか教会の者であるなどとは夢にも思わない。それどころか毒気ない眼差しのベネッタを前にして、高値を吹っかけることすら忘れる始末であった。
「ルイス様、本当によろしかったのですか?」
ベネッタが不安げに尋ねるのも無理はない。目の前で禁書を購入する神官を咎めるのは、他ならぬ大神官ルイスの役目のはずだからだ。
「何の話なのかさっぱり分からないね。恥ずかしながら僕は異国語が読めないのさ」
ルイスの戯けた態度を見て、ベネッタは買ったばかりの本を抱きしめた。そもそも書物に対する検閲がこうも緩いのには、文化を閉ざしたヴェルニで多国語を解読できる者が数えるほどしかいないことが一因に挙げられるのだ。ルイスが知らぬ存ぜぬを通してくれるのなら、今ばかりはその優しさに甘えていたい。
往来を行く
馬車は緩やかな勾配の坂路を優雅に進み、やがて煉瓦造りの巨大な建物が見えてきた。高く尖塔を生やせば、教会堂と見紛うほどに立派な面構えである。
「何も臆することはないよ。今の君の美しさは世界への免罪符となる」
怖気づくベネッタを案じて、ルイスがまた懲りもせず気障な台詞を吐いた。しかし社交場とやらを初めて訪れる今のベネッタに、これほど頼もしい言葉は他にない。
幌馬車と別れ、ルイスは懐から取り出した招待状を受付の者に見せる。彼の手慣れた様子は、教会で見る姿ともベネッタの部屋でみる姿とも遠くかけ離れていた。ややあって二人は、いかにもパーティーに適した円形ホールの前に案内される。
いよいよ中へ入ろうというその直前に、幾つもの仮面が机上に並べられていた。係の者から、この中のどれか一つを身に着けるようにと説明を受ける。匿名性を維持するために、仮装前の客人同士が鉢合わせしないための配慮も行われているとのことだった。
「ふふ、趣味の悪いお飾りだよ。まぁ僕としてはありがたい。君の美貌にうつつを抜かす者から、君を守ってくれる魔法の仮面だからね」
数ある仮面の中から、ルイスは蝙蝠の羽に似たアイマスクを選び取った。無造作な選択にも見えたが、クラシカルなデザインが漆黒のタキシードによく馴染んでいる。
対してベネッタは優柔不断だ。おろおろと決めかねている彼女をエスコートするように、ルイスが一つの仮面を選んでは差し出した。ベネッタは恐る恐るそれを身に着けると、やはり恐る恐るルイスと向かい合う。彼の柔和な微笑みは、言葉よりも雄弁にベネッタの仮装を褒め称えていた。
安堵の頷きを返して、ベネッタは備えつけの姿見を覗き込んだ。
「……これが、私?」
蝶を象った綺羅びやかなハーフマスクが、ベネッタの口許以外を覆い隠している。それが彼女の瑞々しい唇をより強調していて、妖しさと若々しさの対比がどこか扇情的でさえあった。更には小脇に抱えた洋書が、小道具として作用している。古びれた書物はさながら魔導書のようで、かつて悪しき言葉を操り、主マールスに反旗を翻した凍土の魔女を連想させるのだった。
「さぁ、楽しくなってきたね」
ルイスの言葉が合図であったかのように、複雑なレリーフの刻まれた重々しい扉が開かれる。するとベネッタはまず、豪奢なシャンデリアと真紅の絨毯が放つ眩しさに目を奪われた。ふと意識を耳に向ければ、いつの間にか心地好いハーモニーが流れている。音の出処を見やれば一角に弦楽団が構え、優雅な旋律を奏でていた。
人の数こそまだ疎らであったが、それぞれが思い思いの格好で立食を楽しんでいる。贅の限りを尽くした料理や飲み物の数々は、味の想像すらつかないものが大半であった。
呆気に取られるベネッタは、眼前の光景が本当に、貧困に喘ぐ宗教国家ヴェルニのものであるのかと疑いたくなった。少なくともここは王城ではないのだ。それなのに、路地裏を生きる者たちが一生知ることのない光で満ち溢れているではないか。
「酒池肉林ってやつさ。腹が立たないかい? 僕らの質素な毎日は一体なんなのだろう、ってね」
低く暗いルイスの耳打ちが、ベネッタの肌をぞわり粟立たせた。未だかつて感じたことのない恐怖を彼に覚えて、ベネッタは慌てて隣を確認する。だがルイスはいつも通りの涼しさで、「どうかしたのかい」と小首を傾げてみせるだけであった。
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